東日本大震災が起きた2011年3月11日。あの日、多くの方が慣れ親しんだふるさとを突然失いました。そして、“危険だから”という理由で二度と戻ることができなくなってしまった方々も大勢いました。

ですが、生まれ育った故郷が世界中でただひとつの特別な場所であることは、誰にとっても同じこと。

“津波がきたら山田に逃げろ”

岩手県山田町は、沿岸でありながら津波に強いことで有名でした。山田湾の湾口は約600mと狭いのに対し奥行きは約6kmあり、巾着のようなカタチをしています。波は広い湾内で勢いを弱めるため、他の沿岸に比べ津波の心配は少なく、台風の時は船の避難場所となっていたほどでした。実際、1933年に起きた昭和三陸津波では、岩手県沿岸部で2500人の死者・行方不明者が出ましたが、山田村の死者・行方不明者は7人でした。

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Hiroki Ohtani
岩手県山田町の海。特産品である牡蠣の養殖いかだが浮かんでいます。

「山田は今回の津波でもきっと大丈夫だ」

震災当日、第一波目の津波の勢いは弱く、高さ3mの防波堤に跳ね返されました。それを高台で見た住民たちが津波の低さに安心し、ものを取りに自宅に戻ったことで、その後にきた大津波に飲み込まれてしまった方々が大勢いたと言われています。結果的に今回の震災で山田町は、約900人の死者・行方不明者を出しました。

そんな岩手県山田町で生まれ育った武藤勝彦さん(50歳)は震災当時、隣町の宮古市で車用品店最大手のチェーンで店長を勤めていました。しかし翌年にはそこを退社し、故郷である山田町で『株式会社BMC』という新車中古車販売店を立ち上げました。

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岩手県山田町の新車中古車販売店『株式会社BMC』。取材時は、場所を変えて新店をオープンさせたばかりでした。

震災によって多くの方が職を失う中、安定的に収入があったにも関わらず、退職を申し出て自ら起業を決意した武藤さん。そうまでして地元に根を張ったのはなぜだったのでしょうか。震災当時の様子とともに、起業にかけた想いを武藤さんにお訊(き)きしました。

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岩手県山田町で現在、新車中古車販売店『株式会社BMC』を営む武藤勝彦さん(50歳)。

震災当時、武藤さんはクルマを納品するため、宮古市にいたそうです。

「そのとき、ちょうど山田のお客さんのところにクルマの査定に行かなきゃならなかったんだけど、揺れたからそのまま店にいて。みんなを避難させて、お客さんも避難させたんだけど、俺だけは店に残ってたんすよ。もう少ししたら収まるだろと思って。で、外に出て下水の近く通ったらば、マンホールがボオーン! ボオーン!!っていきなりぶっ飛びましてね。消防の人に『早く逃げてください!』って怒鳴られて…」

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あたりはまるで戦場。
鳴り響く爆発音…

当時の光景を、武藤さんはこう語ります。

「もうね、戦争みたいでしたよ。ボーン!ボーン!って、マンホールがぶっ飛ぶ音があちこちで鳴っていて…地雷みたいに。地面もジリジリ燃えカスが残ってて、長靴だって踏めば溶ける。一夜にして原爆が落ちたような街になってね。そんとき昭和生まれの人たちと、『戦争ってこんなだったのかな?』って話して…。みんな戦争知らないじゃないですか?で、『多分そうなんだなあ…』って、そんなん話してるうちにまた、後ろでボーン!ってね」

「そうやってるうちに高台に避難した社員が何人か俺のとこまで降りてきて、『だめだ、だめだ!店長逃げましょう』って言いにきて。高台からはもう津波が見えてたみたいなんだけど、そんときでさえ俺はまだ『これくらい、大丈夫』と思ってたんですよね。あの感覚って本当に恐ろしいですね

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当時を思い出しながら語る武藤さん。震災時、武藤さんのように少ししたら揺れが収まると思い、逃げ遅れた人びとは少なくありませんでした。

