“ガレキ”——。
震災当時、被災地の方々は
この言葉を嫌いました

 「他人にとってはゴミかもしれない。だけど、私たちにとっては大切な“財産”なのだから」と。あのとき、誰よりもその財産に向き合った方々がいました。町の新たな一歩と、明るい未来を切り拓くために…。

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震災直後の釜石市。

 お話をうかがったのは岩手県釜石市に本社を構える建設業者、「株式会社 青紀土木」の二代目社長・青木健一さん(取材当時48歳)。あの日、たくさんの人々の財産を目の前で片づけなければならなかった建設業者の方々。おそらくそこには、想像をはるかに超えた想いが渦巻いていたに違いありません。

 そこで、そんな被災地の復興に携わったある建設業者の方から、主人公であり脇役でもある立ち位置からの視点、そしてその想いを共有していただくことで、われわれがまだ知らない“ありのまま”に気づけるかもしれない…という願いとともに、今回、青木さんにインタビューさせていただきました。


“震災前に感じていた
建設業者のあり方

 2009年7月に政権交代を果たした民主党。同党が政権交代後の初年度に掲げたマニフェストは、当時代表を務めていた鳩山由紀夫氏によるメッセージ「暮らしのための政治を。」から始まります。その3段目には、「政治とは、政策や予算の優先順位を決めることです。私は、コンクリートではなく、人間を大事にする政治にしたい。官僚任せではなく、国民の皆さんの目線で考えていきたい。」と記されていました。

 これがいわゆる、当時の民主党のスローガンとされる「コンクリートから人へ」になります。そしてこのスローガンのもと、これまでの自民党政権が抜本的に予算を組み替えることで子育て・教育、年金・医療、地域主権、雇用・経済への予算充実を目指し、政権交代後に大幅な公共事業の削減、事業仕分けの実施やこども手当の創設を決定しました。これらの実施によって当時、公共事業が激減していったのは確かです…。 

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Hiroki Ohtani
1980年(昭和55年)創業の青紀土木。創業者 青木正紀さんの丁寧で堅実な仕事ぶりから、地域の人々の信頼を得て成長し、JR東日本・三陸鉄道など公共事業の枠に留まることなく拡大してきました。そんな青紀土木 二代目として先頭に立つ青木健一さん。

 その後に起きた、「東日本大震災」…。2011年3月11日、岩手県釜石市に本社を構える建設業者「株式会社 青紀土木」の二代目社長・青木健一さん(48)は、「東日本大震災」によって経営していた会社の社屋から機材すべてを流されてしまいました。そこには数千万円かけて、その日の2週間ほど前に納品されたばかりの重機2台も…。そればかりか、その日非番だったかけがえのない従業員2名を失ったのです。

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力強くわれわれを見つめながら、真っすぐな言葉で正直な想いを語ってくれた青木さん。

 震災前、建設業としての役割、二代目として会社を継ぐことについて、青木さんはどのように感じていたのでしょうか。率直な想いをうかがいました。

震災前の
建設業への想いは?

「震災直前の数年前、『コンクリートから人へ』という耳障りのいい言葉で、私たちの仕事や役割に思いを馳せることが苦手な方々の支持もあってか、公共事業は激減してしまいました。それに対しての反感はありましたが、父が興(おこ)した会社を継ぎ、二代目としてこの事業をやることに対して反感を感じたことはありませんでした。それが“定め”だと思っていましたし。と同時に、『私より経営者として相応しいと思う社員がいれば、その人に会社を継いで欲しい。そう思えないのであれば私と共に頑張って欲しい』と、会議などで常々全社員に伝えていました」

 岩手県釜石市は、1896年(明治29年)、1933年(昭和8年)、1960年(昭和35年)、1968年(昭和43年)と、過去に何度も津波被害を受けてきた地域です。そのため、釜石湾の入り口には全国初の耐震設計を採用し、最大水深63mの世界最大級の防波堤を整備。日本のどの地域よりも万全な津波対策を行っていました。

 しかし、その後に起きた「東日本大震災」による巨大津波は、その防波堤をも倒壊させ、津波は市の中心部にまで到達します。結果的に釜石は、岩手県で二番目に多い1000人を超える死者および行方不明者を出す悲劇に襲われました。これが“戦後最大の自然災害”と呼ばれた「東日本大震災」の恐ろしさだったのです。

震災後、
その想いは変わりましたか?

