2015年の夏、英国のパブ「バーチ」に集まった6人

パブでビールを飲み続けていると。驚愕(きょうがく)すべきこと、そして、ときにはどうしようもないアイデアをひらめくことがあります。アストンマーティン「ヴァルキリー(Valkyrie)」も、そんな状況で生まれたという逸話が残されています。

2015年の夏、イギリス・ロンドン北西の街ミルトン・ケインズ市郊外のパブ「バーチ」に集まった4人の男たちは、常軌を逸した1台のマシンのラフスケッチを囲んで飲み交わしていました。それは公道走行が可能でありながら、当初の試算を大幅に上回るほどの製造コストがかさみ、さらに走行中には防音ヘッドホンが必要な、そしてある開発メンバーの言葉を借りるなら「運転中に掛かる重力の再定義をしなければならない」ほどの…あの、「ヴァルキリー」の原型となったスケッチでした。

その日、パブで顔を合わせていたのは以下の面々です。当代随一のレーシングカー・デザイナーのエイドリアン・ニューウェイ。彼は、ロードカーの設計という長年の夢を抱いていました。レッドブル・レーシング代表のクリスチャン・ホーナーは、そのニューウェイのフェラーリへの移籍をどうにかして阻止する必要がありました。当時、アストンマーティンのCEOに就任したばかりだったアンディ・パーマー、そしてパーマーのアドバイザー兼アストンマーティンのマーケティング担当のサイモン・スプロール。この二人は、「ミッドエンジン・スポーツカーの分野におけるアストンマーティンの地位を確固たるものにしたい」という野心を抱いていました。

これが今日に続く、「ヴァルキリー」の物語の幕開けとなるワンシーンです。

「ヴァルキリー」の書籍、ワイルド・ライド
Gerard + Belevender

そして、ワフト・パブリッシング(Waft Publishing)という出版社を営むバート・レナーツとリース・デ=モルの夫婦のことも忘れてはなりません。彼らが「ヴァルキリー」完成に至るまでのドキュメンタリーを取材し始めたのも、同時期のことです。夫婦はそれからの6年間、ミーティングやテスト走行、デザインレビューなど、可能な限りの現場に帯同しながら取材を重ね、アストンマーティンとレッドブル・アドバンスト・テクノロジー(編集注:レッドブル・レーシング・グループの高性能エンジニアリング部門。RBATと略されることも)の協力のもと、やがて「A Whild Ride(ワイルド・ライド)」という1冊の本の出版にこぎつけることになります。

ときに楽しく盛り上がり、ときに歓喜に湧きながら…全体としては、忍耐の道のりとなった「エイドリアンのロードカー」の誕生秘話が335ページの記録としてまとめられました。軽妙な筆致でつづられたテキストは、開発中の政治的な出来事よりも技術的な解説により多くが割かれていますが、いずれもこの物語に欠かすことのできない要素です。

レナーツとデ=モルは、スケッチや図面の使用だけでなく写真撮影も許されました。「ワイルド・ライド」は通常であれば部外者がのぞき見ることのできない、あらゆる細部が隅々まで網羅された内容になっています。

1001馬力、V型12気筒エンジンを搭載する“怪物”

アストンマーティン・ヴァルキリー
Aston Martin
「ヴァルキリー」の書籍、ワイルド・ライド
Gerard + Belevender
「ヴァルキリー」の書籍、ワイルド・ライド
Gerard + Belevender

1冊90ユーロ(約1万5000円)の「ワイルド・ライド」では満足できないというマニアのためには、全4巻計778ページ、950ユーロ(約15万5000円)の豪華版『インサイド・ヴァルキリー』も出版されています。こちらは、実際の「ヴァルキリー」購入者に贈られるブックレットと酷似した内容です。300セット限定で、内容は当然のことながらさらに充実しており、またデザイン性も高く、ケースから本を取り出すと「ヴァルキリー」のV12エンジン音が鳴り響くという仕掛けまで、工夫を凝らした造本です。つまり、ニューウェイの手によるその車に似つかわしく、実用性よりもぜいたくであることが優先されたセットということになります。

そもそも「F1マシンを公道で走らせる」という、バカげた発想で誕生した「ヴァルキリー」です。1001馬力のコスワース製V型12気筒エンジンを搭載し、リカルド製シングルクラッチ式7速セミオートマチック・トランスミッションは新開発されたもの。さらにアクティブサスペンションも「ヴァルキリー」用に特別に開発されたというのですから、バカげているにもほどがあると言うもの。「ワイルド・ライド」とは、本書にとってこれ以上ない的確なタイトルと言えるでしょう。

