新年早々、またも小学校での
発砲事件が世界を震撼させた

※2023年になったばかりの1月6日(金)午後2時ごろ(日本時間の7日午前4時ごろ)、アメリカ南部バージニア州ニューポートニューズで「発砲があった」と警察に通報が入ります。現場は、「またか」と言った人も多かったであろう小学校内。そこで6歳の男子児童が女性教師アビゲイル・ズワーナーさん(25歳)に発砲。地元の警察は男子児童を拘束し、動機や銃の入手経路などを詳しく調べているとの報告を受けています。

一方、被害者のズワーナーさんに関しては、事件直後「命にかかわる」重体と言われていましたが、1月9日の段階で容体は安定。本人への聞き取りもできたと発表されています。

そんなニュースが、新年早々の世界を震撼させたのです。そして私(エスクァイア日本版の編集長・小川)はこの記事、2022年10月11日にエスクァイアUS版に掲載された俳優マシュー・マコノヒー自身による手記を転載しなくてはと思い立ち、ここに公開することに至りました。

以下、マシュー・マコノヒーがつづった記事になります――彼は2022年5月24日、テキサス州ユバルディのロブ小学校で起きた銃乱射事件を知り、自らの故郷で起こった悲惨な事件に打ちひしがれながらも急遽現場へと向かいます。そしてその後、ワシントンDCで銃規制の強化を訴えたマシュー・マコノヒーが激動の1カ月を振り返り、自らの言葉で語っています。


マシュー・マコノヒーによる
エスクァイアUSに掲載された手記

この話を書くことは、とても大変でした。「大変」と言っても、それは私の個人的な思いなだけ。最終的に代償を払うことになってしまった犠牲者の皆さん、そしてその家族の皆さんにとっては、そんな言葉では表現することがでないほどの苦悩に虐げられているはずです。だから、最初は書くことを躊躇(ちゅうちょ)しました。加えて、最前線から見たことを共有することにはちょっと背信的な行為のような気もしたので…。

私は、単なる不法侵入だったのでしょうか? また、ここで私は個人的な感情だけで話を進めてはいないでしょうか? そうでないことを祈っています。

e
ROBBIE FIMMANO
「この物語を書くのは大変でした」と切り出す、俳優マシュー・マコノヒー。1969年11月4日、テキサス州ユバルディに生まれる。コート、パンツ(2点共参考商品)(ザ・ロウ/ザ・ロウ・ジャパン TEL 03-4400-2656) Tシャツ(ATM Anthony Thomas Melillo/atmcollection.com) アクセサリーは本人私物

5月の蒸し暑い夜の9時、曜日は火曜。私はテキサス州中央部にある街オースティンのスタジオで、丸一日かけた仕事を終えたところでした。そこで、その日初めて自分の携帯電話をチェックすると、電子メールやメッセージそしてボイスメールであふれていました。

“So sorry”“Oh my God, Matthew, it’s so sickening what happened”“Baby, I read the news, call me”などなど…。ここに記載した最後のメッセージは、妻のカミラからのもので、それを読んで私はさっそくニュースフィードをチェックしました。

もう、二度とあってほしくありません、銃乱射事件なんて。しかも今回は、私の故郷テキサス州ユバルディです。しかも事件があったロブ小学校は、私が通っていた学校や母が働いていた幼稚園から1マイル(約1.61km)も離れていないところにあるのです。そこで21人の死亡が確認され、そのうちの2人以外はすべて子どもでした。

次に私はカミラに電話をしました。 彼女はロンドンにいて、朝の3時でしたが、最初の呼び出し音を彼女は出ました。すると彼女は、「私たちは(ユバルディ)に行くべきよ」と言います。それは単なる提案ではないことを察知し、すぐさま 「そうしよう」と言いました。私はその時点では、まだ気は動転していました。ですが続けざまに「じゃ、一緒に行こう」と言ったのです。

