「なんで、こんなとこに咲いてんだろね? 生きる気満々なんだねぇ」

大槌町駅のアスファルトを押し上げるように咲いていた、小さな紫のビオラ。すかさず、伊藤さんはしゃがみこんでシャッターを切りました。

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大槌町駅の地面に咲く花にカメラを向ける伊藤さん

11年前の2011年3月11日に起きた東日本大震災によって、甚大な被害を受けた沿岸地域のひとつ岩手県大槌町。“自身の故郷であるこの街を、震災の翌日からずっとカメラに収め続けている人がいる…”、そんな噂を聞き私(筆者)は取材を申し込みました。

それがアマチュア写真家の、伊藤陽子さん(71歳)。そこで初めて彼女に会いました。

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Yoko Ito
津波によって建物の上に乗り上げた船。2012年5月に、伊藤さんが1年間で撮りためた約660点を集め自費出版した写真集『がんばっぺし大槌』より。

津波被害により、お兄様を2人亡くされたという伊藤さん。身近に被災した方がいなかった私は、初めどのように接すべきなのかと緊張していました。しかし実際会って話をしてみると、伊藤さんは最初から最後まで、そういった“悲しみ”や“かげり”といったものを、一切感じさせない人だったのです。それどころか、とてもよく笑う人でした。すべてをあるがまま受け入れているかのような、清々しい笑顔。それが伊藤さんの第一印象でした。

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大槌町を背に、笑顔を見せる伊藤さん。

震災当時、大好きな故郷に戻りたくても戻れなかった地元の方々は、 “自分の家が震災によってどうなってしまったのか一目見たい”と切望していました。そんな中伊藤さんは、震災の翌日から被災した大槌町の様子を撮影し続けてきたのです。

当時、大きく崩れた民家や橋を撮影していた報道陣に対し、伊藤さんが撮り続けたのは、なにも無くなった更地や焼け野原ばかり。しかし、それらは紛れもなく、地元の方々が当時最も見たかった光景でした。以前からそこに何があったのか知っている人でなければ撮れない場所を、伊藤さんは撮影していたからです。

人に見せるつもりで撮っていたわけではないけれど、自分の手元には、地元の方々が“今一番見たい光景”がたっぷり詰まっているー。残酷かもしれないけど、自分だったら見てみたい」。その想いが伊藤さんを強く突き動かしたのだと言います。

「気持ち、わかんだよね」と、
当時の心境を振り返ります。

地元の方からの要望で開始した最初の写真展。そこでさらなる反響を得て、遠くに移り住んでしまった大槌町出身の方にも届けたいと踏み切った写真集出版。2012年に伊藤さんは、写真集『がんばっぺし大槌』を上梓します。その後、全国各地から声がかかり、ついにはドイツ、アメリカにまで出向き、震災のリアルを伝え続けました。この11年間で、国内外含む、のべ100カ所以上で写真展を行ってきたと言います。

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呆然と街を眺める男性の後ろ姿。伊藤さんの写真集『がんばっぺし大槌』より。

「男の人の後ろ姿。しゃがんでいる姿の写真あるでしょ? 長崎県で写真展したことあんだけどね、その時どこかのお母さんが『原爆でも落とされたようだ』って言っていたね…」

“消えた”のではなく、
初めから存在しなかったかのように
扱われた街、大槌町

11年前の震災による大槌町の被害において最大の特徴は、当時の町長だった加藤宏暉氏をはじめ、幹部14人のうち8人が亡くなったことで町全体としての機能を失ったことでした。幹部の大半が亡くなったことで、罹災証明書の発行がままならず、避難所の対策など震災後の対応が後回しになってしまったのです。当時の状況を、伊藤さんはこう語ります。

“この街はね、報道もされないうちに
消えてなくなってしまった街なの”

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当時、焼け野原になってしまった大槌の街を指差しながら語る伊藤さん。

