※世界的な時計専門メディア「HODINKEE」日本版で2023年7月6日に公開された記事の転載になります。


5月某日。筆者(「HODINKEE」日本版編集スタッフ)は、オーデマ ピゲのロイヤル オーク オフショア誕生30周年を祝うプレストリップに参加するためにイタリアにいた。そう、今年はロイヤル オーク オフショアが誕生してから30年というアニバーサリーイヤーなのだ。訪れたのはコモ湖。イタリア北部、ロンバルディア州にある逆Y字形(なじみのある表現でいえば漢字の“人”のようなカタチだ)の湖で、湖畔はヨーロッパきっての避暑地として知られる。ヨーロッパの各王室や富豪たちが建てた豪奢なヴィラが立ち並び、多くのホテルも軒を連ねる。

筆者が取材中に滞在したイル セレーノ ラーゴ ディ コモ(Il Sereno Lago di Como)も、そんな湖畔に建つホテルだ(ここはコモ湖の景色を望む、全室スイートルームの贅を尽くした5つ星ホテル。こうした機会でもなければなかなか縁のないホテルである。オーデマ ピゲの皆さま、ありがとう!)

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)
イル セレーノ ラーゴ ディ コモからのコモ湖の眺望。天気にも恵まれ、最高の気分だった。

もちろん遊びに行ったわけではない。今回のプレストリップではロイヤル オーク オフショア誕生30周年を記念してオフショアコレクションに関するプレゼンテーションが行われたほか、アーカイブピースの展示、そして先日発表されたばかりのオフショアの新作もいち早く披露。プレゼンテーションでは主に、これまで明かされてきたオフショアにまつわるさまざまなストーリーが改めて紹介された。一方で、今回の取材ではあまり声高に語られなかったオフショアにまつわるエピソードを聞くことができたほか、今年限りで勇退を決めたブランドCEO、フランソワ-アンリ・ベナミアス(François-Henry Bennahmias)氏の本音を交えたコメントも得ることができた。本稿では、そんなロイヤル オーク オフショアの舞台裏をほんの少しではあるが紹介しよう。


ロイヤル オーク オフショア
30周年記念プレゼンテーション

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)
プレゼンテーションが行われたボートメーカー、トゥリオ・アバーテ(Tullio Abbate)のシップヤードからの眺め。コモ湖の湖畔から30分ほどクルマを走らせた山の中にある。

ロイヤル オーク オフショアがどのようにして誕生したのか。もちろん、それはプレゼンテーションでも語られたが、オフショア誕生の経緯や現在に至るまでのおおまかなヒストリーについては割愛する。というのも、先日「HODINKEE」日本版にて公開された記事「To the Offshore オーデマ ピゲが⽣んだもうひとつのイコノクラスム」の中で、そのあたりの情報がわかりやすく解説されているからだ。1度(と言わず何度でも)前述の記事を読んでもらえると、一層ロイヤル オーク オフショアへの理解が深まるはずだ。

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)
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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

ロイヤル オーク オフショアに関して、ずっと疑問に思っていたことがある。それはなぜ最初のモデルがクロノグラフであったのかということと、なぜ発表されたのが1993年だったのかということだ。初代ロイヤル オークは2針のシンプルな機能のモデルであったし、生まれたのは1972年だ。せっかくならロイヤル オーク誕生20周年となる1992年に発表したほうがプロモーションをする上でもよかったのではないかと思うのは、何も筆者だけではないだろう。この2点については、プレゼンテーションの内容をもとにもう少し詳しく解説したい。

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©️Audemars Piguet
1989年に描かれたロイヤル オーク オフショアのデザイン。
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©️Audemars Piguet
コンパスが描かれたロイヤル オーク オフショアのダイヤルスケッチ(1989年頃)。極めて大胆なスタイルだ。

当時のCEO、ステファン・アークハート(Stephen Urquhart)氏から“オフショア”という名称からのインスピレーションをもとにデザインを描くように託されたのは、オーデマ ピゲに入社してまだ2年足らずのデザイナー、エマニュエル・ギュエ(Emmanuel Gueit)氏だった。

彼は1989年4月に最初の図面を発表する。数字こそ記載されていないものの、それは当時の時計にはないサイズと厚みが見て取れるものだった。ちなみに最初に描かれた図面には文字盤がない。これはどんな機能、キャリバーを載せるべきか、まだ決まっていなかったからだという。ゆえに当初のアイデアのひとつにはボートで使う時計にはいい機能だろうと、コンパスを搭載したらどうかという案もあった。だが、機械式ムーブメントと相性がよくないという理由で立ち消えとなった。