東日本大震災によって
気づかされた自分たちの使命

「本当に突然何もなくなって…虚しさとか無力さが、全身に突き刺さるかのように感じました。通信も途絶えて電気も止まって、“自然の前で人は無力だ”ということを嫌なくらい思い知らされた瞬間でしたね。でも同時に真っ暗闇の中、僕らが地域の便利さとか安全のためにつくった“インフラ”というものが、どれだけ重要なものだったのか、痛烈に再確認できたのも事実です。『それをつくり出してきた僕らの建設業という生業は、尊いものであり責任のある仕事なんだな』と思いました。だからこそ、皆さんが早く元どおりの生活に近づくために、『今、誰よりも死に物狂いでやんなきゃいけないのは、自分たちだ』って思ったんです

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現場で作業中、従業員たちに声をかける青木さん。着用しているマスクとネクタイは、障害のあるアーティストと契約してその作品を取り扱う「HERALBONY(ヘラルボニー)」という、岩手からスタートしたブランドのもの。

 震災当日、北上営業所長をしていた青木さんは盛岡の打合せ先で、震災発生後すぐにバックアップ電源によって映し出されたテレビで、宮古市の津波の映像を観たそうです。

「“これはダメだ”、と思いましたね。『会社は海の近くだから流されているだろう』って思ったし…。そんときにね、社員たちばかりでなく、『社員のみんなにとって何より大切な、両親や家族の生活も考えなきゃいけないな』って思いました。『会社流されても、生活支えなくちゃ!』って…。助かった命、絶対食いつながなきゃいけないって思ってね」

 青木さんは津波の映像を観て、責任者として真っ先に「その後の社員たちの生活」が脳裏に浮かんだそうです。

【当時の実際の映像】<釜石市役所付近に押し寄せる津波 (視聴者提供映像)>※本動画には、津波の映像が含まれています。視聴は無理せずご自身の判断で行ってください。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
釜石市役所付近に押し寄せる津波 【視聴者提供映像】
釜石市役所付近に押し寄せる津波 【視聴者提供映像】 thumnail
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“津波を知らない内陸の人々”

「私は震災当日は盛岡にいたので、現場の話は後日社員から聞いたんですが…。3月って建設業にとって一番忙しい時期だから、遠野市の人たちの力も借りて作業していたんですよ。そんな中迎えた震災当日、遠野の人って内陸だから、地震が起きても津波が来るなんて全く思っていなくて、『もう少しで区切りがつくから、このまま仕事さしてくれ』って言っていたそうです。そこで『おい、ちょっと待て、冗談じゃないよ』って、うちの社員には兼業の漁師もいるので、そこで注意して急いで高台に避難させたら…。あっという間にみるみるうちに津波が流れ込んできて。それで何人か腰抜かしたって聞きました」

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釜石市の高台から、津波が流れてくる様子を眺める人々と社員たち。

 「当時ね、内陸出身の人たちは、『津波来るよ』って言ってもすぐ逃げないでただ見ている人が結構いたんです。高台から逃げ遅れた人たちが目に入るんだけど、もうお祈りするしかなかった…。街中は車の渋滞で海のほうまで見えないから、こんなんなるわけですね。砂煙もあって余計見えなくてね…」と青木さん。

 そして次の日、町へ見に行くと、そこには更地と瓦礫(ガレキ)の山が広がっていました。

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震災翌日。釜石市平田交差点に広がる瓦礫の山。

 「俺たちが、道路つながなきゃいけない…」と、そのときの心境を青木さんは語ります。

 混乱状態が広がる中、「グチャグチャになってしまった道路を整備し、道を切り拓けるのは自分たちしかいない」と、“建設業”という自分の職業が持つ使命と責任をこの上ないほど強く意識したのも、この瞬間だったそうです。

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震災直後の町の様子。町中に砂煙が立ち込める中、自衛隊による捜索にも必死に協力しました。

「いろいろな仕事があって、それぞれの仕事も当然尊いものだと思うんだけど、このことは僕らにしかできないことだと思ったんです、建設業者にしかね。皆さんが払った税金でさ、安全とか安心とか便利に生活するために、今まで道路を掘って下水をつくっていろんなことやってきたわけだから。なら今は、瓦礫をよけたりするとか、僕らが貢献できることを必死にやって、なんとかしなければならないって思いました」

