レニー・クラヴィッツが、これまでずっと伝えようとし続けていることの1つに、「現在とは違う、よりよい世界を実現することは可能だ」ということがあります。
それは恐怖ではなく、愛によって導かれる世界であり、人々が分断や自己破壊といったことよりも、団結と平和を選択する世界です。ここ数カ月間でレニーを含め、われわれほとんどの人にとっても、世界はこれまでとは大きく変わったことは確かなことでしょう。
本来であれば、彼は予定されていた通りの春と夏を過ごし、オーストラリアやニュージーランド、そしてリトアニアからリスボンまでと、世界各地で2018年にリリースしたアルバム『レイズ・ヴァイブレーション』をプロモートするため、コンサートツアーを巡っていたことでしょう。
このアルバムもこれまでの作品と同様に、曲が始まると、どこからともなくスーパーモデルたちが現れるかのような彼らしいノリに仕上がっています。そんな中で最初の曲は、プリンスがレッド・ツェッペリンの 「Kashmir(カシミール)』」を歌うような感じで、レニーが「孤独や身勝手さ、傷ついていることから解放されれば、人類全ての人と手を取り合うことができるだろう」と歌う 「We Can Get It All Together(僕らは1つになれる)」になります。この曲は、ここ最近の彼のコンサートの定番曲にもなっています。
しかしながら2020年3月初旬、COVID-19の感染が加速する中、彼はパリの自宅を離れてバハマ行きの飛行機に乗ります。そして、「世界が正常に戻るまでの数日間は」と、バハマにあるエルーセラ島の自宅で過ごそうと考えたのでした。
そのタイミングで彼は、ツアーに必要な荷物はすでにオーストラリアへと発送したばかり。数本のジーンズとわずかな身の回りの品だけを携えて、エルーセラ島にやってきたのでした。「だから、この小さなバッグだけで5カ月半近く生活しているんだ」と、彼は話します。
エルーセラ島では、これまではビーチで眠ったりしていたそうですが、「ここでの生活はまだ長引きそうだ」感じ、ついに諦めてエアストリームのキャンピングトレーラー内のワンルームで生活することに。
もちろん彼は1人ですが、路上で出会ったカリブ海の雑種犬であるLeroy(リロイ)とJojo(ジョジョ)の2匹と一緒です。もちろんこの2匹は、人間の言葉は話しません。ですが、レニーには気のおけない仲間となっています。このインタビュー時にレニーは、「ここでの生活も長くなったので、彼らが何を言っているのか、わかるようになってきましたよ」と打ち明けます。
彼のSNSの写真を見ると、なんだか牧歌的な亡命生活をおくっているようにも見えます。それらの写真で、彼は上半身裸に裸足の姿で古いフォルクスワーゲンビートルのタイヤ交換をしていたり、穏やかな青い海の側でギターを弾いていたり、2つのバスケットがあふれるくらいのバナナを収穫して家へと持ち帰っていたりと。
ここ数カ月間のコロナ渦における精神的なストレスを、誰よりも受けていないように見えるのです。それはひっそりとたたずみながら、感じるままに生きているような自然体の姿そのものです。ある投稿のキャプションには、「あるがまま感じている」と記されています。投稿された写真の数々を見ても、「不幸にも一人となった」という感じではなく、「慎(つつ)ましく、そして思慮深く生きている」といった印象を受けるものばかりです。
ですがレニー・クラヴィッツは、「物欲などなく、モノを所有することに嫌悪感を抱いている」というわけではありません。パリのラグジュアリーな地区である16区には、1920年代に建築された4階建てのタウンハウスを所有しています。それ以上に、その家の地下には、隠れ家的なバーもあります。そして壁には、ウォーホルやバスキアのアートが飾られ、プリンスのギターにジョン・レノンのシャツ、またクローゼットにはあふれるほどのジェームス・ブラウンのダンスシューズまでも。圧巻は、実際にモハメド・アリが試合中に流血した際の血痕がついたままのボクシング・シューズが。このように数え切れないほどの数の、ヒーローたちのお宝を収納したコレクションルームもあります。
パリでのレニーとエルーセラ島におけるレニーの陰陽、二重人格かとも思える生活を合わせ鏡を使って考察していくと、彼の人物像を語る上での最適解が浮かび上がります。そう、「彼こそ最後のマスカルチャー(大衆文化)のロックスター」なのだ。