「ヴァルキリー」のメカニズムを徹底解剖

「ワイルド・ライド」の中では、「この世で最もエクストリームなロードカー」とも称される怪物モデルの、驚異の複雑性が明かされています。

「ヴァルキリー」の断面はまるで、スライスしたヘッドチーズ(フロマージュ・ド・テット:豚の頭肉などに香味野菜や香草などを加えて煮こごり状にした珍味のこと。ゼリー状になった中に幾層もの食材が重なっている)をほうふつとさせるものです。優雅にシェイプされた外観を持つ「ヴァルキリー」ですが、その内部には正体不明のこまごまとした部品が隙間なく詰め込まれています。

「人は見かけによらない」とはよく言われますが、それは「ヴァルキリー」についても当てはまります。空力性能を極限まで高めるために、パワートレインからサスペンション、その他あらゆるパーツの数々を想像を絶するほど緻密な設計に基づき、タイトに配置する必要があったのです。その結果、運転席と助手席は最低限のクッションをかぶせただけのカーボンでしかありません。従来のようなシートを納める空間的な余裕などなく、可能な限りの軽量化を目指したのです。これこそが、予算や実用性といった月並みな制約を度外視した最高峰のレーシングカー・デザイナーの仕事なのかもしれません。

以下に掲載する画像は(そして上記の各「ヴァルキリー」本に掲載されている画像は)、アストンマーティンとRBATによって制作された(コンピュータ上で図面の作成を行った)CADファイルをそのまま借用したものです。

「ヴァルキリー」の構造を徹底解剖
Courtesy of Red Bull Advanced Technologies and Aston Martin Lagonda

リアサスペンションは
長めのトーションバーを備える

6.5リッターV型12気筒エンジン、7速ギアボックス、電気モーター、そしてリアサスペンション。通常であればそのどれか一つしか収まり切らないほどの空間に、全てを詰め込むことは可能なのでしょうか? この「全てを一体化させる」ということが、エイドリアン・ニューウェイならではの解決策でした。

エンジン前部を、シャシーの中央部分のパーツであるカーボンファイバー製タブの後方にボルトで固定し、エンジン後部にギアボックスを取りつけたうえでサスペンションはトランスアクスルのケースに直接配置しています。「ヴァルキリー」のサスペンションの機械構造は、ハイエンドのレーシングカーを熟知している人にとってはおなじみのものかもしれません。

ウィッシュボーン式サスペンションの上下パーツは、コイルスプリングの代わりに、トーションバー(※編集注:棒状の物体をひねる時の反発力を利用したばねの一種)として機能するプッシュロッドに接続されています。F1マシンであれば乗り心地は追求されることがないため、短めのトーションバーが使用されます。

ただ「ヴァルキリー」は、ロードカーでもあります。さまざまな路面の公道を走らせることを想定する必要があり、比較的長めのトーションバーが必要になりました。どれほどの長さか?と言えば、エンジンのエアフィルターボックスとシリンダーヘッドとの隙間を通さなければならないほどの長さです。

油圧システム開発のヒントは
ウィリアムズのF1マシンから

「ヴァルキリー」徹底解剖
Courtesy of Red Bull Advanced Technologies and Aston Martin Lagonda

「極度のダウンフォースを前提としながら、公道走行における居住性と乗り心地を実現する」という一見不可能な問題を解決するため、ニューウェイは90年代初頭に自ら設計したアクティブサスペンション搭載のウィリアムズのF1マシンにヒントを求めています。それは高負荷の状況であっても、「油圧システムによって車高を一定に保つことで従来型サスペンションの負荷を軽減し、設定の柔軟性と適度な乗り心地を実現する」という方法です。

油圧ラインは計154フィート(約47メートル)に及ぶ長さです。アクティブサスペンションの油圧ラインには恐ろしいほどの圧力がかかるため、バーストを保護するためのスリーブが用いられています。これはラインが破裂した際、液状のオイルをスリーブの作用で霧化するための装備です。

工場を改築するまでに至った
フロントサスペンションづくり

「ヴァルキリー」徹底解剖
Courtesy of Red Bull Advanced Technologies and Aston Martin Lagonda

「ヴァルキリー」は複雑極まりないマシンですが、フロントサスペンションも例外ではありません。リアサスペンションと同じく、フロントにもコイルスプリングではなくトーションバーを用いています。そのトーションバーを納めるためのスペースがないのは、リアとまた同様です。そのためトーションバーはカーボンファイバー製タブの前部を貫きながら、インストルメントパネルの真下を前方に向けて伸びています。

タブを製造したマルチマティック社は、トーションバーを通すための2つの穴を10.3度、許容差15ミクロン(※1ミクロンは0.001mm)の厳密な精度で配置する必要がありました。ちなみに同社は「ヴァルキリー」用のタブ製造のために、5軸加工機という高額な機械を導入しています。5軸加工機は実に巨大な機械で、それを設置するためにマルチマティック社は、工場の改築を迫られたというエピソードも残っています。なにしろトーションバーの穴にわずかな狂いがあれば、10万ドル(約1500万円)を超えるタブがそのまま廃棄物になってしまうのですから…。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
Edit / Ryutaro Hayashi
※この翻訳は抄訳です