アウディブランド復活の合図だった

ブライアン・マコーリーとダン・クラウトは、2人合わせて5台のアウディ「TT」を所有しています。「実にクールな車ですよ。今ではなかなか見かけませんけど」と言いながらマコーリーは、彼とその夫であるクラウトの「TT」に対する愛と苦悩を打ち明けてくれました。

「みんな『ドイツ版〈ミアータ(※編集注:マツダ「ロードスター」の海外モデル名)〉みたいだ』とか、『美容師が乗っていそう』とか、『「ゴルフ」に「ビートル」をかぶせただけだろ』とか、バカなことばかり言うけどね」と、クラウトも黙っていません。「デザインの素晴らしさから、初めてほれ込んだアウディがこの車なんだ」と念を押します。

「TT」は情熱を喚起するために生み出された車。決して、車道に埋没するためにつくられた車ではありません。アウディがアメリカで絶滅の危機を迎えようとしていたとき、登場したのがこの「TT」でした。「簡単には引き下がらない」、そんなアウディの決意の表れだったと言えるでしょう。個性にあふれて力強く、1990年代の他のどの車とも違っていました。アウディにとってはまさに、ブランド復活の狼煙(のろし)でした。

アウディtt
Fredrik Broden Photography
確かに「TT」はフォルクスワーゲンの経済車をベースにしてはいますが、開発チームはデザインを洗練させるだけの財政的な自由も与えられていました。

大きな愛と尊敬を勝ち取るべくして生み出された「TT」は、ノスタルジーを感じさせつつ、むしろ、どこを取っても極めて「モダンな車」でした。「前衛的な」とも形容できました。この「TT」の影響があればこそ、ミニ「クーパー」やシボレー「カマロ」、フォード「サンダーバード」ほか、多くの車がレトロスタイルのデザインで生まれ変わるという現象が起きたのです。初代「TT」をクラシックと呼ぶにはまだ早いかもしれませんが、そう呼ばれる日は遠からず訪れるでしょう。

そうです、1998年に初代が誕生してから四半世紀の歳月が流れました。3世代のモデルを経て大いなる役目を果たした「TT」が、ここでついに生産終了となりました。小型クーペとロードスターという2種類の仕様で展開された「TT」によって、アウディのスタイルとストリートでの存在感が世界中に根づいたと言えるでしょう。おかげで今では、資産家たちがこぞってアウディのSUVを購入するまでになりました。これもまた、「TT」の遺産と呼んでいいでしょう。

デザイナーのフリーマン・トーマスは「TT」が誕生した当時を振り返って、「アウディは問題を抱えていた」と認めています。アメリカ市場を手放すわけにいかず、悪戦苦闘を続けていた頃の話です。アメリカにおけるアウディの販売台数は、1985年には7万4061台と好調だったのです。

しかし、翌86年11月23日、CBSテレビの人気番組「60ミニッツ(60 Minutes)」で「アウト・オブ・コントロール(制御不能)」と題した回が放送されたことで、事態は急転直下します。それは、当時のアウディのフラッグシップセダンだった「5000」シリーズが、制御不能な急加速を起こすことを非難する内容の放送でした。販売台数は激減。87年には33%も急落しました。96年にはアウディの販売台数はついに、2万7279台にまで落ち込んでいたのです。

「しかしアウディと言えば、圧倒的なテクノロジーが持ち味です」と、トーマスは続けます。「まずは、アウディが開発した画期的なフルタイム4WDシステムの“クワトロ”、そしてオールアルミボディの『A8』。さらに往年のドイツ人ラリードライバーのワルター・ロールとともに手にしたラリーでの成功がありました。そんなアウディの魅力的な歴史を、いかにして語り継ぐのかが私たちに課された使命でした」

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この後ろ姿。「TT」のように一瞬でその車だと識別できるモデルは、そう多くありません。

4代目「ゴルフ」らと基本設計を共有

コンセプトカーの段階から市販車の生産開始まで、「TT」のデザインは純粋かつ明確なメッセージを打ち出し続けていました。最初の「T」には「Tradition(伝統)」、2番目の「T」には「Technology(テクノロジー)」の意味が込められています。91年にアウディが発表した、いずれもミッドエンジン仕様の2台のコンセプトカー(W型12気筒エンジン搭載の「アヴス」と、V型6気筒エンジン搭載の「クワトロスパイダー」)に着想を得て開発された「TT」ですが、漫画っぽさに陥ることなく、鮮烈な印象を与える車として完成しました。

