最初(前編)に言ったように、震災直後に行けなかったことが結構悔しくて…。この時点で、自分勝手な好奇心で…って叱られるかもしれませんが、これは単なる興味本位の好奇心じゃありません。
誰かのために生きてこそ、
人生には価値がある。
と、自分は信じているので、それをここで少しでも真っ当できれば…と願ってのことになります。当然ですが、発生直後は自衛隊や消防隊の方々など、本当に必要とされている方々は被災地へ行くことができていました。でも、僕らは行けない…そこのある差を痛感しました。そして、僕らの「(モデルという)仕事に存在価値はあるのか?」と考えたりしていました。
その悔しさが、「現地へ行って僕も貢献したい」という願いを強くしました。日頃、「世の中のために」なんて思って働いていたわけではありませんが、そのときに「自分は、自己の願望だけで生きているだけなのか?」なんて、自分の人生を振り返ったりもしました。そしてさらに突き詰め、「自分は有事の際には、何も役に立たない存在なのか!?」と嘆き、自分が腹立たしくも思えたときもあったんです。
あ、でも、被災地の出向くことできるようになってから一度、「モデルという仕事をがんばっていて本当によかった。役に立てることもあるな…」と感じた、うれしい瞬間もありました。
石巻市湊町には、1軒だけ被災していなかったコンビニがありまして、そこの雑誌棚に僕がモデルとして出ていた雑誌が並んでいたんです。それを支援先の水産加工工場を営む佐藤さんが発見してくれて、「すごく元気が出たよ」って言ってくれたとき…。そこで、「この仕事も役に立つこともある」ということを確認させていただきました。あのときの光景も忘れられないですね。そのとき、僕のほうがたくさんの勇気をもらった感じです。
今でも「モデルの仕事をがんばろう」とモチベーションを維持できているのは、その瞬間を経験できたからと言って過言ではありません。それを励みに、いまも真摯のモデル業を生業にしています。でも実際は、「モデルという仕事なんて全く必要ない」なんて思っているわけではありません。ただ、「時間が経って余裕がある方にとって、必要となる分野」だと思っています。
ファッションはエンターテイメントの一部であって、それは余暇に潤いを与えるスパイスのようなもの。乱暴に言えば、余った時間を活かすオプションのひとつとも言えます。なので、震災の直後に被災した方々には、余った時間などありませんよね。そこで、「この被災地で、モデルの僕でもできることって何だ?」と、大切なことをいろいろと考えさせてもらいました。
最初の訪問は
震災1カ月後。
4月15日に初めて
被災地に立ちました。
以来、3カ月間は毎週欠かさず宮城県石巻市へ行っていました。その後は1カ月に1回か2回、という間隔になりました。東京でモデルの仕事を変わりなく続けながら、土日は休みをとって通っていましたね。
東日本大震災発生時に僕は25歳、若かったからできたのかもしれません。モデル仲間や撮影現場のスタッフ…カメラマンの方やヘアメイクの方、スタイリストの方やロケバスの方々が同志となってくれました。特に、当時から仲良くしてもらっていたロケバス会社の方には、バスまで出して運転もしていただくなど、かなり協力していただきました。とても感謝しています。
そもそもこれは、「被災地で苦しんでいる方のお手伝いができたら…」と、自ら望んで集まったチームです。自主的に活動しているわけなので、見返りなど考える者はいませんでした。ですが次第に、あるものを求め始める自分もいました。それは、佐藤さん一家を中心とした湊町に住む皆さんの笑顔です…。
笑顔は何よりも
うれしい贈り物。
本当に、その笑顔から逆に僕らも大きな元気…ポジティブに生きる勇気をもらって帰ることができたんです。それも毎回…。「その笑顔から何を授かったのか?」は、うまく言葉にできませんが、毎回何か心の隙間を埋めてくれるような感覚を得ながら、東京へ帰るといった感じでした。
共に働きながら、ふと(被災地の)皆さんの顔を見ると、笑顔を浮かべている。その笑顔も誰かに向けられたものでもなく、自然と笑顔が浮かんでいるところを見たときほど、うれしいものはありません。笑顔の力ってすごいなぁと…。
その笑顔こそ、僕らが「人のためになれた」と実感できる贈り物だったのです。その贈り物を受け取ったときに身体中にアドレナリンのようなものが巡るのですが、あの感覚以上に心が満たされる瞬間はないと思いますね。
笑顔以上の贈り物も!?