なぜなら、官能主義 / 過激主義的デカダンス(虚無的・退廃的・病的な唯美性に傾倒すること)とビーチでの生活のような反物質主義は、共に「ロックスター」という職業における両極のアーキタイプ(原型)ではないでしょうか。それを 無意識のうちに両立できる人物は、彼をおいて他には存在しないということなのです。
彼は常に、「レニー・クラヴィッツは何をしているのか?」という私たちの疑問に対し、すんなりと応えてくれているというわけす。「ライブストリーミングの時代にあっても、彼はパフォーマーであり続けている」、これは現時点でも事実です。
このエルーセラ島で彼がSNSに投稿している写真も、実際には誰かがフレーミングして、写真撮影をしているわけですから。まさか、犬が撮影しているわけはないでしょうし…。
Zoomでの会話中、画面に映り込んできたピクセル化されたレニーは、Wi-Fiの電波を探して家の中をうろついていました。彼の姿にピントが合ったかと思いきや、フリーズし、デニムシャツを肋骨の下あたりでボタンを留め胸が露わになります。首には何本かの紐(ひも)で緑色の鉱石がついたネックレス、六角形のシルバーの影がジャングルと白い空を映し出し、「世捨て人となったロックスターの偶然の自撮り」のようになっていました。
2020年5月に、レニーは56歳になりました。ですが、白髪混じりの無精ひげだけがそれを物語るぐらい。唇のすぐ下にヒゲをつければ、25歳当時のレニーと何ら変わりありません。いつまでもクールでいるための最も効果的な方法は、やはり目に見える年を取らないことだと痛感できます。
彼はようやく、Wi-Fiを見つけ椅子に腰掛けると、島での生活について話し始めてくれました。
「島の中ではCOVID-19の感染者数は少ないけど、島民は皆とても気をつけています。食料を買うために自分の敷地から出ることはできますが、それは決められた日に限られるし」とのこと。それにも関わらず、「島での生活は窮屈に感じないのか?」と訊けば、「決してそんな気持ちにはならない」と答えます。
「ここにいる間は、ほとんどそんな感じで生活しています。自分に必要ではないものに気づけることは、本当に素晴らしいことですよ。あと5カ月…、あと5年? ここに滞在していなければないとしても大丈夫だと思いますよ」と、話しています。
◇レニー・クラヴィッツ「近況」
「目を覚ますと、農作物をチェックするような日々をおくっていますよ。今は乾季ですが、いくつかの作物は育っています。きゅうり、オクラ、スイカ、パッションフルーツ、釈迦頭(シュガーアップル)、サワーソップ、ザクロ、ココナッツ、マンゴー。それからレモングラス、ファイブフィンガーグラス、モリンガ、セラシーといったハーブ類もあります」と語るレニー。
彼の祖父母は、これらを『ブッシュ・メディシン(森の薬)』と呼んでいたそうです。「これに共感できたら、収穫してきてハーブティーをつくろう」と言ってくれました。
レニー・クラヴィッツのルーツは、まさにこの地域にあるのです。彼の祖父アルバート・ローカーはバハマ諸島の最南端、キューバとハイチに挟まれたイナグアで生まれています。「祖父は90代まで生きていましたが、80代になっても身体を鍛えていました。まさに、鋼鉄のような島の男でした。裏庭にある1本の木に、革のベルトやほうきの柄のようなものを使って筋力トレーニングをしていたんですよ」とのこと。遺伝的に受け継がれたものだという、彼の羨ましい体格への謎を解くヒントも話してくれました。
90年代後半から、レニーはマイアミを拠点とするトレーナーのドッド・ロメロの元でトレーニングを続けています。彼のおかげで筋骨隆々とした体型を維持し、50代になっても3時間に及ぶコンサートをやり続けるスタミナを維持することができています。
日々のトレーニングのルーティンは、朝は朝食前の有酸素運動で脂肪をエネルギーにした運動、そして寝る前の有酸素運動で寝ている間も脂肪を燃焼させています。さらに日中は、ウエイトトレーニングを。今はSNSを利用して、トレーナーと一緒にトレーニングメニューに取り組んでいるようです。
レニーは「われわれは常に、目標を先に持ち続けています。私のベストな体型は、過去にはありません。それは現時点でも、この先にあるからです。年齢を重ねても、その目標は未来にあり続けるのです」と語ります。
エルーセラ島では、島にあるものでトレーニングを行わなければなりません。遠い親戚でエミー賞を受賞しているお天気キャスターのアルバート・ローカーのように、臨機応変としたスタイルで行っています。私有地の中で小道を見つけては、草や土の上をランニングをしているのです。