ただし、コスト度外視のコンセプトカーとは異なり、市販車である「TT」には採算性が求められます。そのため、主にフォルクスワーゲンの部品が流用され、スチールパーツの大半に鉄が用いられることになったのです。

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丸いくぼみ(ディンプル)はデザインのポイントとして、エアコンの通風孔からシフトレバーまで、インテリアの至る所に使われています。

「一切の妥協を排し、それでいて個性的な車づくりが経済的に実現可能であることを証明するのが私たちの発想でした」と、当時アウディのデザインチーフを務めていたペーター・シュライヤーは「TTストーリー(The TT Story)」と題された本の中で述べています。

「コストを極限まで削ってしまえば、ブランドイメージを押し上げるような車などつくれないことは、私たちもよく承知していました。ですが、採算の問題で夢を打ち砕かれるのは避けねばならず、現実を直視する必要があったのです」

「普通の車の性能を引き上げる」というスタート地点に立ったことが、「TT」にとってのアドバンテージになりました。使われたのはアウディ「A4」の基本設計ですが、これは手始めとしてコンパクトなハッチバック仕様の「A3」に流用されて以降、あの愛すべき4代目のフォルクスワーゲン「ゴルフ」、そして「ゴルフGTI」「ジェッタ」「ニュービートル」、さらにはシュコダ(編集注:フォルクスワーゲングループのチェコの自動車メーカー)やセアト(編集注:同スペインの自動車メーカー)などにも採用された、やや紛らわしい来歴のあるセットアップです。

主流の前輪駆動車を目指すという目的に沿って、アウディの大型車とは異なり、エンジンは横置きとなりました。世の流れに従った結果として、デザイナーの自由度がかえって増したというのは興味深い点かもしれません。

目指したのは「親しみやすいデザイン」

そのような「TT」のコンセプトは、フォード「マスタング」(「ファルコン」の骨格がベース)、トヨタの初代「セリカ」(パーツの大半が「カリーナ」セダンからの流用)、フォルクスワーゲン「カルマンギア」(「ビートル」をセクシーにつくり変えた車)など、多くのスポーティーカーに共通したものでもありました。

「まさしく転機を告げるプロジェクトでした。コンセプトが固まった後、フリーマン・トーマスの手に全てが委ねられることになりました」と回想するアウディの当時の社長、フランツ=ヨーゼフ・ペフゲンが「TTストーリー」に描かれています。1995年に「TT」クーペのコンセプトが発表された時点で、「すでに最終的なデザインは見えていた」とトーマス自身は語っています。

トーマスが目指したのは、「親しみやすいデザイン」でした。彼は「TT」だけでなく、その後の「ニュービートル」の原型となった「コンセプト1」のデザインも手掛けたアメリカ人デザイナーです。

「あのアウトウニオン(※編集注:Auto Union=1930年代から80年代に存在したドイツの自動車メーカー。1985年にアウディAGに改名)のレガシーを未来に引き継ごうと決めていました。賛否両論は覚悟の上でした」と言います。

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磨き上げられたアルミニウムで華やかに彩られ、W型12気筒エンジンを搭載した、1991年発表の「アヴス」コンセプトカー。アウディの前身に当たる1930年代のアウトユニオンによるレーシングカーを彷彿とさせる設計でした。

「TT」のデザインは、どちらかといえば控えめです。ボディの形状に魅力のほぼすべてが詰まっていると言ってしまってもよいでしょう。1930年代のアウトウニオンのレーシングカーを彷彿とさせる流線形を採用しながら、強調されたガラスパーツと放射状のホイールが、筋肉質な雰囲気漂う重量感を演出しています。当時としてはセンセーショナルなデザイン。これぞアウディの新たなデザイン言語の範例と、世界中から絶賛の声が上がる結果となりました。

「アウディの歴史をさかのぼれば、そこには明確に区別されるべき二つの時代があることが分かるはずです」と、「TTストーリー」の中でインタビュアーのユルゲン・レヴァンドフスキに語っているのはペフゲンです。

「まず、フェルディナント・ピエヒ(※編集注:ポルシェやアウディで活動した後、フォルクスワーゲンの会長などを歴任したオーストリア人経営者)の時代がありました。彼の手により物事の原型が形成され、新たなテクノロジーと厳格な品質基準が導入されたことで、アウディというブランドが定義づけられたのです」と言います。

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「TT」のコンセプトモデル。そのルーフは、後に量産されたものに比べて、塔のように高く盛り上がったルーフがデザインされていました。