震災直後は、山の上にいた武藤さん。一方の奥さんは、津波が街を襲ったとき、自宅にいたそうです。

毛布の中にうずくまり、
気づいたら駅の
裏まで流されていた奥さん

「嫁が家にいたんですけど、後ろから津波に襲われて、急いで靴のまんま2階までかけ上がって、それから息子の部屋に入って毛布をかぶったんだって。怖くて震えてらったらしいんですよ。ふと窓の外に目をやったら、隣の家が窓の端から端へとスライドする光景を目の当りにして…。それで嫁が『うわあー!』ってパニックになって、俺にメールを打ったらしいんだよね。そのうちにバキバキバキっていう物凄い音がして、家が津波に持ってかれて…。そのままジャボンジャボンって波に流されて、気がついたら、最終的に駅を超えて駅裏の長崎地区っていうところのほうまで流されたらしいんですよ。その間、嫁はずっと頭まで毛布かぶって何も外の様子も見てないから、気づいたら駅の裏側についていて、『…え、ここどこ?』ってな感じ。信じられない話だけどね、奇跡的に怪我も何もなかったんですよ」

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そして、奥さんが震災直後に送ったメールは約1週間後に、武藤さんの携帯電話に届いたそうです。

「結果的に生きてたからいいけど、これで(奥さんが)亡くなってたらって考えると、本当に具合悪いですよ。震災直後は電波悪かったから、当時は津波で亡くなった家族からのメールが、1週間後に届いたって人もいたと思いますよ」

震災当日の晩、近隣の方々と武藤さんとご家族は、幼稚園を避難所として夜を過ごしました。娘さん、息子さんも幸い無事だったそうです。

「その夜ね、近所の人たちがありったけの“めっこ飯”(芯のあるご飯のこと)みたいなおにぎりをつくって、子どもたちさ持ってきてくれたんですよ。すんげえありがたかったっすね。でもね、ガスとか何もかも止まってるから、火が半端に通ってないんですよ。美味しいかどうかは別としても、あれは本当に助かりました。口にもの入れるっつうのはね、やっぱりホッとしますよ」

自宅に帰ろうとするも…
方向感覚がなくなり迷子に

震災の翌日、家の様子が気になった武藤さんは自宅に向かおうとしました。ですが、大規模な火災が発生していた山田町では翌日になっても、“ブスブス”と不気味な音を立てながら鎮火しない火の粉がいつまでも残り、気をつけて歩かなければ長靴も溶けてしまうほど市街地の足場は危険な状態だったそう。ですが、どうしても自宅の様子が気になった武藤さんは、歩きだしたそうです。

「そのときね、方向感覚がなくなったの。あったものがなくなってるから。煙もいたるところで上がってるから目印になる建物なんかも見つかんねえし…。3時くらいに出かけたんだけど、歩いてたら、わけがわかんなくなっちゃって。そんとき、『ヤバい』って思いましたね。もともと線路があったとこがこんもりしてたから、そこをたどってったんだけどね…。それでも、自分がどこにいるのかわかんなくなって、すごい怖くなったんです。溺れたときみたいな感じ? “あ、ヤバい!”って。そしたら、『何やってんですかー!』って、自衛隊の人が遠くから叫ぶのが聞こえて…。必死で、『すいません、助けてください!』って叫んで…」

そうして武藤さんは運良く、自衛隊の方がやって来た際に助けを求め、無事避難所まで戻って来ることができたのだそうです。そのときすでに、あたりは真っ暗だったということ。

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慣れ親しんでいたはずの地元で、遭難しかけた時の恐怖を語る武藤さん。

「いやあ、すげーホッとしましたよ。物すごくホッとしましたね。『ダメですよ!』って自衛隊の人に怒られながらね。でもねえ、やっぱりあんとき、自衛隊の人たちってすごかったですよ。俺が『すみません、家を確かめたくて…』って言ったら、『いやあ全くその通りですよね』って言ったんです。ただ怒るだけでなく、フォローもしてくれてね。『本当にすげえなぁ』と思いました

