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「生涯一人と添い遂げる」は土台無理

「人生には4つの力――『愛』『習慣』『時間』『倦怠』というものがある」と、アップダイクは書いています。「愛と習慣は短期間で考えれば非常に強力な力を持つが、しかし時間は、マイナスの力がいっさい加わらないから容赦なく増えていき、その兄弟である倦怠と手をつないですべてを押しならしてしまう」(※)。

  • ※ 引用は、前出と同じく、岩本巌訳『メイプル夫妻の物語』(新潮文庫、1990)より。

既婚の友人と、ときどき不倫の話をします。夜遅くに(夜遅くまで起きていることは滅多にないのですが)、あるいはやらなければならないことから逃げているよくある午後に、私たちは電話で、「もう新しい誰かと愛し合うことはない」という意見はおかしいんじゃないか? と議論します。しかしながら結局、私たちはその正解となる意見は持っていません。

ある深夜のディナーパーティーで、何をもって不倫とするか? どこで線引きするか? という問題がそのテーブルで話題となりました。酔った勢いでしたタクシーの中でのキス? 他の町でしたフェラチオ? 私たちは、自分ならどうするか? 誰がやったことがあるかと考えて、自分にちょっとした刺激を与えていました。

テーブルの独身者たちは、私たちを厳しい目で見ています。「ほんの少しのキスでも不倫になる」と、彼らは言います。彼らには学ぶべきことがたくさんあります。彼らは不倫というのは、「セックスにかかわるもののことだ」と考えているのです。

不倫の現場
Orlando//Getty Images
不倫の現場

不倫について話すことを、面白がる人ばかりではありません。話に参加していた人の中には、「恋愛をするよりオリーブを食べているほうがいい」と言い切る男性もいました。それは賢明な態度だと思います。彼は私を驚かせましたが、驚いたのと同じぐらい、私は彼を羨ましく思います。私は最近目にする、不倫についてのどこか独りよがりで、道徳家ぶって忠義貞節を言い立てる論調よりも、彼のような考え方のほうが好きです――この考えによれば、不倫のような類のことを楽しむには、私たちは忙しすぎるし、疲れすぎだし、社会に馴されすぎだ…ということになります。こういった考え方に従うと、不倫はアルコール依存症のように、ある種の病的な症候群であり、家系的な要素の強い遺伝上のねじれのようなものということになります。あるいは不倫は、昔なされていた変わった風習で、「50年代の人々が、有料放送のテレビを見る代わりにやっていたこと」とも言えそうです。

しかし実際には、不倫は今も昔も問題であり、痛む歯を探し求めるしつこい舌のようです。結婚においては「徳」が求められますが、徳というものは切断します。切られ失われたものは、人に最も「生きている」と感じさせるもののひとつなのです。欲望というものは無秩序で、何にもかまわない無頓着なものなので、道徳や罪悪感や徳や純潔などとはあまり関係がなく、そうした評価に答える必要がありません。しかし、長い間ずっと触れたいと思っていた相手に触れたときに感じる胸の高鳴りと、変わらぬ愛がもたらす満足感を、矛盾なく平和に両立させる方法はどこにもありません。

家庭内での愛の営みには、他の何とも比べられない深い親密感があります。ですが、この先の人生、ずっとたった一人の人とだけ愛し合うと考えると、頭が痛くなりもします。では、夜中の3時に天井を見つめたり、残り物のティラミスを食べながら互いを見つめ合ったりする以外に、私たちには何が残されているのでしょうか。

私には分かりません。結婚というものは、それがうまくいっているときには愛情や憧れ、怒りや儀式や理解などが複雑に満ち引きする神秘です。そういうときには、正しい相手とであれば、結婚は人生を送る方法として悪いものではないという理解がじわじわと広がります。そこでもし、結婚というものが熱情といくつもの「ファーストキス」を諦めることであるとしたら、それは「小さな死(オーガズム時の失神)」どころではない事態を意味しているように思えます。残されるのはシンプルな選択です――すなわち、自制か裏切りか、充足感かエクスタシーか、土か火か、淑女か浮気女か…です。 