そしてこう続けます。

「それから第2フェーズと呼ぶべき時代へと移ります。そしてアウディの方程式に、感情という要素が注ぎ込まれていったのです。当然のことながら、エンジニアリングのさらなる向上も同時に行われました。パワフルでユニークな広告展開、そしてアウディと他社を明確に区別するデザイン性によって、優れたエンジニアリングだけでなく、好感度というファクターが築き上げられたのです。アウディにとって極めて有益なことでした。この第2フェーズを締めくくる強力なステートメントこそ、『TT』でした」

アウディブランドに大きなインパクトをもたらす

「TT」の誕生から5年後、アウディはフランクフルトショー2003で、ミッドエンジン・スポーツカー「R8」の原型と呼ぶべきコンセプトカー「ルマン・クワトロ」を送り出しています。個性際立つ「R8」の導入により、急成長を遂げたアウディのレース活動が印象づけられ、トップクラスのラグジュアリーカーというブランドイメージを手に入れたのです。

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「クワトロ・スパイダー」のコンセプトモデルに見られる滑らかなパネルとアーチ型の屋根は、アウディの将来の展望を示唆しているかのようです。

マコーリーとクラウトの持つ5台の「TT」は、アリゾナ州フェニックス郊外の自宅に保管されています。うち1台はレース用、1台は生活用で、どの「TT」についても細部に至るまで完全に把握していると両名は言います。なかでも特に魅力的な1台が、VR6エンジンを搭載した2005年型のクーペです。無駄のないピュアなデザインに、気取りのない自意識が反映されているかのようです。

「大陸をまたぐ巨大な自動車コングロマリットが存在するこの時代において、『TT』のような市販車が存在する確率は、サハラ砂漠に雪が降る確率に近いと言える」と、アメリカカーメディア「Road & Track」のキム・レイノルズは、1998年に初めて2000年型「TT」を目にした感動を次のように記しています。

“自動車の世紀”とも呼ばれた20世紀も、そろそろ終焉(しゅうえん)に向かっている。見掛け倒しの車はどれも、自動車工場のロボットたちが火花を散らして次の車を溶接し始める頃には、存在したことさえ思い出せなくなっているはずだ。ただし、この『TT』については話が別。万年最下位から突如ワールドシリーズを制した1969年のニューヨーク・メッツ、トルーマンの大統領再選、アポロ13号のハッピーエンディングに匹敵する、自動車界の奇跡なのだ。

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自動車マニアのみならず、デザイン界にもセンセーションを巻き起こしたのが「TT」でした。あのアメリカの高級百貨店ニーマン・マーカスまでもが1998年のクリスマスカタログに、ニンバスグレーのボディにモカシンレッドのインテリアの「TT」を取り上げたほど。アウディにとって何よりも必要だったスポットライトが、ついに降り注いだのです。

圧倒的なスタイリングを誇った1996年型「A4」セダン、そして、そのスタイルの完成形とも呼ぶべき1998年型「A6」セダンにも、「TT」の魅力が受け継がれていました。1997年から99年にかけてアウディの販売台数が伸び続けたという事実からも、「TT」の魅力のほどがうかがい知れます。

2000年には、アウディのアメリカでの販売台数は8万372台に達しました。「TT」がアメリカで販売が最も好調だったのは2000年と2001年で、それぞれ1万2027台と1万2523台を記録しています。しかし「TT」の魅力がアウディ全体にもたらした恩恵を語るには、販売実績だけでは不十分でしょう。

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20世紀が終わりを迎えようとしていた当時、ここまで高い位置にベルトライン(サイドウインドウ下部の横方向に走るラインのこと)がデザインされた車はほぼなかったのと同時に、考えられもいなかったでしょう。

95.4インチ(2422mm)の狭いホイールベースに全長わずか159.1インチ(4041mm)という初代「TT」には、クローズカップリング設計が採用され、180馬力を生む1.8リッター20バルブ・ターボエンジンを積載。アウディの全輪駆動システムとして有名な「クアトロ」仕様もオプションとして用意されていました。

ロケットのように高速ではありませんでしたが、翌年には同じパワープラントを積んだ225馬力のバージョンが登場しました。そして2004年には、250馬力と強力なフォルクスワーゲン製の挟角VR6エンジンの3.2リッター仕様も投入され、高速ロケットバージョンがラインナップに加わりました。

