2017.09.06

From 42/54

「どこかに正解がある」と考えるのは20世紀の病気である

 私たちの社会は、「問題」にあふれている。では、その問題とはなんだろうか?問題は必ず解決できるのだろうか?

「どこかに正解がある」と考えるのは20世紀の病気である

本稿はポスト資本主義時代の起業術を伝えるメディア『42/54』の提供記事です。

 ジェームズ・ダイソンは「紙パックなど不要」という信念に基づいて、サイクロン型掃除機を開発・販売した。しかし、大半の消費者は掃除機に紙パックが付属しているのは当然であり、ここには何の解決すべき社会的課題(イシュー)など存在しない、という認識だったはずだ。いや、むしろ「そこにイシューなど存在しないと信じていたので認識できずにいた」と書いたほうが正しい表現かもしれない。

 「そこに課題がある」という共通認識が存在しないのが課題提案型(=問題提起型)事業の特徴だ。換言すれば、問題解決型事業は、それがすでに社会的コンセンサスを得た課題に対するソリューションとも言えよう(ただし、コンセンサスの取りやすさとその課題解決の難易度は無関係である)。

 課題提案型の典型が「新規事業開発」であり、その大半は失敗することになっている。社会からは単なる“余計なお世話”としか認識されず、歴史的には死屍累々なのだが、そのなかで“偶然”生き残ったものが事後的に“イノベーション”として礼賛される。

 市場は後知恵バイアスの塊なので、「いやぁ、僕も常々、ゴミが見える化できる掃除機を作れば売れると思っていたんだよ」というように、訳知り顔で論評する輩が必ず出現する。こういうタイプこそイノベーションから最も遠いところにいる善良な市民、愛されるべきビジネスパーソンなのだろう。この手の人物であふれた日本の家電メーカーからダイソン掃除機のパクリが続々と出現するのは時間の問題である(サイクロン型掃除機の関連特許については数多くのネタがあるが、本論とは無関係なので割愛したい)。

 さて、妙な制度やモノが出現して自分の生活や仕事が変わっていく状態を嬉しがる人はさほど多くないはずだから、イノベーションには社会からは歓迎されていないという謙虚さが必要だ。事業者としても、イノベーターがたまたま発掘したマーケットの後を粛々とフォローしていくほうがビジネスとしては安全だろう(ただし、フォロワーの大半はさほど儲からないはずである)。

 日本には、期待もされていない偶然としてのイノベーションなどを追求している余裕は残されていない。前述の「問題解決型」をさっさと片付けないとマズいでしょ、という状態に追い込まれている。自動運転車の開発に血道を上げてるヒマがあるのなら、崩れ落ちそうな橋梁をなんとかしてほしい、というのが庶民の本音であろう。

 さらに問題なのは、その問題解決型として設定されるべきイシュー自体が間違っているケースがあまりにも多いことだ(その好例は「閑古鳥鳴く官民ファンド」だろう)。マスコミの議題設定機能が激しく劣化していることに起因しているが、その遠因を作っているのは私たち国民一人ひとりが醸し出している“空気”のようなものなのかもしれない。改めて『空気の研究』を読み直したほうが良いのは間違いない(※1)。

 では、そもそも“問題”とは何か。ここで言う問題とは「社会的コンセンサスを獲得していると思われる解決すべき課題」だが、それらの問題は問題自体の性質によっておおよそ3種類に分けられる。すなわち「パズル」「パラドックス」「ジレンマ」だ(※2)。

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Text:竹田茂

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