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©️Audemars Piguet

そして1989年秋、クロノグラフを搭載したオフショアの最初の図面が描かれた。クロノグラフ搭載のアイデアはフレデリック・ピゲによるものであることはすでに明らかになっているが、今回のプレストリップの最後に催されたガラディナーのゲストとして参加したギュエ氏は「当初はクロノグラフなしでデザインをしていた」と語った。最終的にクロノグラフの搭載も決まり、そしてアークハート氏も当初は「大きい」と面食らっていたがデザインを気に入っていたというロイヤル オーク オフショア。しかしローンチに至るまで、決して順風満帆ではなかった。

「半年ごとに試作品をつくり、本社に行っては見せるということを3年間繰り返しました。3年が経ち、当時の試作品を取締役会のメンバーの前で見せることになり会議室に呼ばれたのですが、試作品を見せると反応はイマイチでした。ここが小さいなど、あれこれ意見は挙がりましたが、会議は和やかに終わりました」。ギュエ氏は、そう当時の様子を振り返る。

ロイヤル オーク オフショアは1992年のロイヤル オーク20周年に向けたプロジェクトであったが、100m防水と耐磁性を確保するケースの構造が困難を極め、1993年にバーゼルフェアで発表されることとなった。その後のストーリーは、前述の記事にもあるとおり。当初は多くの批判にさらされたものの、イタリア市場から火が付き徐々に評価を獲得、アーノルド・シュワルツェネッガーとのコラボレーションの成功をきっかけに、その評価は確固たるものとなった。以下の写真は、シップヤードに展示されていたアーカイブピースの一部だ。

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APクロニクル|ロイヤル オーク オフショアを見る


ロイヤル オーク オフショア
30周年モデル

歴史を振り返るプレゼンテーションが終わると、ロイヤル オーク オフショア30周年を記念して今年発表された新作の実機も披露された。いくつかはすでに発表済みのものだが、このプレストリップが世界初お披露目となるモデルも用意されていた。

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)
ロイヤル オーク オフショア フライング トゥールビヨン クロノグラフRef.26622CE.OO.D062CA.01。価格は要問い合わせ。2021年に登場した限定モデルのオフショアにインスピレーションを得たモデル。アルマイト仕上げのグリーンインナーベゼルと、文字盤とムーブメントの構造を支えるブリッジにグリーンアルマイト仕上げのインナーリングを備えた最新鋭のセラミックケースを採用。世界限定100本。紹介記事は、「HODINKEE」日本版のこちら
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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

世界初お披露目となったモデル。それがベゼルにダイヤモンド、およびカラージェムストーンをセットした新しい37mmのロイヤル オーク オフショア クロノグラフ ジェムセット バージョンだ。18Kピンクゴールドケースが2種、イエローゴールドケース、ステンレススティールケースで各1種ずつの計4モデルをそろえる。これらは2021年登場した新しいデザインとディテールを備えた、43mmモデルをベースにした新デザインコレクションだ。

37mmのロイヤル オーク オフショア クロノグラフは以前からあったが、それと比較すると新作はダイヤルのレディタペストリーのピラミッドモチーフがこれまでよりやや大きくなっている。さらに、以前の37 mmダイヤルにあったダイヤル外周のスネイル仕上げがなくなりすっきりとした印象に。そして印刷のオーデマ ピゲのシグネチャーロゴではなくAP モノグラムロゴを採用。アワーマーカーを強調したデザインとなった。

新デザインのハイライトはジェムセットベゼルだ。4モデルのうちふたつは鮮やかなバゲットカットジェムストーンを、残る2モデルではブリリアントカットダイヤモンドをセットする。ダイヤルはブラック、ロイヤルブルー、ライトブルー、サーモンの4色。以前に増してスポーティかつ色彩豊かなモデルとなった。ただし防水性能は変わらず50mだ。

そして、全てのモデルにインターチェンジャブルストラップシステムを採用。ただしバックルの仕様は若干異なり、ダイヤモンドセットモデルにはピンバックル、バゲットセットモデルにはAPフォールディングバックルが付属する。また、ムーブメントについては以前のモデルと同様、自社製の自動巻きクロノグラフCal.2385を搭載しており、30分積算計(3時位置)と12時間積算計(9時位置)を持つ3カウンタークロノグラフに加え、時・分表示、スモールセコンド(6時位置)、デイト表示(4時半位置)を備える。

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

プレゼンテーションの締めくくりは、コモ湖でのレーシングボートアクティビティだ。ロイヤル オーク オフショアがもともとレーシングボートのイメージに起因するコレクションであり、その世界観を体験して欲しいというオーデマ ピゲの計らいである。