「これが現在の有酸素運動のスタイルです。あとは地面に横たわるように生えているヤシの木をベンチ代わりに、その左右にダンベルを置いて、その幹の上でウエイトを持ち上げたりしています。まさに真のジャングルトレーニングですよ」と、語ります。
そんな彼が、ここでしていないことと言えば、レコーディングです。過去3枚のアルバムを制作した森の中のコンクリート建築で掩蔽壕(えんぺいごう=軍施設)のように見える「グレゴリー・タウン・サウンド」スタジオは、2019年にハリケーン「ドリアン」がバハマ諸島を襲ったときには無傷で生き延びましたが、2019年起きた水害以来使用できなくなっています。
指でドーナツの半分くらいの大きさのサイズの輪をつくりながら、「このくらいの太さのホースの一部が、ある夜、バスルームのシンクの下で破裂してしまって、スタジオ全体をダメにしてしまったのです」と説明しています。すでに当時の彼の頭の中には、いくつかのアイデアが浮かんでいたところでした。この惨事によって、2020年は音源をつくれないことなり、とても残念でした。
話は時をさかのぼりますが、2011年にレニーはアッパーなファンクをインスピレーションしたアルバム、『ブラック・アンド・ホワイト・アメリカ』をリリースしています。
このアルバムはオバマ政権下における楽観的でピュアな産物であり、そのカバーには、額にピースマークが描かれた少年時代のレニーの写真が飾られています。
そして、アルバムタイトルになっている曲は、黒人と白人が一緒に街を歩いているだけでも危険だった頃に出会って結婚した頃の両親(黒人の母親と白人でありユダヤ人の父親)と、アメリカ初の黒人大統領が誕生したことによる新しい時代の到来を対比させています。
その歌詞の内容は…
分断なんてない、わかるだろ?
未来はやってきたようだ
そしてわれわれはついに
共通の理解を見つけたのかもしれない
2020年にレニーは当時を振り返り笑いながら、「驚きでしたよね、だって、『ついにこの時が来た』って思いました」、と答えています。
◇「新たな世界」
新たな世界へと進むことは可能ではあります。ですが、それは現状の問題点を指摘することから始まります。
彼はアロマオイルに浸ったようなユートピアニズムに対し、不当に高い評価をしているわけではありません。ですが、1989年のデビューアルバム『レット・ラヴ・ルール』から、ずっと社会のシステマティックな人種差別について訴えてきているのです。
このアルバムの収録曲「ミスター・キャブ・ドライバー」では、「富裕層が多く住むアップタウンでは、ドレッドヘアをしているとタクシーに乗車拒否をされる」、ということを歌っています。
2001年のアルバム『レニー』では、ジムに向かう途中で自身が容疑者と間違えられ、マイアミ警察により逮捕されて手錠を掛けられ拘束された怒りの体験を、「バンク・ラバーマン」の中で歌っています。
さらに、2020年5月にアメリカのミネアポリスで警察官らがジョージ・フロイドさんを死亡させたことで、その後、その事件への抗議デモがアメリカの各都市で口火を切りはじめた夏には、レニーは自身のSNSに『レット・ラヴ・ルール』収録の、警官によるリンチとストリートの暴動に言及したビートルズ的な嘆きの曲 「ダズ・エニィバディ・アウト・ゼア・イーヴン・ケア(誰も気にしていないのか?)"」を投稿しています。
「ずっとこの種のことについては、訴え続けています。今のこの現状よりも、実際はもっとより良い世界になっていただろうと思っていました。そしてわれわれは、もっと進化しているのではないかと思っていました。完璧とは言えないまでも…」と、レニー。
今のところトランプ政権下でリリースされた唯一のアルバム『レイズ・ヴァイブレーション』は、ルーフトップパーティーでシメくくられるような感じで、メリハリのついたレジスタンスデモ行進へ向けた希望あふれるサウンドトラックのようにも感じられるものです。
このアルバムリリース以降に起こった全てのことを考え、「アメリカのこの厳しい現状に対処するために、何か考えていることはあるのか?」と、レニーに訊ねてみたところ、彼は「もちろん、当然ですよ。言うことはありますよ。言いたいことはたくさんあります」と、答えています。
今のこの状況でも、彼は練習を重ね続けていると言います。自分の曲を演奏することもあるそうですが、ときには自らの身体に染み込んでいるレッド・ツェッペリンやジミ・ヘンドリックス、ボブ・マーリー、ピンク・フロイド、チャック・ベリー といった彼の基礎を構築したロックの教科書でもあるレコードと対峙し、そこに隠された細かい部分を見つめ直すこともあるそうです。