「庁舎がないし、町がないし、町長がいないし、電話ないし、道路もないし、全部ないんだから。町もないのと一緒。ね? で、津波がくる前に逃げた人は、もうそっちに定住しているから、帰って来られない。そういう報道すらされないうちに、焼き尽くされて消えてしまった町なの、大槌は。街が消えてしまったわけよ、強制的に。その後に報道がきても、写すべき何もないの。初めからなかったみたいにね。そういうなんにもないような状態の時に撮っていた写真集が、私の作ったあの写真集なの

“当時は親指の爪ぐらいある
巨大なハエが、
その辺にブンブン飛んでいた”

「空気なんかとてもじゃないけど半端でなかったのね。親指の爪ぐらいある巨大なハエが、そのへんにブンブン飛んでいるわ、魚は腐っているわ…。栄養がよかったんだろうね。本当に半端でないよ。だから空気も半端でなかったの。なんっとも言えない空気。臭い。臭すぎて。人は死んでいるだろうし、魚は干上がっているし。それ以外の生き物も、多分その辺で干上がっていただろうし」

さらに大槌町を苦しめたのは、被害の全容が外部に伝わらなかったことで火災の鎮火が遅れたことでした。一週間ほど、大槌町の街では炎が燃え続けたのです。

「信号機が溶けるくらいの火力だから、骨も何も…。なくなったんじゃない?だから…人間ぐらい残酷なものはないと思うんだけど、人間の残酷な想像力をもってしても、想像し得ないくらいの残酷さがあったんじゃない。そう思うよ」

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伊藤さんが撮影した、火災の火力によって溶けた信号機。写真集『がんばっぺし大槌』より。

「例えば足が挟まれて、頭だけ出ていて空気は吸えているけど、身体は水に浸かっている。そういう状態もあると思うのね。時期的に寒かったし、ストーブで灯油使ったりしているから、海に油が混じっていたわけよ。海上に火が浮かんでいるわけ。そうすると、火が遠くに見えてもこっちに走ってくるでしょ? 生きた心地がしないよね…。そんな感じだったと思うのね」

色のない大槌


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伊藤さんが撮影した、震災発生翌日の大槌町写真集『がんばっぺし大槌』より。

「当時は山の木も焼けて、茶色になって、緑だった木も茶色に焦げているわけ。見るも無残にね。で、街中は焼けて黒いわけよ。残ったコンクリートは灰色でしょ? 黒と、灰色と、茶色。それしかなかったの、世界が。だからタンポポでも咲いたら、もう目立っていたよ」

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取材当日の大槌町に咲くタンポポ。

震災の2日前にたまたま
起きた大きな地震のおかげで
助かったという伊藤さん

伊藤さんの当時の家があった跡地に連れて行ってもらうと、伊藤さんの家は海沿いの線路の真隣でした。

「2日前に宮古に行く用事があったんだけど、その日おっきな地震があったから、2日後に延期になったの。もしその日に用事が終わって家にいたら、確実に私は死んでいた。この辺りに住んでいた人たちは一発だったからね」

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震災前に自宅が建っていた地に立つ伊藤さん。海沿いにあった自宅は、津波で跡形もなく流されてしまいました。

「だから100回逃げて100回こなくても(津波が)、101回目があるかもしれないから、逃げなさい…っていうのは、そういうことなのね。自己責任なのよ。最終的には。冷たい言い方だけど。一生懸命逃げたけど、足すくわれて亡くなった人も沢山いたからね」

“当時は目に見えない力の
集まりで成り立ってきた
数年間だったと思う”

被災地のお話を聞いたときに、“自分には一体何ができるんだろう?”と思う人々に対して、伊藤さんが思うことを聞いてみました。すると伊藤さんは、あるボランティアの方のお話を聞かせてくれました。

「岩手の大槌と漢字は違うんだけどね、九州に住んでいるボランティアの人で、『おおつちさん』て人がいたの。大きいという字に、地面の土。その人がある日、テレビを観ていたら、山田邦子っていう芸能人がテレビに出ていて、岩手県山田町が被災していて、自分の名字も“山田”だから、山田にボランティアに行ったという話を見たんだって。そのとき大土さんは、自分は“おおつち”だから、大槌に行くって、単純にそう決めたみたいなの。それでね、当時は公共交通機関が止まっている場所も多かったから、九州から岩手まで自転車できたの自転車にのって野宿しながら、大槌まで