それぞれ6艘のレーシングボートに乗り込み1時間ほどコモ湖を周回したが、かなりのスピードが出る。トップスピードに乗ったレーシングボートは船底が水面を打って飛びあがり、身体が大きな振動にさらされる。そしてボートの周りには大量の水しぶきが飛び、乗っている位置によっては相当水を浴びることになる。そんな中で思い出していたのが、ロイヤル オーク オフショアがわざわざ発表年を後ろ倒しにしてまで堅牢なケースと100mの防水性を確保することにこだわっていたという事実だ。

初めは単なるイベントのひとつくらいに考えていたのだが、確かにレーシングボートの乗る際に身につけるなら、サイズが大きく堅牢で高い防水性を備えた時計は必須であろう。そんなロイヤル オーク オフショアが生まれた背景が、このレーシングボートアクティビティを通してスッと腹落ちしたのを感じていた。

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

挑戦こそオーデマ ピゲのアイデンティティ

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

レーシングボートアクティビティを終えてホテルへと戻ると、今回のプレストリップもあっという間。残すは最後のガラディナーだ。宿泊先のホテルではなく再びボート(今度は荒々しいレーシングボートではない)に乗り込み20分ほど揺られ、対岸の5つ星ホテル、ムーサ ラーゴ ディ コモ(Musa Lago Di Como)にあるレストラン、ロテオ(Roteo)へと向かった。そしてそこで、最後においしい食事を楽しんで終わり…というわけではなかった。

実はこのガラディナーには、特別ゲストとしてロイヤル オーク オフショアのデザイナー、エマニュエル・ギュエ氏も招かれており、さまざまな話を聞くことができた。そしてフランソワ-アンリ・ベナミアスCEOの貴重な本音も…。挨拶に立ったベナミアス氏に、どこからともなく声がかかった。

「CEOとしての役を、アイコニックなアニバーサリーイヤーに終えようと考えたのはなぜ?」と。そして彼は答える。

「『オフショアの30周年だから』とか、『昨年がロイヤル オークの50周年だったから』という理由で、オーデマ ピゲでのキャリアを終えることを決めたわけではありません。自分が『次のステップに進むべきだ』と感じたタイミングは大事にしなくてはいけない。私はブランドの成功を見ることができたと感じています。それはいろいろな人々の情熱やコミットメントがあってこそ。(参加者を見渡して)皆さんがブランドを後押ししてくれたことも大きい。過去を振り返り決断したのが今年、このタイミングだったというだけなのです。自分が役職にある間は、多くを求めすぎる(要求が高すぎる)という声もあったかと思いますが、人々に支えられてやってくることができました」

さらに質問が飛ぶ。「オーデマ ピゲでのキャリアの中で、いちばん大きな失敗だったと思うことは?」

「何もありません。有名なバスケットボール選手が、NBAのセミファイナルでチームが敗退したときのインタビューで、同じような質問をされていました。『何か失敗があったと思うか?』と尋ねたインタビュアーに対し、その選手は激しい口調でこう言いました。『自分は“失敗”という言葉は絶対に使わない。“負けた”、“ミス”をしたというのは、“成功”へと続く人生の途中に起こることに過ぎないからだ』と…。オーデマ ピゲは1875年の創業以来、毎年時計を生産し続けてきました。時計の生産が止まったことは1度もありません。1929年に始まった大恐慌に見舞われた1932年には、年間の生産本数が2本だったことはあります。ですが、戦争や大恐慌の渦中にあってもなお、1875年から時計をつくり続け、そして現在に至ります」

「ミステイクだったと思う時計はあるか? 誇りに思えない時計はあるか?――もちろん、これからそういう時計をつくる可能性がゼロとは言えませんし、たくさんの時計を開発してきた中で皆無だったとも言いません。ただ、それはミステイク(Mistake)ではありますが、失敗(Failure)でありません。それはいいことか? …もちろんです。ミスをするのはいいことです。なぜなら、人はそこから学ぶのだから。これは私がアメリカで勤務していたときに学んだことでもあります。アメリカの人々のメンタリティは、ヨーロッパの人々のメンタリティとは違います。自分が生まれ育ったフランスではミスをすると、『あーあ』というリアクションになる。ミスをした者、失敗した者は立ち去れという対応です。でも、アメリカでは全くアプローチが異なる。例えば、ひどい成績だった生徒が少しマシな成績を取ったとしましょう。教師は、『前より進歩しているよ』と声をかける。機会を奪うのではなく、よりよくなるための機会を与える。それを知り自分も考えを改めました。それまでの自分は、人に対して厳しかった。それこそ“失敗”だったと言えるでしょう。人に対して厳し過ぎた。これはダメとしか言ってこなかった。そこを改めました」