結婚を維持させるために「不倫」を活用

私は「最後の一本を、まだ吸っていないだけ」というふりをしていて、それだけを理由に禁煙を続けています。それと同じように私たちの多くは、抜け穴を空いたままにしておきながらリスクは冒さない、という選択をしています。しかし結局のところ、不倫とは他の誰かとする、昔ながらの実際のセックスであり、「かなりくだらない問題」とも言えます。

私が知っている最高の結婚のひとつで、こういう夫婦がいます。その夫婦のどちらも精神的な健全さ、自尊心、思いやり、仲間意識などが何の不安も感じさせないレベルにあります。彼らの結婚のスタイルはというと、婚外恋愛を賢く活用することで相手の狂気をしっかり囲っておき、その囲い越しにお互いに会うようにしているのだそうです。確かに互いに貞節は完全に守っているが、その結婚に対する意味ある解決策が、相手を殺してその後自分も自殺することにしかないような結婚を、私はいくつも見てきました。

私たちのほとんどにとって、不倫は自分たちの結婚のステージとステータスを測定するものです。テーブルを囲んで座っている私たちはだいたい、「自分を若い」と考えるには年を取っているし、自分を老いていると考えるにはまだ若い、という厄介な年齢にあります。私たちがこのテーマに関心を寄せるのには、世代間の継承という側面もあります。ウッドストック(フェスティバル)の恍惚とした忘我は、私たちが自分を評価するための基準となっています。今20代の人たちは、私たちの頃よりも厳しい学校で育ち、最初に目にしたものよりもっと良いものを探し求めようとする姿勢を持っています。彼らとは違い、私たちは満足を追うのではなく、崖っぷちのスリルを追い求めていました。

この10年、いわゆる「スターター婚」(※)が急増しましたが、これは春のように短いものです。私の同族たちなら、同棲で我慢していたところです。私たちが結婚にたどり着いたのは遅くて、しかも恐る恐るでした。おそらく一方の人格の境界が、それと分からぬうちに、もう一方の人格に滲み出るような、そんな滑らかで調和した2人になるには、私たちの結婚はあまりに遅すぎたのでしょう。

  • ※ スターター婚(starter marriage)とは、若い世代の間で見られる、短い期間で終わりを迎える初婚のこと。より継続性のある別のパートナーとの次の結婚のための一種の準備形態とみなされた。1994年、「ニュヨークタイムズ」の記事で初めて本現象が取り上げられた

私たちのうち大部分の人々にとって、不倫は自分たちの結婚のステージとステータスを測定するものです

そうなると私たちにとって、不倫は断念したもの、経験が持つ実存的な意味、何にも縛られない行動、プライバシーと独立の主張といったもののメタファーとなります。イーディス・ウォートンの『エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事』(※)の中で、主人公が結婚を約束した女性のために、愛する女性を諦めた後で抱く、慰めにならぬ慰めが出てくるのですが、不倫はこのような冷たい慰めから身を守ってくれます。

「長い間いっしょに暮らしてきた結果、結婚が退屈な義務であっても、義務としての尊厳が保たれている限り、大した問題ではないことがわかってきたからだ。それから逸脱すれば、結婚は醜い欲望の単なる戦いに成りさがるだろう」。

  • ※ イーディス・ウォートン、1862-1937。アメリカの小説家、デザイナー。本作は1920公刊、1921年ピュリッツァー賞受賞。なお、1993年にマーティン・スコセッシ監督で映画化された。引用は大社淑子訳『エイジ・オブ・イノセンス 汚れなき情事』(新潮文庫、1993)より。

エドワード朝時代の、エンドルフィン・ハイとしての犠牲の感覚に、現代の私たちは親近感を抱くことができません。結婚と幸福とは危険な関係にあります。結婚は資本主義の物差しではなく、経済的必要性という観点から評価されるべきはずのものでした。経済学者のヨーゼフ・シュンペーターは1942年に、こう書いています。「(男女が)原価計算という一種の、ここにそぐわない体系を私生活に引き入れたが最後――、彼らは、現代の情勢下にあっては家族にしばられることや、とくに親子関係から生ずる個人的犠牲の重いこと(…)を自覚せずにはいないであろう」(※)。

  • ※ 中山伊知郎、東畑精一訳『資本主義・社会主義・民主主義』上巻(東洋経済新報社、1962)より引用。

最終回(第5回)に続く 

Translation: Miyuki Hosoya
Edit: Keiichi Koyama