あのときはとにかく、
濃い酒が飲みたかった…

やっと配給されたわずかな食料。しかし、食欲は湧かなかったそうです。

なんかあんときって、腹減ってねんですよ。その代わり、とにかく濃い酒が飲みたかったですね。あんときはね…。焼酎とかタバコとか…そういうのが欲しかった。普段吸わないような人も、あんときは吸ってましたね。停電であたりは真っ暗だし、電気なんかない、ランプすらない江戸時代前に戻ったような状態でね。街灯がないと外ってのは、3月の岩手だと5時くらいでもう真っ暗。起きてたって暗くて何もできないし、焼酎とか濃い酒が家に残ってたから、それをその辺の親父みんな集めて輪っかになって、カーッと飲んで…。酔っ払って早く寝たかったんだろね。なんか変な言い方だけど、そのときだけはちょっと心がホッとしたんだよね。心の芯からはホッとできないんだけど、現実を一瞬でも忘れるっていうか…ね。そして、また早朝明るくなったら瓦礫の撤去作業とか作業始めるっていう…しばらくはそういう毎日でした」

しかし、受け入れがたい過酷な現実が目の前に広がる中、「脳裏に焼きついて忘れられない光景があった」と言います。

「そのときね…星がすんごい、きれいだったんですよ。街から電気が一切消えるなんてこと、あんときが初めてだったから。あまりにもきれいで、ほんと降ってきそうだった。あんなにきれいな星見たことないから、それが妙に今でも頭に残ってんですよね…」

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メディアで語られない
被災地で起きたリアル

「あとね、あんまりメディアで語られないような話も、当時いっぱいありましたよ。泥棒もいました。泥棒は早いっすよ、すごい。どこの国の人だか知らないけど、震災の次の日にもう倒れてる自動販売機とか、全部開けられてましたからね。家の近くのスーパーの横にATMの機械があったけど、それも12日の朝には全部開けられてた。すごいと思うのがね、当時行こうと思ってもいけないような場所なんですよ。『道もないのにどうやって行ったんだ?』って思って。あとは、震災落ち着いて家戻ってみたらテレビがなくなってたとか、家の中がもぬけの殻だったとか…。そういう泥棒、たくさんいました。『すげぇーな!』と思って…『災害が起きれば、突発的にそういうことしにやってくるグループが関東にいる』って話も聞きますしね」

そのとき、武藤さんの横でずっと話を聞いていた武藤さんの親戚にあたる野澤明由美さんが、「もっとひどい話もあります…」と語り始めます。

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当時を語ってくれた、野澤明由美さん。

岩手県でバスガイドを10年間勤めた野澤さんは、震災後に東北6県を回って被災した方々からさまざまな話を聞いたと言います。

「もっとひどい話もあります――溺死して海水のヘドロを飲み込んで膨れ上がった状態で陸に上がったご遺体に対して、ここぞとばかりに指を切って指輪をとったり、金目のものをとれるだけとっていく…。そういう人たちが当時たくさんいたと、被災地の方々から聞きました。あと避難所では、女性が夜ひとりでお手洗いに行けなかった…という話も。誰か家族がついていかないと、襲われてしまう…という、とても危険な状態だったんです、実際は。震災のタイミングで望まない妊娠をしてしまった女性は、当時、実は少なくはなかったんです。東北各地でそういう話は、後を断ちませんでした」

震災直後に、このような問題はメディアであまり語られることがありませんでした。ですが、東日本大震災が起きた2年後の2013年には、当時の避難所での女性や子どもに対する性暴力や家庭内暴力(DV)があったことを「東日本大震災女性支援ネットワーク」という団体が調査報告で明らかにしました。

