1960年代は「世界が変わり始めた10年」として、いつまでも私たちの記憶に残り続けています。音楽では、リバプール出身の4人の少年たちが新たなポップスを発明して伝説となり、ベトナムでは戦争が本格化。1968年のパリでは「五月危機(五月革命とも言う)」が起こり、政治が混迷を極めていました…。

 あ、そうそうサッカーですね? 1966年に、“サッカーの母国”イングランドが自国開催のワールドカップで初優勝を遂げました。でもそれ以上に、忘れてはならないことがあります。それはオランダ・アムステルダム出身の「エル・フラコ(スペイン語で“やせっぽち”の意味)」の登場です。彼は「五月危機」のときのパリの学生たち以上に、強烈に世界のサッカーを変容させたのです…。

 当時、ヨーロッパサッカーの覇権を争っていたのは、60年代に8度の国内リーグ優勝を果たしたクラブチームのレアル・マドリードCF(スペイン)、世界チャンピオンにも輝いたイタリアのインテルナツィオナーレ・ミラノ(インテル)、8度の国内リーグ優勝と2度のUEFAチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)優勝を果たしたSLベンフィカ(ポルトガル)でした。ですが、いずれのチームも1968-69シーズンから徐々に、その勢いに陰りが見え始めていたのです…。

アヤックス
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1973年にUEFAチャンピオンズカップ3連覇を果たしたAFCアヤックス。下段右から2番目に座っているのが、このページの主役・クライフ氏です。

 そんな姿を横目に、躍進を遂げたのがオランダリーグの名門、AFCアヤックス(以下アヤックス)でした。戦術として、「トータルフットボール(流動的な選手のポジショニングで、攻撃的かつ優れたチームプレイを特徴とするサッカースタイル)」を志向したチームとして知られています。指揮を執ったのは、後のサッカー界に大旋風を巻き起こすことになる名将リヌス・ミケルス監督。チームの中心には、「エル・フラコ」「フライング・ダッチマン」こと、ヨハン・クライフ氏がいました。

 クライフ氏は1964年に17歳でプロデビューを果たし、1965-66シーズンから国内リーグ3連覇を達成。向かうところ敵なしで臨んだ1968-69シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、決勝戦まで進出。しかしその決勝では、イタリア伝統の守備的戦術「カテナチオ」の発明者の1人とされるネレロ・ロッコ監督率いるA.C.ミラン(イタリア)に1-4で敗れはしました。ですが22歳の青年は、シーズンを通しての活躍によって多くのサッカーファンを獲得。一挙にサッカー界のアイドルとなりました。

1970年のヨハン・クライフ
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アムステルダム東部の町の青果店を営む家庭の次男として生まれたクライフ氏。「5人目のビートルズ」と呼ばれて大人気だった、北アイルランド代表のジョージ・ベスト氏に例えられることも多かったクライフ氏。ですが、本人の憧れは、アルゼンチン出身の伝説的FWアルフレッド・ディ・ステファノ氏だったそうです。

 そして1970-71シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、決勝でギリシャのパナシナイコスFCを2-0で下し、チームの初優勝に大きく貢献しました。その勢いのまま、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を受賞します。アヤックスはその後、1972-73年シーズンまで3連覇を果たし、世界最高のクラブチームとしての地位を確立しました。

 クライフ氏の活躍は、ナショナルチームでもセンセーショナルなものでした。当時のオランダ代表チームは革新的なサッカーを展開。イタリアの超守備的なサッカーとは正反対に、目まぐるしくポジショニングが入れ替わる「トータルフットボール」という名のもと、スペクタルなサッカーに人々を夢中にさせたのです。

 FW、中でもストライカーと呼ばれる選手が持つ役割は、ゴールにシュートして点を獲ること…このことが最大の役割です。が、当時のオランダ代表チームにとってのストライカーの役割は、当然ゴールを決めなくてはなりませんが、同時に得点を生み出すゲームメイカーとしての役割も担わなくてはならなかったのです。中盤(MF)の選手に関しては、相手のゴール前まで迫ればいいのではなく、自陣のペナルティエリア内での守備もしなくてはならないのです。まさに全員攻撃・全員守備のサッカーなのです。

 ベンチは名将と称えられる監督が座っていましたが、ピッチ上で指揮を執っていたのはクライフ氏でした。彼はピッチ上における最高の監督でもあり、サッカー界にあった古い価値観を打ち破る、輝きを放ち続けながらプレーする「ロックスター」でもあったのです。

ヨハン・クライフ
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1974年のワールドカップ西ドイツ大会で、アルゼンチン代表戦に臨むクライフ氏。肩のラインにご注目ください。当時のオランダ代表のユニフォームはアディダス製でした。本来なら、肩から手首に向けてトレードマークである3本線が入っているのですが、クライフ氏のユニフォームだけ2本線となっています…。これはクライフ氏が、当時プーマと個人契約をしていたために採用された苦肉の策だったのです。