◇『Let Love Rule』:レニー・クラヴィッツの生い立ち
それにレニーは、『Let Love Rule』というタイトルの本の出版の準備にも取り掛かっています。この書籍は、先に挙げたロックの先駆者たちからの影響によって、「自分自身がどのように変わっていったのか」という回顧録でもあります。
中学生の頃、彼は初めて大麻を吸ってハイになり、そのときに友人がレッド・ツェッペリンの "ブラック・ドッグ" のカセットテープを流したそうです。その瞬間を彼は、映画『スターウォーズ』で描写されている光速ワープに例えています。そして、「私にとって全く新しい世界を開いてくれた。音色、アティチュード、音楽、ソングライティング、ギターの全てにおいて」、とも振り返っています。
この本の中でレニーは、1964年にニューヨークでオビー賞を受賞した舞台女優ロキシー・ローカーと、NBCニュースのエディターであるサイ・クラヴィッツの間に生まれ、その後シチュエーション・コメディードラマ『ザ・ジェファーソンズ』のプロデューサーとなったノーマン・リアのことをつづっています。そのドラマでジョージ・ジェファーソンの隣人として、ゴールデンタイムのテレビでは初の異人種間カップルの一人であるヘレン・ウィリス役に母親であるロキシー・ローカーをキャスティングしたことによって、マンハッタンからロサンゼルスへと引っ越すことになったことを記しています。
さらに、スケートボードや大麻を覚えることで引越し後の生活に溶け込んだことや、サウスロサンゼルス地域にある「ボールドウィンヒルズ」の裕福な黒人地区に落ち着いたことなども。
そして、ハリウッドにある野外音楽堂「ハリウッド・ボウル」でカリフォルニア少年合唱団として歌ったこと、友人に誘われて行った聖歌隊キャンプで神に遭遇したことも。さらにR&B(リズム・アンド・ブルース)のセンスが、燃えさかるギターのパワーとミックスされたプリンスに出会ったことで、新たな扉を開けたこと、そしてアフロヘアーからジェリー・カールに変えたことも。
◇「ロメオ・ブルー(Romeo Blue)」時代
最初のバンドを結成したことについては、「レニー・クラヴィッツ」という名前の響きは「ロックミュージシャンというより会計士っぽい」と思い、一時的に「ロメオ・ブルー」に改名していたことも振り返っています。
本人が「ロメオ・ブルー」としてやりたかったことと違うものを求めるレコード会社に対して、大ブレークになった可能性も否めない契約のいくつかを断ってしまったことなど。そして、そのチャンスを逃したのは、1日4.99ドルで借りていたフォード・ピントで車上生活を続けているときだったことなども、明らかにしています。
そのチャンスの詳細をひとつ挙げると、レニーは友人でもあるモータウンレコードの創始者であり、マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーなど数多くの大物アーティストを発掘した音楽プロデューサーのベリー・ゴーディの息子ケネディ・ゴーディの曲「サムバディズ・ウォッチング・ミー」をレコーディングするチャンスを逃しています。結果的にこの曲は、ケネディ・ゴーディが「ロックウェル」名義で1984年に発表します。そこで旧友であるマイケル・ジャクソンとジャーメイン・ジャクソンがバック・コーラスとして参加し、全米2位ヒットを記録しました。
「私の魂がそれをやることを許さなかったので断りました。でも、もし自分がそのチャンスを利用していたら、私は今ここにいないでしょうし、あなたとも話をしていなかったと思いますよ(笑)」と、語っています。
◇レニー・クラヴィッツと父シー・クラヴィッツの関係
彼はこの著書『Let Love Rule』を、「計り知れない自分へのセラピーのようでもある」と表現しています。
レニー自身の意志は別として、この回顧録をつづることへの最も大きな原動力となったのは、元グリーンベレーとして朝鮮戦争で戦った彼の父の存在だそうです。
レニーは「父と私の間に対立があったからこそ、私は必要とされる自分になることができたのだ」と、語っています。後になって彼は、父親がずっと母親を裏切っていたことに気づきました。父親がスーツケース片手に家から出て行くときに、母親は「息子であるレニーに何か言うように」と、父親に言ったそうです。すると長い沈黙の後、父はレニーを見て、「お前もそのうちにやることだ」と、言ったそうです。