それもサプライズで!
妻である花楓(かえで)と知り合ったのも、このボランティア活動だったんです。それで2011年のクリスマスには入籍し、結婚式も済ませたわけなんですが…。モデル同士なので互いに挨拶程度の知り合いではありましたが、ボランティアを一緒にすることで、二人とも東京にいるとき以上に心を開いて話すことができたのでしょう。正式に知り合って、急速に互いを理解し合って…1カ月半で結婚したことになります。
ボランティアで一緒に働くうちに、「互いに大事にしていることは一緒だな」と理解し合うことができたんです。「結婚に至るまでに時間は関係ない」と思って、すぐ結婚したというわけです。その後も、一緒に石巻(湊町)へボランティアに行っていました。そうして半年後に、子どもができて…。
それはちょうど年1回の
夏祭りの日でした…
その日の(復旧)作業が終了して、みんなでお祭りの準備している途中でした。佐藤家のお母さんに呼ばれたんです。家に入るとそこに、ウエディングドレスが用意されていて…。すでに隣の花楓は号泣していました。僕もですが。
佐藤家の復興テーマでもある言葉「いまから ここから」と書かれたフラッグが敷地内に敷かれ、そこをバージンロードに見立ててくれていました。そして、いつもお世話になっていた近所のおばあちゃんにエスコートされて歩きました。するとみんな、ロウソクを持って祝ってくれました。神父さん役には、地元のムードメーカー的存在の女性が。多くの人からたくさんの、そして特別な愛を直接いただいて、ずっと泣いていました。
「何かあったときに、すぐに動けるようにしておかないと」、ということでしょうか。新型コロナウイルス感染症拡大の際にも思いましたけが、「なにか有事の時にちゃんと、的確にすべきことを優先に動ける準備を常にしておかなくてはいけない」とすごく思いましたね。家族を守ることはもちろんですが、「その状況下で何をすべきか?」を瞬時に判断し、バッと動けるようにするということです。
3年前から始めた畑仕事も、「何をすべきか?」の解答のひとつなんです。「VELBED.農園」と言って、僕の所属事務所の運営ということもありますが、個人的な思い入れも強いんですね。
人が畑仕事と向き合うことは、とても大切だって思っているんです。環境問題ももちろん直結しています。畑を理解していくと、次には森を理解することが必要となります。そうして森を理解していけば、「間伐(かんばつ)」とは何か? それはなぜ必要なのか?という風に、自然の摂理を徐々に学んでいけるんです。
だから、多くの方が農業の現場に立ち会ってほしいと思っています。現場に行かなければ実感できないからです。モデルの仕事がない日は、可能な限り畑に通うようにしています。2020年の4月5月の時期事は毎日、畑仕事をしていました。会社の仕事もありましたが、それに関しては、リモートでマネージャーとやりとりしながら進めていました。そのとき、いわゆる合宿のように畑仕事に従事できたことが、僕にとってすごく大きな経験で、震災のときに動けなかったことへの反省を少しですがそこで昇華できたかなって思っています。
10年経っても
まだまだ足りない…
罪悪感はまだあります。
石巻市湊町の佐藤さんと連絡を取っていても、相変わらず「3.11」のときのことがふいにフラッシュバックするそうです。2021年は、あれから10年ということもあり、当時の映像がいつもより多く流れることでしょう。
それは大切なことだと思います。風化させてはならないことです。ですが、当事者の皆さんにとっては「見たくない映像」でもあるんです。佐藤さんも話していましたが、3.11近辺になると自然と胸騒ぎと言いますか、心がザワツクそうです。それはかなり辛く、みんな動揺する時期らしいです。なので、そのときに僕たちは離れていても連絡取って、いつも心はすぐそばにいることを伝えるようにしています。
そんな現実を知れば、10年経っても「復興した」なんて絶対言えません。確かに物理的な復旧は進んでいます。当時の子どもだった皆さんが就職したり、新たな家が建ち並んだり、息子さん娘さんが巣立っていたり…など。ですが、皆さんの心の復興はまだまだ道半ばです。この現実を多くの方に知ってもらいたいですね。
この皆さんの心の内の復興が具体的に見えるまでは、僕は行き続けなければいけないと思っています。2021年3月11年で10年の月日が経ちましたが、この10年は目に見える復旧を願って活動し続けてきたと言っていいでしょう。さらなるこの先の10年は、心の内の復興を願って、ふれあい続けていければと願っています。
新型コロナウイルス感染症の拡大し、2020年3月、東京に第一回目の緊急事態宣言が出されたとき、佐藤さんからすぐに連絡をいただきました。僕らが現地に行って活動している際、「東京でなんかあったときには、今度は私たちのほうが行くからね」って言ってくれていたんです。なので、佐藤さんから早々に連絡をいただいたときには、「本当に僕らのことを想ってくれている」ことが言葉だけでなく実感できたことで、とても感動しました
「困っているときはお互い様」という言葉に、距離は関係ありません。それを実際にかなえるためにも、まず自分からすぐに行動することの大切さと共に、自分の行動に間違えがなかったことも再確認できました。
そして、このパンデミックが収束した暁には、再び石巻へ行き、未だ道半ばの活動を再開しなくては…と、モチベーションは大いにアップしました。
目下の具体的な課題は、
金華山黄金山神社の復旧です!