「少し話は変わりますが、『プロダクトローンチのタイミングと場所がいつも完璧だが、どうやってそれを行なっているのか?』と質問されたことがあります。オーデマ ピゲはしっかりと話し合いを行い、多くの商品を発表してきました。準備ももちろん重要ですが、運という要素も大きい。正確には“時に完璧なこともあったし、そしてそれは偶然の産物でもあった”というのが正しいと言えます」

「例えば2011年、オフショアの売上が好調でロイヤル オークの売上を上回っていました。そしてあるとき、オーデマ ピゲは“ジャンボ”の生産を中止することを真剣に検討し始めました。そのとき、ふたつのマーケットがジャンボを救ったのです。イタリアとドイツです。イタリアとドイツのマーケットが、『ジャンボをなくすな』という声を上げたのです。当時、オーデマ ピゲは年間150本のジャンボを生産していました。世界の全市場分で150本。今とは違い、入手も容易でした。ふたつのマーケットから経営陣に対し、『ジャンボの生産中止について再検討してほしい』という多数の申し入れがあったのです。これに対して50ものインタビューに答え、ジャンボがまだ必要とされる理由を皆が語ったのです。そしてロイヤル オークが40周年を迎えてすぐに、ジャンボの生産続行が決まり現在に至ります。こうした市場の声がなければ、今のコレクションにジャンボの姿はなかったでしょう」

「全てが計画されたとおりに正しく進んでいる…と思われるかもしれませんが、決してそうではないのです。そしてもうひとつ、伝えたいメッセージがあります。オフショアは若年層に向けた商品でしたが、Apple Watchが発売されたのは…、たしか初代の発売は2015年ですね。そのときに多くのメディアが、『時計ブランドは廃れていくだろう』と言いました。その頃に受けたインタビューはよく覚えていて、毎年言われ続けたのは『スマートウォッチが普及し、時計ブランドは衰退していくだろう』ということだったのです。そして彼らは、『若い人々は時計をつけなくなっている、つけたとしてもこれからはスマートウォッチに取って代わられるだろう』と言ったのです。それを受けてわれわれが、若い顧客を獲得するために何をしたと思いますか?」

「その答えは、何もしなかったのです。これはただ運がよかっただけです。スイス業界全体にも同じことが言えます。どのブランドも、何かスマートウォッチに対して対策をとったわけではありません(一部スマートウォッチに注力したブランドはある)。ある時点から突然、若者のほうがクラフトマンシップ、レアリティ、ラグジュアリー、ウォッチメイキングなどを理解し始めたのです。今、10代・20代の若い世代が、彼らの親に対してオーデマ ピゲやほかのブランドのウォッチメイキングについて紹介しています。ブランド側が想定していたのとは完全に逆の方向です。子から親へと。それは今も続いています。もしどこかの時計ブランドが、今日の若年層での成功は計画どおりのものだと主張していたら…それは本当でしょうか? 私は今日の成功は、『運によるところが大きい』と思っています」

他を圧倒する大成功を収めるブランドのCEOをして、“その成功は運が大きい”というコメントに筆者は、いささか驚きを隠せなかった。保守的な印象が強かったオーデマ ピゲをヒップホップやストリートカルチャーと結びつけ、新しいCODE 11.59コレクションを発表するなど、彼がブランドで行ったすべての決断は初めから手放しに賞賛を受けたわけではない。それこそオフショアが発表されたときと同じように、否定的な意見も決して少なくはなかった。

しかし、彼が指揮をした10年間でオーデマ ピゲが前例のない成長と成功を収めたのは紛れもない事実だ。果たして本当に運だけが成功の理由だろうか? オーデマ ピゲの今日の成功は、オーデマ ピゲが…そして彼が、失敗を恐れずに挑戦し続けてきたからこそ実現できたものだ――そう筆者は思っている。

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2013年に発表されたロイヤル オーク オフショア クロノグラフ レブロン・ジェームズモデル。写真は当時のHODINKEEの記事より。

少し話が堅苦しくなってしまったが、最後は同じくディナー中にあった、こんな質問と回答で終わろう。

「あなた(ベナミアス氏)が携わった中で、いちばん好きなオフショアはどのモデル?」

「…いちばん好きなモデルは、レブロン・ジェームズかな。理由は誰にも好かれなかったモデルだから。レブロンとデザインについて話し合って、軽いレザーストラップにして…でも、評判はあまりよくなかったですね。『カッコ悪い』と言った人はたくさんいましたよ。でも、自分は正しかったと思っています。だから、あれがいちばん好きなモデルですね。――レブロン・ジェームズモデルは成功作だったのかって? もちろん!」

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Kyosuke Sato(HODINKEE Japan)

オーデマ ピゲ、および時計の詳細は、公式サイトへ。