「このときの父の言葉は、思った以上に自分に影響を与えました」と、レニーは振り返っています。彼はこの言葉が、人間関係における自身の行動と忠実さへのアプローチを形づくったことを認めています。
「人生の中で、非常に困難な場面がありました。そのときは、その理由がわかりませんでした。私は父が大好きで、父が亡くなる前に和解はしています。が、父との関係の中で私に影響を与えていたいくつかのことにこだわっていたのです。でも、この本を執筆することで、自分が抱いていたいくつかの思いを取り除くことができ、父を、ただ1人の人間として見ることができたのです」と、レニー言います。
◇「レニー・クラヴィッツのこれまで」
80年代半ば、レニーはボストンのR&Bグループであるニュー・エディションのコンサート会場の楽屋のエレベーターで、コメディー番組『コスビー・ショー』に出演していたリサ・ボネットと偶然出会って意気投合し、すぐに付き合いだしました。
当時リサは人気急上昇中で、彼女の役であったデニース・ハクステーブルを主役として、大学を舞台にした『コスビー・ショー』のスピンオフシリーズドラマ『ディファレント・ワールド』の主役に抜擢されるほどでした。
この頃のレニーはと言えば、ときには車上生活をおくっているロックスター志望の若者だったのです。しかし彼らは1987年、リサの20歳の誕生日にラスベガスで結婚、それからバハマで過ごすことに。そのときにレニーは、エルーセラ島との恋にも落ちるわけです。その後リサは、2人の間の娘であるゾーイを身ごもったことに気づくわけです。
(つまり、ドラマ『ディファレント・ワールド』で演じていたデニース役のキャラクター設定は独身でしたが、実際リサ・ボネット本人は、結婚していたというわけですね)。
後年、米人気俳優でコメディアンのビル・コスビーは、性的暴行容疑で有罪判決を受けますが、この頃のビルは、まだ世間のイメージというものを気にしていました。そのためドラマ『ディファレント・ワールド』のセカンドシーズンで、デニースの設定に対してクレームを言い出します。その結果リサは、役から降ろされてしまうのです。
◇レニー・クラヴィッツとリサ・ボネット
そのリサは、レニーのアルバム『Let Love Rule』では2曲共同で作曲をしています。そしてレニーは、彼女のクリエイティブ・センスのおかげで、「世界が『ロメオ・ブルー』ではなく『レニー・クラヴィッツ』を必要としていることに気づかせてくれたんだ」、と話しています。
「求めていた声、そして名前とイメージがそこにあったんです。こんな風に心を開いたのも初めてですし、このように愛や自由を知ったのも初めてでした。そして彼女が、アーティスティックな生活においてどのように行動し、何をしているのかを見ることが、自分がそのとき進んでいる道において必要だった最も望ましいものだったというわけです。そこで求めていたサウンドやメッセージ、そして楽章が自分の頭の中で自然と鳴り出してきたんです。だから、そのやり方が今でも自分の仕事の方法論になります。つまり、頭の中に降りてくるまで待つというわけです。そうすることで、自分のエゴを取り除くことにもなりますからね。みんなが求めていたものとは違うかもしれません。ですが、そこで降りてきたものを大切にしています」と、語ります。
ほぼセルフ・プロデュースで、ほとんどがセルフ・パフォーマンスで制作された『Let Love Rule』は、カーティス・メイフィールドにジョン・レノン、そしてジミ・ヘンドリックスからの影響を昇華したものであり、今ではレニー・クラヴィッツを代表する作品と認識されています。ですがリリース当時は、それほど評価はされていませんでした。
数多くのレコード会社の制作担当者たちから、「レニーの音楽は黒人すぎる…」とか、その逆に「白人すぎて売れない」などと言われたものでした。ですが、彼はすぐにヴァージン・レコードと契約に至ります。しかしそこでも彼は、ボン・ジョヴィのようなバンドとラジオで競争するため、「アルバムをもっと洗練されたものへアレンジしてからリリースしなくちゃダメだ」と、四六時中言われていたそうです。
90年代初頭になると、映画『レザボア・ドッグス』のサウンドラックのようなオールディーズや、コーデュロイのフレアパンツをはいてフォークミュージックを演奏するべックのおかげで、70年代というキーワードはブームになります。ですが、この80年代後期においては、レニー・クラヴィッツのようなレトロ嗜好は、「時代錯誤」と思われていたのです。