[this is a pen]における10年の活動は、大きく分けて2つありました。まずは佐藤家の復旧復興。そしてもうひとつが、金華山です。これまで話をさせていただいた佐藤家の話は、震災から2年半ぐらい経ったときには大小2つの工場も再稼働できるようになったので、目に見える復旧に関しては先が見えてきました。そんな中、佐藤さんから「金華山のほうが全然進んでないらしいよ」と聞き、まずは行ってみることになったんです。
「金華山」というのは石巻市の太平洋上に浮かぶ島で、人口は5人ほど。その全員が金華山黄金山神社の神職の方々で、他に一般の居住者はいないという島。地場の信仰の対象としても有名で、青森県の恐山、山形県の出羽三山と並ぶ「奥州三霊場」に数えられているんです。なので、少し不思議な雰囲気もある島なのですが、全然復興が進んでいなかったんですね。「震源地が一番近い、人の住んでいた場所」としてニュースでも、それで名前だけでも知っている方もいるのではないでしょうか。
初めてこの島に渡ったとき、聞きしに勝るほど震災直後のまま…ボロボロの状態でした。「これはまずい」と思い、活動の拠点を金華山にも広げることにしました。そしてその島でも、佐藤さんのような人物に出会います。
そこに神社には神主さんを含めた関係者が5人ほどいて、皆さん3週間その島にいたら次の1週間は本土に帰るといった生活をおくっているのですが、その中の一人、三上さんという、「早く復興させたい!」という強く願っている方がいたんです。
三上さんはもともと、石巻市内で金物屋をやっていた方。それまでは、「町の生活に疲れたら、自然の鹿や猿が棲息する島の写真を撮ることで癒しを得ていた」と語ってくれました。そうして震災となり、「これまでの自分に、力を授けてくださった金華山へのお礼として」と、金物屋も震災で営業できなくなったということで金華山に住み込んで復旧作業をしていたんです。
そうして、金華山の復旧作業がメインとなったのですが、なにせ神社の復旧ということもあって専門知識も必要な部分が多く皆さんの作業のサポートに入るといったことが主となりました。「ここを直したい」と相談を受けては、自分たちだけでは難しい部分も多い。なので、その課題を東京に持ち帰っては撮影で出会った木工職人の方などに協力していただけないか相談して、翌週一緒に復旧作業を向かいました。ほんと多くの方にこの活動の理解をいただき、実際に石巻まで足を運んでくれる方も少なくありませんでした。チームの皆、そして協力していただいた方々皆さんにも、感謝してもしきれないほどです。こうして支援の輪、さらには感謝の輪が広がっていくこともチームのより力強い励みにもなっていくことになりました。
そうやって職人の方の手を借りながら、棚をつくったり、足場をつくって鳥居をペンキで赤く塗ったり、お土産売り場を修復したり…と、さまざまな部分の修復が完了していく中、いよいよいくメインとなる場所にたどり着きます。
それが神社の表参道であり、手水舎(ちょうずや、てみずしゃ)です。表参道はアスファルトで舗装された全長200mほどの道だったのですが、震災の際に崩れ、さらにその直後の台風によって、アスファルトの破片もすべて流れてしまっていたのです。
そこでもともとあったアスファルトの舗装を復元しようとすると、お金がかかりすぎるということで、お金をかけずに修復する方法をチームで考えたときに、「金華山に自生している金華芝を移植して、芝参道にしては?」というアイデアが出ました。そこで神社側に提案したところ、「それはいいアイデアだ。そうしよう!」ということになったんです。そうして毎回行っては、自生している金華芝をおよそ40 x 40cmの切り芝(ソッド)として薄く剥がして、それを壊れた参道に一枚一枚割り箸で貼っていく作業を続けていました。その仕事は長丁場で、2年間ほどやっていました。
