引退したベテランCIAが
自身のキャリアを振り返る

中央情報局(Central Intelligence Agency=CIA)で働く人数は「公表できない」と言われていますが、実際の人数は約2万1000人と考えられています。諜報スペシャリストが集まるこの巨大な組織CIA中には、軍の特殊部隊のような準軍事組織を有しています。これを「Special Activities Division(特別行動部)」と言い、通称“SAD”と呼ばれていました。ですが2016年に改名され、「Special Activities Center(特別活動センター」となり、“SAC”と呼ばれるようになっています。そのメンバーは元軍人によって編成された工作特殊部隊になり、世界でも最も優れた極秘ミッションを行う専門部隊ということ。

この旧SADのメンバーであったリック・プラド氏は、CIAで24年におよぶキャリアを積んだベテランエージェントでした。そんなプラドがCIAに入局したのには、非常に個人的な理由があったそうです。

彼の“影武者”としての人生とキャリアを紹介する『Popular Mechanics』誌のビデオシリーズ第1回(ページ中段)で、彼は語っています。

リック・プラドは革命時代のキューバに生まれ、物心がついた頃に得た最初の思い出のひとつには、フィデル・カストロ率いるゲリラと政権軍との銃撃戦があるそうです。それから彼は10歳でキューバを逃れ、家族とともにフロリダ州マイアミに定住します。

高校卒業後はアメリカ空軍に入隊します。敵陣に捕らわれた航空機の乗組員を救助し、そんな彼らの治療に当たる訓練を受けたパラレスキュー隊員となりました。彼らは米軍および同盟国のために人員の回復や戦闘捜索救助活動などを任務を遂行する、高度な訓練を受けた精鋭部隊です。そんなプラド氏は、「自分と家族を受け入れてくれた国に恩返しをしようと、ベトナム戦争に志願するつもりだったのです。しかしながら、出征する前に戦争が終わってしまったのです」と言います。

preview for From Cuban Refugee to CIA's Fiercest Operative

その代わりにプラドは、CIAの当時の特別行動部であるSADに身を置くことになったのです。SADは世界各地で準軍事活動を担当し、直接行動ミッション、訓練ミッション、政治的プロパガンダ活動およびコンピューターオペレーションなど、海外で活動するSADメンバーを援護するためのペーパーカンパニーの管理などを訓練したということ。そこでプラドは、SADの作戦部門となる地上支部で10年を過ごしたそうです。

1980年代におけるCIAの主要な諜報活動の一つに、サンディニスタ*政権に反対するニカラグアのゲリラ部隊への支援だったそうです。

※サンディニスタ(Sandinista):ニカラグアで発生した左翼政治運動であり、サンディニスタ民族解放戦線(Frente Sandinista de Liberación Nacional=FSLN)として革命をすすめた。そしてこの解放軍の名前で、現在はニカラグアの政党の一つとなっている。その名となっている「サンディニスタ」とは、1927年から1933年までアメリカの侵略に対抗したアウグスト・セサル・サンディーノに因むもので、その活動はサンディニスモ(Sandinismo=サンディーノ主義)と呼ばれ、その活動家(党員)をサンディニスタ(サンディーノ主義者)と呼んでいる。1961年にキューバ革命の影響を受けて、のちにサンディニスタ政権の内務大臣となったトマス・ボルヘ、カルロス・フォンセカらによって創設。1972年のニカラグア大地震のあと勢力を拡大し、1979年6月には大規模な軍事攻勢を開始し、同年7月にはニカラグア革命を成功させる。第三者派のダニエル・オルテガが国家再建会議議長に就任。オルテガは1985年に、ニカラグアの大統領に当選する)。左翼政権のため、旧ソビエト連邦を中心とする共産圏と関係が深く、特に手本となったキューバとは関係が緊密であった。

革命成功以降、分派対立は再燃。そんなサンディニスタ政権は、ニカラグアの第二のキューバ化を恐れたアメリカのレーガン政権(1981年1月20日 - 1989年1月20日)から絶え間なく敵視・干渉政策にさらされていました。そんな時期です。

プラド氏はゲリラ部隊にアドバイスをするために派遣された最初のCIA職員であり、到着早々に政権軍との激しい銃撃戦に巻き込まれることになります。そしてプラド氏は地上部門/SADの代表になると、中米のジャングルで36カ月を過ごすことも経験しているそうです。

1990年代になると、プラド氏はCIAのテロ対策センター(Counterterrorist Center=CTC)に加わり、1995年にビンラディン・タスクフォース(特定の任務を遂行するために組まれた機動部隊)に配属されました。当時はまだあまり知られていなかったテロリスト、オサマ・ビンラディンを追跡するためのグループです。

当時、スーダンに住んでいたビンラディンは、のちに「アルカイダ*」として知られるようになるテロネットワークを構築していました。プラドは伝説のグリーンベレー(アメリカ陸軍特殊部隊)のビリー・ウォーを含む他の諜報員と協力し、スーダンの首都ハルツームにあるビンラディンのアジトを突き止めます。ですが、そのときチームはビンラディンに対して何の行動も起こせず、2001年9月11日にニューヨークとワシントンD.C.で同時多発テロが起きました。

※アルカイダまたはアルカイーダ(Al-Qaeda):イスラム教の創唱者でありムハンマドの時代の原点に返ることを主唱し、西欧的な議会政治や社会主義は原則として否定。その教え通りの宗教国家を樹立することを目指すスンナ派ムスリムが主体の過激派組織。その名称は アラビア語で「アル」は定冠詞、「カーイダ」は「座る」を意味する動詞「カアダ」から派生した名詞で「大本」を意味します。つまり、「基地および基盤」を意味しており、英語では「The Base」とも言われているそうです。

この仕事に危険がなかったわけではありませんで。フィリピンで新人民軍*の解体にあたったときのプラド氏は、Sparrow(スパロー)と呼ばれる新人民軍が派遣する暗殺者たちと対面したとのこと。このスパローは、(アメリカを代表する45口径のハンドガン)コルトM1911A1.45を常時腰に差していることで有名です。

「私は銃を抜きました」と、プラドは回想します。

「そのとき、もはや視野も狭くなっていて音も聞こえない状態。このスパロー3人は明らかに私たちに危害を加えようとしていること以外、何もわかりませんでした」と言います。すると3人のスパローズは、何を思ったのか突然計画を変更します。プラド氏とチームメイトに対し、「次に会ったときは、ただじゃおかないからな…」といった表情を見せたそうです。

プラド氏は2004年に、アメリカ軍の少将に相当する「Senior Intel Service-2」としてCIAを引退しました。彼はCIAの韓国作戦の責任者、韓国・ソウルのCIA連絡部長も務めていた経験もあります。彼の対テロリズムにおける卓越した功績を讃え、CIAはDistinguished Career Intelligence Medal(殊勲キャリア・インテリジェンス・メダル)とThe George Bush medal(ジョージ・ブッシュ・メダル)を彼に授与しています。そうして最終的には、CIAのテロ対策センター作戦部長にもなっています。

そんな彼は2022年に、著書『Black Ops: The Life of a CIA Shadow Warrior』を出版しているので気になる方はチェックを。

source / POPULAR MECHANICS
Translation & Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です