『ローリング・ストーン』誌は、彼のギターの音色、わずかにしか聞こえない音のディテールに対して彼が擁する聴力のすごさ、それに彼のグルーヴ感を認める以前は、「まるで自滅を余儀なくされているかのように、レニーは絶えず彼の影響にあるものを想起させることで芸術的な大失敗へと自らを招いている」と、酷評しています。
このアルバムはビルボードチャートでは、最高61位でピークを迎えました。ですが、ヨーロッパでは徐々に火がつき、最終的には大ヒットとなりなります。そして現在でも、レニーはヨーロッパで大人気です。
このことを境に、彼は自信を持って人とは異なる道を歩み続けています。そして、海辺のコンクリートのスタジオに降り立ち、電源を入れ、流行り廃りとは関係のないロック・アルバムを制作しているのです。
エルーセラ島の隣人で、1991年からレニーのツアーに参加し、93年発表のアルバム『Are You Gonna Go My Way(自由への疾走)』以降の作品のレコーディングにも参加しているクレイグ・ロスは、レニーのことを「彼は朝型の人間ではないですね。だから早起きしたときには、『ああ、きっと夢の中で曲が降りてきたに違いない。その曲をカタチにしたいのだろうな』と思いますね。そうでなければ、普段の彼は午後になってから電話をしてきますので」、と教えてくれました。
この著書『Let Love Rule』は、レニーが結婚し、彼が現在の地位を気づくことになった1991年に発表のブレイクアルバム『ママ・セッド』をリリースする以前、スターダムへの道を歩み始めた25歳の時点で終わっています。
このアルバムには、リサへ宛てた曲でメガヒットとなった「イット・エイント・オーヴァー・ティル・イッツ・オーヴァー」が収録されています。
レニーとリサは、娘のゾーイが4歳だった1993年に離婚しました。ゾーイは主にリサと一緒にロサンゼルスで育ち、11歳のときにマイアミへと引っ越し、ロックスターとなった父と暮らしています。
レニーは娘ゾーイを、「最もよく知る実在している人間」に成長したと言い、彼女が女優や音楽活動のプロデューサーとして独立した成功を収めるまでの過程は、「決して容易なものではなかった」と述べています。さらに、「世間に知られている2人の両親がいるだけです。比較されることもありましたが、彼女はそんなことを一切気にしていませんでした」とも語っています。
近頃、レニーはリサと親密です。そしてさらに、彼女の現在の夫であり、映画『アクアマン』やHBOドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』のカール・ドロゴ役で知られるジェイソン・モモアとは、さらに親しく親友のような間柄となっています。
「ジェイソンと私の仲や、今でもゾーイのママと私の仲が良いことに、どうやってこの3人の関係を築いているのか? みんな信じられないようですね」と、彼は肩をすくめて話します。続けて、「みんながしていることを、ただ私たちはしているだけですよ。愛に身を任せる、そうですよね? 破局したすぐ後は、明らかに義務でしたが…。ある程度の時間、ヒーリングや内省などすることは必要でした。でも、ジェイソンと私の間に関しては、文字通り出会った瞬間に『あぁ、馬が合うな』といった感じでしたね」と、話します。
この著書『Let Love Rule』には、レニーがストックホルムのコンサートでレザーパンツが破れてしまい、うっかりと彼の大事なものをオーディエンスに披露し、その後インターネット上に拡散されてしまったことについては触れられません。
この大事件について彼は、「そんなこと、思いつきもしませんでしたよ。ジョン・レノンも彼のアルバム『未完成作品第1番 トゥー・ヴァージンズ』のジャケットで裸ですよね。彼もやっていたので、そんなことはどうでもいいですよ」と、答えています。
◇「本質」
この本の本質は、自分の心に従い、商業的要求のために自分を曲げることを拒み、そして初めて本物の愛に落ちる若者の話です。
「もし続編が発表されるとしたら、その本の中のレニーは、もっと複雑なキャラクター、恐らくアンチヒーロー的なものになるのではないでしょうか?」とたずねてみると、彼は笑いながら「ああ、それは本当に厄介になりますよ。絶対に面白くなるでしょうね。状況が全く逆になりますから」と、最後に答えてくれました。
Source / Men's Health US
Translation / Kazuhiro Uchida
※この翻訳は抄訳です。