 青木さんは静かに、魂を込めてそう話しました。

 当時、津波によって自宅を失った青紀土木の社員は、約半数以上いたそうです。そんな中、避難所からすぐに駆けつけてきてくれた社員が何人もいました…。

 「自分の家が流されているのに、避難所から出て来て働くってさ…。自分たちの仕事に対しての誇りとか使命感…とかっていう、そんな簡単な言葉じゃ表せない、人としての何かがあったんだと思うんです。まだ余震も続いていたし、自宅もなくなっている…そもそも明日の生活すらどうしていいのかわからない状況で、現場に出てくるって本当に大変な想いだったと思いますよ。あのときは、『本当にありがたかった』って思っています」と、青木さんは語りました。

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社長室の壁には、戦国武将・武田信玄の言葉が飾られていました。「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」の一節。※抜粋箇所は、「人材こそが強固な守りになる」という意味になります。

 道が整備される前、線路の上を行き交っていた人々の姿が、今も青木さんの胸に強く焼きついて離れないと言います。

「日本人て凄いと思うんだけど、普段歩くこともない標識もない中で自然と右側通行になって、みんなまっすぐ歩いて、すれ違うたびに「がんばりましょ、がんばりましょ」って声かけてて…。それが今でも凄く心に残ってんですよね。途中で怪我した人がトタン板で運ばれてんの見て、“ああ、早く俺らが道路つながなきゃないな”っちゅう思いが凄く湧きました」

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震災後、毎月の月命日に黙祷を捧げる青紀土木の従業員の方々。11日の14時46分は、作業中でも必ず作業の手を止め、このように黙祷を捧げる姿が被災地各地で見られました。

 このときの光景と、そのとき身体中にあふれた想いが、震災直後から現在までの長きにわたり、強く青木さん自身を突き動かす原動力そのものとなったそうです。

ガレキったって、
皆さんにとっての財産なわけだから…

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震災翌日から始まった撤去作業。まず先に自衛隊による捜索が行われ、それが終わってから、後に続く形で建設業者は瓦礫の撤去作業を進めました。

 震災の翌日から始まった瓦礫の撤去作業。そこには、不安げに遠くから様子を見つめる地域住民の方々の姿もありました。

「作業してっとね、住民の皆さんが道路にへたり込んでるんですよ。自分の家も近所の家もみな、めちゃくちゃだから…。みんな死んだような顔して、こっちの様子見ているんですよ。自分たちの家どうなってっかな?って。瓦礫になっちまった皆さん自身の財産を…ね。それに対して僕らは、その崩れ散った財産のひとつひとつを運びやすいように崩したり、避けたりするのが仕事だったから…。関係ない人から見たらゴミなのかもしんないけど、僕らにとってゴミだとかそんなんじゃなくて、地域の方々の大切な財産だったから、本当に心苦しかったんです。でも、これよけなきゃ地域の未来はないんだって、皆さんが早く元通りの生活するために、今僕らが誰よりも頑張んなきゃいけないっていう想いでしたね。それが当時、自分を突き動かす原動力になっていました。この地域をなんとかして、もう一回元気にしたいって気持ちが…」

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瓦礫撤去前の当時の写真を眺める青木さん。

 復旧作業を進める中、県外から手伝いに来てくれた方々と地域復興について衝突することもあったそうです。そんな青木さんを変えたのは、『東北未来創造イニシアティブ』という団体の存在でした。

 『東北未来創造イニシアティブ』というのは、東北ニュービジネス協議会ならびに東北大学大学院が主催者となり、東北の人々による自立的復興を実現することを目的として、さまざまな分野の方が人材育成などを支援する取り組みです。

 「ちょうどその頃に、『東北未来創造イニシアティブ』の人材育成道場の話が来て、半信半疑で入ったんだけど、それが当時の自分を根本から変えるくらい尊い場になったんですよね。それまで地域にどんな人がいるのかもわからなかったけど、そこで全然違う業種の人たちが、同じ地域のためにこれからどう頑張るかってことを本気で考えてくれて想いを共有してくれたです。そういう仲間って今までいなかったから、すごく心の支えになりました」と青木さん。

「それまでは、極端に言えば『自分の会社だけ幸せになればいい』と思ってずっと生きてきたけど、全く考えが変わりました。あの活動が、自分の心の持ちようを大きく変えてくれたんです。人の強さとか優しさとか…いろんなもの教えてもらったんです。いろんな人の力借りて今があるから、一概には言えないですけど、あの場がその後の自分を大きく変えるきっかけになったのは間違いないですね 」

 精神的にも体力的にも疲弊しきっていた当時の青木さんの心持ちは、この出会いによってまた情熱を取り戻し始めたそうです。

連日の報道から

“被災地復興に対する
メディア報道への疑問”