「オレンジ旋風」が世界を席巻する

 そして…迎えた1974年。4年に1度のサッカーの祭典、ワールドカップ西ドイツ(当時)大会を迎えます。クライフ氏をはじめ、ヨハン・ニースケンス氏やロブ・レンセンブリンク氏といった名選手を擁していました。ベンチに名将ミケルス監督が腰を下ろす当時のオランダ代表チームは、同国史上最高のチームとして世界のサッカーファンから熱い眼差しが注がれてもいました。

 グループ3で迎えた1次リーグに初戦で古豪ウルグアイ代表を2-0で破り、続くスウェーデン代表とはドロー(引き分け)、次のブルガリア代表には4-1の結果でグループ3では1位となり2次リーグに進みます。そして2次リーグの初戦のアルゼンチン代表には4-0で勝利。続く東ドイツ代表戦は2ー0で勝利するなど、強豪チームを次々と撃沈していきます。中でも圧巻は、2次リーグの3戦目。前回大会優勝国のブラジル代表との一戦はクライフ氏の1得点1アシストの大活躍により、“サッカーの王国”を撃破する原動力となったのです。

 この試合でクライフ氏が見せた華麗なジャンピングボレーシュートによって、前述の「フライング・ダッチマン(空飛ぶオランダ人)」という異名で呼ばれるきっかけとなったわけです(ちなみに後年、英国のアーセナルFCなどで大活躍した伝説的FWデニス・ベルカンプ氏は大の飛行機嫌いで知られ、「Non-flying Dutchman(空を飛ばないオランダ人)」と揶揄されることも…。そんなベルカンプ氏の若かりし頃指導に当たり、名選手へと引き上げるきっかけをつくったのがアヤックス時代のクライフ監督だったのです…)。

 見る者を魅了し、そして圧倒的に勝利するサッカー。ヨーロッパの小国であるオランダ代表が繰り広げる美しいサッカーは、紛れもなく74年の西ドイツ大会の主役でした。実際にオランダ代表チームは、FIFAワールドカップトロフィーを手にする直前までたどりついたのですが…。

開始1分でpkを獲得するクライフ
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1974年ワールドカップ決勝、対西ドイツ(当時)戦。ハーフラインからドリブルを仕掛けたクライフ氏は、そのままペナルティエリア内へ侵入し、ファウルを受けてPKを獲得。ヨハン・ニースケンス氏がこれをきっちりと決めて、幸先の良いスタートを切ったオランダ代表チームでしたが…。

 1986年のワールドカップメキシコ大会で得点王を獲得したイギリス人ストライカー、ゲーリー・リネカー氏いわく、「フットボールというのは単純なスポーツです。22人の男たちが90分間ボールを追いかける。そして、最後に勝つのはいつもドイツなのです…」という言葉どおり、クライフ氏の時代も…ここまでのオランダ代表の勢いなど知らないふりをしているかのように開催国の西ドイツ代表が勝利、オランダ代表は優勝を逃してしまいます。

 当時の西ドイツ代表には、“皇帝”と呼ばれたフランツ・ベッケンバウアー氏をはじめ、“爆撃機”と恐れられた点取り屋のゲルト・ミュラー氏、パウル・ブライトナー氏、ゼップ・マイヤー氏などの伝説的な選手が名を連ねていました。オランダ代表は試合開始早々に先制するも、クライフ氏は徹底したマークに遭い、見せ場をつくることができずに1対2で試合終了のホイッスルを聞くことになったわけです。

 ミュンヘンの空にトロフィーを掲げたのは、西ドイツ代表の皇帝・ベッケンバウアー主将です。が、オランダ代表チームは大会を通じて最も優秀なチームと賞賛され、オレンジ色のユニフォームに身を包んだ選手たちが、あの大会で見(魅)せた美しいサッカーは今もなお語り継がれています。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
MUNDIAL ALEMANIA 1974 🇩🇪 | Historia de los Mundiales | Cruyff vs Beckenbauer
MUNDIAL ALEMANIA 1974 🇩🇪 | Historia de los Mundiales | Cruyff vs Beckenbauer thumnail
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約束の地、バルセロナへ

 ここで再び、クライフ氏のクラブチームでの活動へと目を移してみましょう。

 クライフ氏は1972-73年シーズンのUEFAチャンピオンズカップ優勝を置き土産に、アヤックスからスペインのFCバルセロナへと移籍しています。この移籍に関しては、さまざまな問題も引き起こしたと言われています。が、それも世界最高選手だからこそのことでしょう。

 当時の世界最高額となる200万ドルの移籍金で、バルセロナの地へ降り立ったクライフ氏ですが、その瞬間からカタルーニャ地方のチームのスタイルは永遠に変わることになります…。FCバルセロナで過ごしたのは、わずか5シーズンのみ。獲得したリーグタイトルはわずか1つだったわけですが、バルセロニスタ(バルサのサポーターたち)は彼へ深い愛情を捧げました。

 そして、このクライフ氏のFCバルセロナへの移籍を最初の一歩とし、その後このチームはディエゴ・マラドーナ氏、ベルント・シュスター氏、ミカエル・ラウドルップ氏、ロマーリオ氏など一流選手が次々と移籍することになります。つまり、このクライフ氏の功績によってFCバルセロナは、一流選手たちが拠り所とする…「引退する前に一度はこのチームでプレーしたい」と願うほどのトップ・オブ・トップのチームへと上りつめたのです。