さらに野澤さんは、こう続けます。

「この話をツアー中にすると、“よく話してくれた”と共感する方と、“そんな話聞きたくなかった”と怒り出す方がいます。でも“震災”って、そういうこともひっくるめて、実際起きたときにどうなるものかって、理解しておく必要があると思うんですよね。南海トラフの被害者は、34万人から40万人て言われていますが(※2021年現在の政府発表によるデータ)、東日本大震災なんて比じゃないですよね。そうなったときに、じゃあ果たして、この人数の方々が正常な気持ちでいられるかっていったら、いられないと思うんです。2万人でもこうだったから。じゃあ人間は震災が起きたらどういう心理状態になって、どういうケアが必要なのかとか、ボランティア活動の方々がどういう援助がベストなのか、とか精神状態が壊れてしまって、人格を失ってしまった方々をどう抑制をすればいいかっていう対応を、考えるべきなんじゃないかと思うんですね」

突然の会社命令。戸惑いながらも…

そうして震災が少し落ち着いた頃、2011年7月。それまで宮古店の店長を務めていた武藤さんに、本社から盛岡勤務の話が…。震災からわずか4カ月後の辞令に対し、「正直、戸惑いを隠しきれなかった」と言います。

「とは言え、やっぱり断りきれないから行くしかねぇかな…と。『山田に居たい』どうのこうのっていうより、震災になっても会社があること自体ありがたかったからね。複雑だったけど、行くしかないと思いましてね」

でもそこで、武藤さんより先に、同じ宮古店の従業員…つまり武藤さんの部下たちが、会社に対して声を上げたそうです。

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複雑な想いを抱えながらも、「震災後も給与を安定的にもらえていたこと」「食料の配給などで助けられたこと」に恩を感じていた武藤さんは、本社の辞令を受け入れたそうです。そうして家族を山田町に残し、クルマで2時間以上離れた盛岡へと単身で移り住むことに決めました。

“被災地戻って何すんだ”
って言われたけど…

「内陸にいる部長さんたちが来たときには、『地元帰りてぇ』っていう話をこぼしたこともあったんですけど、そうすっと皆に“被災地に戻って何すんだ”って言われましてね。いや…何すんだって、『家なくなっても、子どもたちのことを見てかなきゃないし…』と思いつつ、でもそう言われっと、『会社辞めるほどの理由もねえな…』って思ってね」

このように赴任早々は震災後も安定した収入をもらいながら、「わざわざ会社を辞めてまで“地元に帰りたい”と強く主張するほどの理由がない」と感じていた武藤さんでした。ですがそんな中、地元に帰るたび故郷で頑張る仲間たちの姿を観ているうちに、武藤さんの気持ちは揺らぎ始めたそうです。

東日本大震災
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起業する際に新調したという神棚。しかし震災直後は、「神様が一体何をしてくれるんだ」と言って神棚を撤去した方々も沢山いたということです。

地元で根をはる仲間たち…
一緒に缶コーヒーを
飲みながら
語り合った故郷の未来

「でも、そんときにね、ちょこちょこ休みに地元さ帰って来たとき、後輩が知らない間にプレハブで飲食店始めていたり、知り合いの土建屋がそれまで人に使われてやってたのが、いつの間にか自分で店つくったりしていてね。そういう地元の後輩たちに、当時すげえ影響受けたんすよ。一緒にプレハブで缶コーヒー飲みながら、『盛岡はどうええ?』とか、そういう話をしてるうちにね…『ああ、俺もこいつらと一緒に地元盛り上げてえなぁ』って思ってね」

地元に戻りたいという武藤さんの想いは、次第に強くなっていきます。ですがそんな矢先、武藤さんを突然の病が襲ったそうです。

「ちょうど冬時期になって、スタッドレスタイヤ商戦で沿岸各地を5カ所くらいクルマで回ったんですよね。全部終わったとき、かなり疲れてしまって。『今夜は盛岡に帰らないで山田に帰ります、1日休みもらいます』って言って、家に帰ったら熱が出たんだよね。『はー疲れた、疲れたぁ』なんて思っていたら、次の日になってもっと具合悪くなって…脳梗塞だったんですよ。血管は切れてなかったんですけど、詰まってて…。それで救急病院で1カ月入院したんです」

“俺を山田に返してください”

