クジラ公害を
解決に導いたゼラチン

 家庭用ゼラチン「ゼライス」で知られるゼライス。食用にとどまらず、医薬用、写真用、工業用のゼラチンなど幅広く扱っている同社は創業時から宮城県に拠点を置いている。

「当社と宮城県の関係は、明治期に創業した親会社の時代から続いています。親会社の稲井善八商店は、捕鯨が盛んだった宮城県北東部の牡鹿半島で、鯨肉加工業を営んでいました」

 そう話すのは、ゼライス総務部人事担当の北島一浩氏。“捨てるところがない”といわれるクジラだが、頭部だけは使いみちがなく、廃棄せざるを得なかったという。

「当時は多くの業者がクジラの頭を海に捨てていたので、海が汚れて腐敗したニオイが広がる“クジラ公害”が問題になっていたんです。そこで生化学の権威だった東北帝国大学の井上嘉都治博士にご相談したところ、『クジラの頭部からコラーゲンが抽出できる』(*)という助言をいただき、世界で初めてコラーゲンの工業化に成功。1941年にはゼライスの前身となる宮城化学工業所を仙台市若林区に設立しました」

 2003年には「ゼライス」の発売50周年を記念して、社名をゼライスに改めた。その後も仙台港に程近い宮城県多賀城市に本社を構えるなど、宮城県とゼライスは、深い縁でつながっているのだ。

(*)…現在のゼラチンの原料は豚の骨や皮、牛の骨や皮、魚の皮など。

出荷作業のピーク時に
大地震が発生

 マグニチュード9.0、震度6強の地震がゼライスを襲ったその日は、出荷作業の真っ最中だったという。

「私自身は娘の中学校の卒業式に出席していたので、会社では被災しませんでした。当日業務に当たっていた従業員によると、揺れが収まった後に運送業者さんが引き返してきて『津波が来る』というラジオの報道を教えてくれたそうです。それからすぐに建物の2階や屋上に避難しました」

 ほどなくして、高さ2m30cmの津波が同社の敷地に到達。事務所や工場は全壊、半壊、一部損壊に見舞われたものの、避難が早かったため人的被害は出なかった。「津波情報を教えてくれた運送業者さんには本当に感謝しています」と、北島氏。

「津波によって、当社の敷地には泥やゴミ、近所の石油工場にあったタンクローリー車まで流れ込んできました。従業員は自分の車が津波で流されていくのを目にしました。全員命は助かりましたが、その日は電話もつながらず、小雪がちらつく寒さのなかで電気も水道も使えないまま一晩過ごしたそうです。翌朝自衛隊の救助が来るまで、とても心細かったと聞きました」

 本社、工場、研究所の1階部分は完全に水没。なかでも甚大な被害が出たのは、工場の内部だった。

「工場の中にあった出荷前のゼラチンが海水を吸い、水が引いたあとに床の上で固まってしまったんです。ゼラチンによって床の厚みは10cmほどになり、ラックの隙間や機械にまでゼラチンが付着している光景は、かなり衝撃的でした。復旧作業としてまず取りかかったのは、ゼラチンをかき出すために使うスコップ等道具類の調達でした」

東日本大震災,ぜライス,津波,復旧,過酷
Courtesy of JELLICE
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津波被害後の工場内の様子。「ゼラチンをかき出す作業は本当に大変でした。その後も会社の機能を復旧するために機械や備品をすべて買い直したので、多賀城市に移転したときと同じくらいの費用がかかりましたね……」(北島氏)

 お湯があればゼラチンを溶かすことができるが、飲料水すら不足していたため、キレイな水を確保できる状況ではない。そのため、被災直後は人の手で復旧作業をするしかなかったという。

「全員で力を合わせなければならなかったので、すべての社員を4つの班に分け、交代で出勤し作業しました。部署や役職の隔たりをなくして班を分け、支援でいただいた少ない缶詰を何人かでシェアして食べたこともありました。体力的にかなりキツかったのですが、とても印象に残っています」