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ボランティアの方の話を語る伊藤さん。

「『やろう!』と思うところまでは、いいのよ。それはあると思う。だけど、生半可な気持ちじゃなかったと思うのね。だって、自分と同じ名前だから行かなきゃってさ、思うところまではいい。でもそこから先が…本気?って聞きたくなるよね」

「だけどね、当時はそういう奇特な方々で成り立ってきた数年間だったと思うよ目には見えない力の集まりでね。“微力ながら”って表現よく耳にするけども、微力の塊が、当時は半端じゃなかったと思うんだよ。“私みたいなのが行っても…”って言いながらも、ね。それが沢山集まったら凄く大きくなるでしょ」

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夕暮れどきの大槌町の海を眺める伊藤さん。

“「死にたい死にたい」って
言う人がいるけれど…”

「『死にたい死にたい』って、常日頃言う人っているでしょ? おはよう、こんばんはみたいな感じで。『ああ、死にてー死にてー』って。そういう人でもね、もしもあの場に遭遇したら、『助けてー助けてくれー!』って言うと思うよ。必死になってね…

「11メートルって言ったらビル3階。ビル3階の塊が迫ってくるんだからね、あそこから。そして最大津波は22m。25メートルプールみたいなのが壁になって迫ってくるんだよ。想像できる?」

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伊藤さんの故郷、大槌町の海。

山と海。豊かな自然に
囲まれた美しい街、大槌町

次に、われわれを『城山公園』と呼ばれる高台に連れて行ってくれた伊藤さん。そこには、まるでミニチュアのような世界が広がっていました。

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現在の街並みが広がる大槌町

「なんだかおもちゃみたいですね、ここから見ると…」と、ふいに伊藤さんにそう話すと、「『鉄腕アトム』ってわかる? 漫画の…。あの時代に空飛ぶクルマとかさ、高いところをクルマが走っていたりしてさ、下にも通っているのよ。ここから見ると、あの世界を思い出すんだよね

「ここも大槌。あっちも大槌。全部大槌‼」

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楽しそうに、現在の大槌の街を説明してくれる伊藤さん。

大槌の街を説明してくれる伊藤さんの顔は、まるで子どものように無邪気な笑顔ではしゃいでいるように見えました。一度は消えて無くなってしまった街、大槌町。大切な人たちも沢山奪ったこの広い海。それでもやはり伊藤さんは、この街が大好きなのでしょう。思い立ったらすぐ行動。行こうと思えばどこへでもパッと動く伊藤さんが、ずっとこの街に住んでいるのはやはり、大槌町という街が大好きだからなのだろうと、その時思いました。

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大槌町駅のアスファルトに咲いていた、小さな花。

朝、大槌町駅で見かけたあの小さなビオラ。帰り際、それはまだ誰にも踏まれずそこに咲いていました。硬い地面の上に花を咲かせるたくましいその姿が、震災を乗り越えて今をハツラツと生きる伊藤さんの姿と重なりました。

あのとき、地面に咲く花にカメラを向けた伊藤さんは何を思ったのだろう。彼女が今回の取材で私たちに本当に伝えたかったことは何だったのだろう? 帰りの道中で私は、そのことをずっと考えていました。

“私のことを想って…”

そのとき、ふいに思い出したビオラの花言葉。「ああ、そうか」と心の中でつぶやく私。「単純なようだけれど、それが一番大切なのかもしれない…」と。

“震災があった事実を、これからもずっと想い続ける”--大槌町駅をあとに、私はそう自分に誓うのでした。

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隙があれば、われわれ取材班にカメラを向ける伊藤さんでした…。

東日本大震災から11年が経ち、震災の報道が毎年著しく減っていることに各地で懸念の声が上がっています。10年、20年の節目などない…。防災意識を高めるには、ひとり一人があのとき起きた事実を、毎年この時期に想い出し続けるということ。それが今を大切に生き、いざというときに自分の身を守ることにつながるのではないでしょうか。