 連日のように、被災地の復旧工事の様子を伝える新聞やメディアでの報道。「そこで疑問を感じることが多々あった」と、青木さんは当時を振り返ります。

 「未曾有の災害で、みんながそのとき最善だと思った判断に対して、あとから結果論で、『あれが良かったあれが悪かった』って言われるけど、あのとき適当にやった人なんて誰もいないはずなんですよ。その地域によって、被災の仕方も違いますし。それぞれの地域の課題が違うから、どこかのモデルを見て、それが正しいからそうしようじゃなくて、自分の実際の地域で起きたらどうなるかっていうことに置き換えたり、似たような地形のところの処理方法とかを学ばないと、全くもって絵に描いた餅になっちゃうんですよね」と、語気を強めました。

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時折、瞳の奥を潤ませながら力強く語る青木さん。

 さまざまな葛藤を抱える中、アドバイスをくれたのは兵庫県の建設業者の方でした。

 「僕一番すごいなあと思ったのは、釜石まで来てくださった兵庫県建設業協会の方のアドバイスでした。『瓦礫って、ただ早く避(よ)ければいいってもんじゃない。早く避ければ、確かに仕事は速く進んだように見える…けど、ごちゃごちゃ混ぜて持ってっても、後で分別しないと産廃処理はできない。避けるのが早いほうがいいのか? 処理までが早いほうがいいのか?を考えないと』て言うんです…」

 その言葉に、青木さんはハッとしたそうです。

「『君のところは企業城下町でいっぱい工場があるでしょ。漁師さんが沢山いて、その人たちみんな震災で仕事なくなりましたよね。そういう人たちの生活を守るためにも、安全な仕事はその人たちに任せればいいんです。そうすれば時間はかかるけど、綺麗に片づけられてコストも抑えられるし、その人たちの生活も守れますよ』ってね。阪神淡路大震災を経験された方のアドバイスは、 『ああ、すごいなあ』と思って…災害対策本部として、釜石支部と釜石市役所が協議してその進め方を採用しまし た。 それから森林組合さんとかラーメン屋の店主さんだとか、工場で働いている人とか、そういう方々を雇って、われわれが重機で瓦礫をよけている脇で、分別のような安全な作業を手伝ってもらったんです。だから撤去するまで時間かかったけど、釜石のトータルコストで処理の金額を言えば、全国の被災地で4番目くらいに安かったんです。こういう評価検証も必要だと思います 」

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建設業者ではない方々は経験がなく危険なため、わかりやすいようにひと目で分かる作業着を着てもらっていたそうです。


“あのとき、みんなで助け合った
絆は、ずっと残っている”

 「 1年目では、“釜石は撤去率が遅い”ってもの凄く新聞で叩かれていたんです。それは5年後10年後まで続いて、誰も評価していなかったんですね。けど地元では…漁師さんとかいまだに、“あのとき仕事ができなかったところ、瓦礫撤去の仕事をさせてくれて助かったよ”って言ってくれるんです。あと、食堂のおやじさん(店主)も、“食堂復活できたから”って今では感謝してくれて、すごくサービスしてくれたりするんですよ。もちろん自分らのほうが、すごく助かったと感謝していますが…」と青木さん。さらに説明してくれます。

 「瓦礫撤去や分別に関して、兵庫県建設業協会の方のアドバイスをいただき、地元の漁師さんや食堂屋さんにお願いしましたが、弊社は自分の会社が所在するこの場所で責任を持って作業したいという思いもあって、防潮堤・水門工事に注力しました。そこでその工事現場は?というと、漁港になるわけです。つまり、漁師さんの仕事場の一部です。網を広げる場所が狭くなったり、迂回路を利用していただいたりで不便をお掛けしました。もちろん、最大限配慮しながら作業はさせていただきました。『ウニやアワビ漁の前日は水仕事をしない』など。海水が濁ると、漁が上手くいかないので。そんな中、皆さんに協力的に見守っていただけたんです。繰り返しますが、おまけに被災後、瓦礫撤去などお手伝いしていただいたので…。そんなこともあって、何を正解にするべきなのかって、すごく考えさせられましたね。震災前は自分の会社と従業員の幸せしか考えられなかったんですけど、それも『なんてちっぽけな考えだったんだろう』って今では思いますよ。あのとき、みんなで助け合った絆っていうのは、ずっとこうして残るわけですから…」と、顔をほころばせながら話す青木さんでした。

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時折、笑顔を見せてくれる青木さん。その緩んだ顔は優しさに満ちていました。