ヨハンクライフ
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FCバルセロナに加入したクライフ氏。背番号は14番のイメージが強いかもしれませんが、このカタルーニャのチームでは9番を背負っていました。


“常に魅力的かつ攻撃的にプレーし、スペクタクルでなければならない”

 選手としての晩年は、アメリカの2つのクラブとスペインのレバンテUDを経て、母国に戻る経路をたどり、1984年のシーズン後に引退します。1988年から監督として、FCバルセロナに復帰を果たしてもいます。

 ボールを常に保持し試合の主導権を握ること、ショートパスやサイド攻撃を中心とする攻撃的なサッカーを標ぼうし、このカタルーニャのチームの改革に着手します。ボールへの愛、繊細なボールタッチ、そして常に良いプレーをするという前提をFCバルセロナに植えつけ、現在もこのクラブのDNAの根幹として刻み込まれているのでした…。

 監督を務めた8シーズンで国内リーグ4連覇を筆頭に、クラブの念願だったUEFAチャンピオンズカップの優勝、UEFAカップウィナーズカップ(現UEFAヨーロッパリーグ)の優勝など、「ドリームチーム」と呼ばれ無類の強さを誇りました。

ヨハンクライフ氏
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 クライフ氏は、大のヘビースモーカーとして知られていました。「現役時代はハーフタイムに喫煙していた」とも言われています。監督就任後もベンチ近くで紫煙をくゆらせる彼の姿は、FCバルセロナの試合のおなじみの光景でした。

 1991年には心筋梗塞を患いますが一命を取り止め、それをきっかけに禁煙…。監督として座るベンチでは、タバコではなくチュッパチャプスを舐める姿が定番となりました。

 監督退任後も、母国オランダ代表チームの監督への就任が熱望されるなど、一挙手一投足が注目を集める存在であり続けました。そして…2016年3月24日。クライフ氏はバルセロナの地で、家族に囲まれて亡くなりました。死因は肺がん、享年68でした。

クライフ氏への花束
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クライフ氏への終わらない賛辞

 FCバルセロナはチームを変革した立役者のために、その歴史の中で最も苦い涙を流しました。2016年4月2日に行われたレアル・マドリード戦では、スタンドに「ありがとう、ヨハン」というメッセージやクライフ氏の背番号である14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられました。

 オランダ国内も涙に濡れました。2016年3月25日に行われたオランダ代表対フランス代表の一戦では、試合前に黙祷が捧げられました。さらに前半14分でプレーが中断されると、観客は一斉に立ち上がり亡きクライフ氏に拍手をおくりました。

 サッカー界に革命を起こし、世界の半分の子どもたちに「オレンジ色の夢」を与えた金髪のやせっぽちな男性。ヨハン・クライフ氏の偉業は、今も全く色あせることがありません。

レアルマドリ―との一戦
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2016年4月2日に行われたレアル・マドリCF―との一戦。グラシアス・ヨハン!

 FCバルセロナの若手有望株を育成する組織「カンテラ」を重視し、監督時代から積極的に若手をメンバーに起用してきたクライフ氏。カンテラに所属する若者たちが入寮する選手寮(ラ・マシア)の建設を進言したのもクライフ氏でした。

 FCバルセロナに対する、いえ、サッカー界に対するクライフ氏の献身がなければ、今ごろサッカーを愛する私たちの生活はどうなっていたのでしょうか?

 歴代最多6度のバロンドールを獲得したリオネル・メッシ選手が魅せる華麗なステップも、Jリーグのヴィッセル神戸で活躍するアンドレス・イニエスタ選手が繰り出すため息が出るほどに美しいパスも、英国・マンチェスターシティFCのジョゼップ・グアルディオラ監督の革新的な戦術も…。

 もしクライフ氏の存在がなかったら…私たちはFCバルセロナのカンテラ育ちのこの3名が繰り広げるサッカーには出会えていなかったのかもしれません…。

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 現在、世界中にはびこる恐怖のウイルスにより、サッカー界は沈黙が続いています。

 残念ながら、今シーズンのオランダ国内リーグは打ち切りとなってしまいました。それでもまだ希望はあります。イタリアでは5月末、イギリスやスペインでは6月を目指して、国内リーグ再開に向けた道を探り始めています。

 幸運なことに、私たちにはクライフ氏が遺(のこ)してくれたサッカー界における素晴らしい財産を、テレビやスタジアムで再び楽しめる可能性はあります。サッカーが再び日常に戻る日を指折り数え、責任ある行動とともに辛抱強く待つことにしましょう。

 この先もずっと、あの伝説の14番はサッカー界の記憶の中で、常に偉大な存在であり続けることでしょう。そして4月25日は、亡きヨハン・クライフ氏の誕生日に当たります。生まれてきてくれて、そして私たちにサッカーの魅力を教えてくれて、本当にありがとう。

Source / Esquire ES
Translate / Esquire JP
この翻訳は抄訳です。