その後、まだいくつかの大きな復旧すべき所も残っていたので分散しての作業となります。ですが、チームとしては「この芝参道が完成したら、復旧作業のひとつの節目となる」と皆でこの活動のインジケーターとして掲げて、その復旧の進行具合を確認しながらみんな復旧のモチベーションを上げていました。
そして最大の復旧のおける難所が、手水舎でした。屋根の部分がなんと、山から崖の下へと200mほど落下してしまっていたんです。それを皆で手分けして運び上げること成功しました。その後、職人さんに溶接もしてもらったりして、ある程度まで修復を完了させたのですが、「その先の作業はやはり宮大工さんでないと…」という状態まで2019年9月くらいまでに達成していました。ですが、「その修繕をお願いできるだけのお金もない」ということで、「僕たちでやるしかないな」と決定し、その計画を具体的に立てようとしている頃に、世界が新型コロナウイルス感染症の拡大によってパンデミックとなり…現在に至るというわけです。
着手して3年近くなっても終わることはありませんでした。そういうことで、まだ終わっていないんです。
話を【前編】の冒頭の内容に戻せば、Shogoとジョナサン・リヴィングストン(『かもめのジョナサン』の主人公)の視点は同じ方向のように思えます。ですが、大きな相違点もあります。それは、よき理解者がいたか、いないか…ではないでしょうか 。「カモメはただ餌を食べ、可能な限り長生きするために生まれてきた」と長老たちが言うカモメの社会に、ジョナサンだけは「生きることの意味やより高い目的を発見するカモメこそ責任感があるのだ」と群れのカモメたちに、その考えを伝えようとします。ですが、みんなに理解されず、群れ社会から追放されてしまうと、進む方向が違うからとして、自らも孤立を選んでいくのです。
ですが、Shogoは違います。それは利他主義にも近く、なによりも他者の幸せこそが自らの幸せのごとく、多くの理解者を得ようとしている。そうした理解の輪を広げようとする心意気もたまりません。
2021年3月11日(木)、東日本大震災から10年が過ぎました。
そして多くの方がこの日を迎え、これまで当たり前だったことが当たり前でなくなってしまった現実を、改めて噛みしめたかもしれません。そして同時に、そのことを10年前に比べものにならないくらい痛烈に心に刻んだ被災者の皆さんの心も、ほんの少しながら理解できたかもしれません。でも、それはほんの少しに部分だけです…。
shogoは最後にこう語ります。
「8年以上通うことで、被災者の皆さんの状況に関して、こうして少しは話せることも増えたのかなぁと思っています。ですが、僕自身は被災者ではありません。現に毎年3月11日になると、罪悪感のようなものを感じます。それは、生き残った罪悪感とも言えるかもしれません。だから、精一杯生きなければ…って思うんです。そうやって被災地の皆さんが、生きることの理由を僕に教えてくれたんだと思っています。なので、むしろ、こちら側からのお礼として力になりたいのです。そして、そのことを可能な限り多くの方に伝え、そして我が子を含めて、どんどん若い世代へも継いでいきたいと思っています。なので、この活動はまだま続きます…」とのことです。
それでは再び、石巻市湊町で佐藤さんと対面するShogoの笑顔で、この記事は最後にいたします。Shogo自らつづったキャプションをぜひお読みください。
そうしてShogoを代表とする[this is a pen]の活動は、さらに続きます。このインタビューでShogoは、前編冒頭で紹介した小説に登場する師匠チャンのようでした。「今度は他人を愛することを学べ」と改めて再確認させてくれたのです。
これを機会に皆さんも月日などにもこだわらず、ぜひ応援を継続してください。
Transcription / Shane Saito
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