“何が良かった悪かったなんて
「批評」はどうだっていい。大事なのは
上手くいかなかった部分に
向き合って、次どうするか”

 「良かったことは多分、また災害が起きても上手くできるはず。でも、上手くいかなったことを見つけて、そこに向き合わなきゃいけないのに、ただ『あれが悪かったこれが悪かった』って言って、犯人探しをしてもなんにも前に進まない…。だったらこの10年で、これから次またどっかの地域で同じことが起こったときに、1人でも多く助けられるよう、1分1秒でも早く助けられるように、そのための“手立て”を考えていくべきだって思うんですよ」と、声に力が入る青木さんでした。

“青紀土木の「震災遺構」として
残したバックホウ”

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納品の2週間後に被災したバックホウ。数千万円の頑丈な機材は、津波により一瞬で無残な姿となりました。

 震災前日、青紀土木の車両置き場には、納品されたばかりの新品のバックホウ(地表面より低い場所の掘削に適した建設機械の一種。「ドラグショベル」とも言う)がありました。当然、震災によってこのバックホウも被災してしまったのですが、青木さんは「このバックホウは、“震災遺構”として残すことに決めた」と言います。

「俺ね、最初『もう見たくない』って思ってね、あいつを。『早く処分したいな』って、ずっと思っていたんです。でも、会長(父)が『残せ残せ』って言っていて。そう言っているうちに震災遺構として残すか議論されていた釜石の防災センターが取り壊しになって、大槌町も町役場を取り壊すことになって…。全部あったものが周りからどんどんなくなっていくのを見て、『“なかったことになる”って不安だな』って思ったんですよ。じゃあ、うちのものくらいは、うちの会社の責任だから残して、『こういうことがあって当時みんなで戦ったんだよってことを、これからの社員にもずっと伝え続けていきたいと思ったんです

「広島の原爆ドームや記念館は、展示のコンセプト変わってしまいましたよね。おどろおどろしすぎて、見る人が気持ち悪いっていうことで、さらっとした近代的なものになってきました。だけど…戦争っていうものが起これば、否応なく、そういう状態になるわけです。『はだしのゲン』もね、グロテスクだと言われたりするけど、本当に戦争が起これば、こんなに悲惨な状況になるのだと教えてくれる場所なはずなのに…。『それでいいの?』とも思うんです。僕らも震災の話しようとするときね、『刺激することになるから、やめてください』とかって言われるけど、『じゃあ、本当に来たときどうするんだ?』って思うわけなんですよ…」

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青紀土木の守り神、「無事でカエル」くん。

未来への責任

伝え続ける使命”

 「僕ね、『未来責任』っていう使命があると思っていて。また新たに町づくりするってなったとき、地元の仲間に『やっぱり情報発信しなきゃダメだ』って言われて、『どんな想いで自分らが、これから頑張っていくかは伝え続けなきゃいけない』って言われたんですよ。それまではなんにも伝える気などなかったのですが、ただ、会社としてのホームページをやっていましたね。けど、1000年に1度っていうことが起きて、『これ伝え続けなきゃ、同じこと起きたとき、また1から考え直すのか』って思ってね…。とんでもなく大変だった当時から今まで、10年あるわけですよね。それも含め、会社の想いも含め、『それにまつわる、いろんなことを情報発信して伝え続けていかないと、次の世代の未来を今より輝かしいものにはできないのでは』という不安もあって、『これは使命として伝え続けていかなきゃダメだ』って思ったんですよ」と青木さん。

 それを機に青木さんは携帯電話をスマートフォンに変え、Facebookとブログいまを生きているということから、震災後の今を10年間ずっと発信し続けているそうです。

「復興の整備をしていて一番うれしいのは、公園をね、小学生とか、お母さんとちっちゃい子とかが遊んでんの見ると、グッとくるっちゅうかね…。やっぱ建設業っていうのは、地域の安心とか安全とか便利つくるっていう役割ですから、自分たちがつくった公園で遊んでくれたり、施設を安心して利用してくれるのが、やっぱり一番うれしんですよ」

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 一度はすべて崩れ去ってしまった多くの方々の財産。大切なものが無残な姿へと変わり、目の前で撤去されていく瓦礫を被災地の方々は10年前のあのとき、どんな想いで見つめていたのでしょうか。

 そして、懸命な努力によって建て直しが進んでいる現在…。過去に起きたことを忘れないためにも、今日がある感謝を忘れないためにも、私たちは今この10年という節目で考え直さなければならないことがきっとあるはずです。

●取材協力
株式会社 青紀土木
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