「で、まだ退院してないときに会社から、『いつ出れる?』って電話があって。そのときから、『ちょっともう、アレだなぁ』と思うようになってね。ちょうど1年たった3月に社長と本部が来て、『各店舗の店長のフォロー役になってくれ』って言われたんですよ。そのとき、腹を決めましてね。『もう俺、ここで辞めます』と…。全員びっくりしてましたよ。フォローしねばならねえ人間が、辞めるっつうんだからね。だけどもう、震災のときはありがてかったけど、『もう山田に返してください』って言ったの。『沿岸に返してください』って」

「で、盛岡から嫁さんに電話して、『俺、会社辞めてきたから、山田さ帰っから』って報告してね。嫁はびっくりしていました。やっぱり会社員なら給料の上がり下がりはないから、辞めたあとのことが不安になるに違いないって思ったけどね…。でも何も言わずに、『あ、そう』って受け入れてくれましたね。で、その後すぐ、山田の土地持ってる後輩に電話して『どっか1貫貸してけろ』って言ったら、『どこでもいいっすよ。空けときますから…』って二つ返事で。あと光回線さえ引ければ、あとは俺一人で回すからってね。そっから一気に始まりました」

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幼い頃からクルマが大好きだった武藤さん。お店には、自慢のコレクションがずらりと並んでいました。

砂埃(すなぼこり)が舞う
山田町に再び戻った山田さん。
“空気は良かった”

「そうやって2012年8月の末に山田にようやく戻って来て、『再出発すっぞ』ってときにね、すげえ空気が良かったんすよ。空気悪かったはずなんだけどね…。津波引いたあとの海底の砂埃で。でも、物すごい清々(すがすが)しくて。で、お客さんに挨拶しながら電話して、そっから毎晩11時までひとりでパソコンの前で働いてね。でも、毎晩どんなに仕事遅くなっても全然苦じゃなかったんです。縛られることもないし、自分の裁量でやれるから、すんげー気もちが楽だったし、楽しかったんすよね。だから、空気がいいっちゅうか…そんな感じで年明け過ぎても、朝9時から夜12時くらいまで働いて、6カ月間は1日も休まなかったっすね

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震災当時は、津波でクルマを流されてしまった多くの方々が、中古車を必要としていました。そんなときに開始した山田さんのクルマの転売、および整備事業は多くの人に需要があり、会社はすぐに軌道に乗りはじめました。大好きな山田町に再び戻るために会社員を辞め、被災した故郷で一から起業した武藤さん。「ずっと悩んでいたけれど、思い切ってやってみたらそんなに大変なことじゃなかった」と言って、故郷に帰ってこられたことを心から喜んでいるように、愉快そうに笑いました。

そんな武藤さんは毎年、一番楽しみにしているイベントがあるそうです…。

夏の夜空に上がる
「特大の線香」

「毎年夏にね、山田ででっかい花火大会があるんすよ。それが一番の楽しみでね…。寄付でやるから、私も起業した年から寄付し始めたんですけどね…。あの花火は、みんな震災で亡くなった人たちのこと想いながら観るから、ドカーンとおっきい、特大の線香あげるような気持ちでね。そのときって、毎年グッとくるもんがあるんですよ。ドーン‼と上がったときに…。曲を流しながらやんですけどね、永ちゃんの歌から始まって、うちらの世代の曲をね(笑)。かなり特大ですよ。5000発やりますからね。すごくいいですよ、山田の花火。いつか観に来て欲しいです」

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2011年3月11日に発生した東日本大震災、津波と大規模な火災によって一度は焼け野原となってしまった岩手県山田町。ですが、それでもこの地に再び武藤さんを連れ戻した強い想い…。それは本人さえ無意識の中にあった、どうしても消し去れない山田町への深い愛だったのでしょう。故郷を一瞬にして奪われた悲しみを乗り越え、地元に根を張ることに決めた武藤さん。その姿は今、大好きな場所で生きる喜びと、明日への活力に満ちあふれていました。