走ればさらに深まる「TT」への思い

マコーリーとクラウトが所有する「TT VR6」のコンディションは上々ですが、博物館の展示品というわけではありません。タイヤはコンチネンタル製のエクストリームコンタクトで、摩耗はほとんど見られません。ただ、年季はかなり入っており、総走行距離の表示は4万9000マイル(約7万9000km)です。とは言うものの、ドライバーズシートに身を沈めれば、レザーとアルミニウムで守られた快適な書斎にいるかのような座り心地です。

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「TT」のインテリアは、90年代から続く数少ない永遠の象徴のひとつ。

初代「TT」の外観はセンセーショナルなものでしたが、インテリアもそれに劣らぬ素晴らしさでした。円形のシンプルなメーター類に通風孔というダッシュボードは、デジタル過多の現代から見ればクラシックと評したくなるほどサッパリとしたものです。

3本スポークのステアリングホイールに備わっているのは、クラクションを鳴らす、エアバッグを収納する、そしてもちろんステアリングを操作するという三つの機能、ただそれだけです。メニューをスクロールするモニターはありません。ラジオの音量はツマミをひねって調節します。

では、エンジンを掛けてみます。

うなり声をあげながら息を吹き返したVR6エンジンが、メカニカルな存在感を主張します。カムギアトレーン(※編集注:複数の歯車によってクランクシャフトの回転エネルギーをカムシャフトへと伝えるシステムのこと)が音を立てて回転し、エキゾーストノートには然(しか)るべき威圧感が備わっています。

ターボ仕様車ではないため、ターボの叫び声は聞こえませんが、エンジンが空気を吸い込む音が心地良く響きます。この2023年においては、“貴重なデリカシー”と呼びたくなる自然吸気の6気筒エンジンが生み出すトルクの流れが、まるで猫の鳴き声のようです。今や、このようにメカニカルな体験をさせてくれる車は希少でしょう。

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肝心の走行。ヴィンテージなタイヤとこの車が個人所有であることに敬意を表し、攻めたコーナリングは控え、エンジンをレッドゾーンまで引っ張るようなまねはしません。スロットルを全開にしなくても、この「TT」のスリット入りのキャブならではの臨場感あふれる感覚が体験できるのです。油圧式パワーステアリングのダイレクトな反応、よく効くブレーキ、そして革張りのシートは程よく使い込まれて艶(つや)めいています。そう、この車がつくられた2004年から20年ほどの年月がすでに流れているのです。

「ドライビングの楽しさという点から言えば、第2世代の『RS』シリーズが究極だ」と、マコーリーは言います。2008年モデルとして売り出された2代目「TT」は初代ほどの個性は持ち合わせていないものの、リアサスペンションが改良され、2012年モデルの「TT RSクーペ」であればターボ仕様の5気筒エンジンならではの華麗な音色を奏でる…さらに一段と良い車に仕上げられています。

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「TT」のDNAでもある特徴的な丸いルーフラインは、クーペモデルの後部座席をほぼ犠牲にしたのかもしれません。それでもなお、余りあるほどの魅力を放っています。

2016年には最終となる第3世代の「TT」が送り出されましたが、その鋭敏な切れ味と比べれば、初代はまるで鈍器のような印象です。インテリアにはずる賢いデジタル表示が装備され、HVACコントロール(※編集注: HVACとは、車両の温度、湿度、および空気の質を制御するシステムのこと)が通風孔のノブ部分に埋め込まれていますが、巨大なセンタースクリーンはまだありません。

この「TT RS」の誇る394馬力の速さは本物です。生産終了となる今年、「TT」を販売台数は1000台程度となるのではないかと推測されます。2代目も3代目も魅力ある車ですが、いずれにせよ初代のデザインを焼き直したものに過ぎません。

前出の「TT」のデザインを担当したフリーマン・トーマスは、現在カリフォルニアであの「メイヤーズ・マンクス」(※編集注:60年代に一世を風靡した伝説的なビーチバギー。現在はEVとして復活)の復活を指揮しています。一方、同じく当時のデザインチーフであったペーター・シュライヤーは、韓国のヒョンデと起亜自動車(キア)のデザイン部門で腕を振るっています。またフォルクスワーゲングループでは、あの「ワーゲンバス」を「ID.Buzz」として復活させています。

四半世紀に渡る「TT」の成功は、販売台数ではなくそのデザインによって評価されるべきものです。その偉大さが理解できない多くの人々にとっては、実用性に乏しい中古車でしかないのかも知れませんが、だからこそまだ状態の良い「TT」が手ごろな値段で売られています。手に入れるなら、今のうちかもしれません。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
Edit / Ryutaro Hayashi
※この翻訳は抄訳です