 全員で作業に明け暮れて3カ月がたった頃、家庭用「ゼライス」の製造ラインが最初に復旧したという。

「2020年4月、本社の事務機能の大半を2階に移動しました。そのため、今は有事の際でも最低限の事務作業をする場所が確保できています」

震災直後に掲げた
雇用の維持

 同社に襲いかかったのは津波の被害だけではない。とくに2011年は企業活動を継続するのも難しい状況だった、と北島氏は話す。

「工場がストップしている間は商品の出荷もできなかったので収入もなく、非常に苦しい時期もありました。一方で、全国各地から応援していただいたり、取引先さんから不足している物資をいただいたり、各方面からご支援をいただきました」

 北島氏自身も事務作業をする場所がなかった時期は、仙台市内の取引先に会議室を借りて総務の仕事をこなしていたという。

「あの頃は、宮城県全体が一致団結して支え合っている状況でした。厚意で部屋を貸していただけたときは、本当にありがたかったです」

 また、被災直後に会社が「従業員の雇用維持」という方針を打ち出してくれたおかげで従業員の不安がやわらいだ、と北島氏。

「当時は被災した企業を対象にした国の雇用助成金で給与を払っていましたが、正直に言うと従業員全員の給与を満額払うことはできませんでした。人事担当者として『もしかしたら会社を去る人も出てくるかもしれない』という不安を感じていましたが、誰ひとり欠けずに働いてくれたんです。会社の方針を聞いて、“またみんなで一緒に働くんだ”という強い意志を持って復旧作業に取り組めたことが大きいと思います」

 会社が方針を出さずに先の見えない不安を抱えたままでは、難局を乗り越えられなかったかもしれない、と北島氏は振り返る。従業員はもちろん、行政や銀行を含めた取引先に支えられ、2011年12月にはすべての設備が復旧したという。

「もちろん、設備が復旧したからといって売り上げが震災前の水準に戻るわけではありません。ゼラチンの製造が止まっている間に他社製品に切り替えるお客さまもいれば、ゼライス1社に発注していた取引先が他社と分散して震災時のリスクを下げるケースもありました。入荷できなくなるリスクを考えれば、当然の判断ですよね。おそらく、ゼラチンの営業担当は10年たった今も苦労していると思います」

 震災の爪痕はさまざまな形で残る、その事実を身をもって感じているという。

研究開発や地域貢献
進化するゼライス
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コラーゲン・トリペプチドを使った「摩擦音ケアにひざ年齢

 一方で、被災してからもゼライスは立ち止まることなく、コラーゲンを最小単位化した「コラーゲン・トリペプチド」をベースとした商品群を開発して話題を集めている。なかでも、2019年に発売した機能性表示食品「摩擦音ケアにひざ年齢」は、ひざ痛に悩む中高年に人気を博しているという。

「復旧してからは、社内でも研究開発に対する熱量が上がりました。研究部門がコラーゲンの用途を追求して生まれた『コラーゲン・トリペプチド』は、健康食品や化粧品など幅広い分野に活用いただいています。今は、ゼラチンの売り上げ低下をコラーゲン・トリペプチドがカバーしている状況です。結果的に新しい市場につながったので、みんな前向きに捉えていますね」

 震災を経験して、より“人の力”に重きを置くようになった同社では、人材育成でも新たな取り組みを導入する予定だという。

「震災前に比べ、すべての従業員が同じ方向に向かえるように、それぞれが密にコミュニケーションを図るようになったと感じています。今年からは新入社員を他部署の先輩がサポートする“メンター制度”を取り入れる予定なので、さらに社員同士の交流が活発になると思います」

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 震災から10年がたった今もゼラチンやコラーゲンの可能性を追求するゼライス。温故知新の精神で、これからも飛躍を続けていくはずだ。

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