これほど大きな悲劇があると誰もが、「何をすべきか」がわからなくなるものです。でも、「いつ」「どこへ」「なぜか」は明らかでした。なので、まずは“片道切符の旅”をすることにしたのです。その時点では、どれくらいの期間を過ごすか? さらに、その後の計画に関しても立てず、ただ行動することにしたのです。 しかしながら、そうすると自体が自分たちの想いの妨害となることもわかっていました…。

妻カミラは、可能な限り早いテキサス行きの便に乗りました。 そして木曜日の早朝に、私たちは子どもたちを友人のもとに車でおくり、南へと向かったのです。

そう、私は家に帰るのです。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

マシュー・マコノヒーは
この街ユバルディで生まれた

e
Robbie Fimmano
これほど大きな悲劇があると誰もが、「何をすべきか」がわからなくなるものです。でも、「いつ」「どこへ」「なぜか」は明らかでした。シャツ13万2000円、パンツ19万8000円(2点共サンローラン バイ アンソニー・ヴァカレロ/サンローラン クライアントサービス TEL 0120-95-2746)

私の人生における最初の10年間は、ユバルディで過ごしました。 私はこの街で生まれたのです。学校まで自転車で通学し、近くのエル・ラッソ劇場で私の人生初の映画を観ました。そして、せっせと貯めた小遣いを最初に使ったのがRexallドラッグストアで、グリルド チーズサンドイッチを購入したのを今でも憶えています。初めてレモネードを飲んだのも、ノース ゲッティ ストリートの角にあったスタンドです。

暑い夏の日には、涼むために前庭のセントオーガスチングラス(芝生)の上に素足で立って、つま先で穴をよく掘ったものです。家の裏の未舗装の路地では、卒倒するほど赤アリに噛まれたことも思い出しました。食事の前に、手をつないで感謝の気持ちを分かち合うことを学んだ場所でもあるのです。


ユバルディの街全体は不気味なほど静かだった

アメリカでの銃乱射事件の多発には、既にうんざりしていました。特に、子どもたちにとって最も安全な場所であり、私たちの家に最も近い場所である学校での銃乱射事件には。ですが、今回はいつもとは全く違う心境です。より個人的な想いが、ふつふつとこみ上げてきたのです。

こうしてユバルディでおくった無邪気な子ども時代の記憶が素直に思い起こせたのは、これが初めてかもしれません。思い出というより、それは夢のようで…少しぼやけながらも突如、過度に神聖なるものになったかのような…。少し、滑稽な感覚さえありました。

そして私たちは、(出発前に)わが子を改めてハグしました。この子らが無邪気に過ごせる時間は、私たちが過ごした時代ほどそう長くはないものだということをそこで確認し、そしてこの子らも大人になって、自分の子どもたちに対してこれと同じような事態が起こらないことを願いながら…。

翌早朝には、ユバルディに到着しました。通りにはゆっくりと走る車やニュースの中継車がぎっしり詰まっており、歩道は人でごった返しています。その他の人は、きっとやるべきことがあるのでしょう。意図的に大股で歩いて過ぎ去ります。野次馬も数人見受けられました。そんな人混みを感じさせる風景でしたが、街全体は不気味なほど静かだったのです。私たちはそれに、大きなショックを受けました。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

その朝早くに、共和党下院議員のトニー・ゴンザレス氏に連絡を取りました。彼は銃撃の直後から、現場にいたからです。すると彼は私たちがどこで、どのように、誰を助けることができるかがよく理解できるよう、直接面会してくれたのです。そして、おおよその経過を説明してくれ、そのあとは街の視察にも同行してくれました。

その視察中、街ゆく誰もが私がここで育ったことを知ってくれていました。私たちはどこへ行っても、このコミュニティの一員として歓迎されたのです。

ヒルクレスト記念葬儀場(Hillcrest Memorial Funeral)を訪れたのち、ユバルディの住人たちが集まっていたフェアプレックス(イベントを行うための施設)で時間を過ごしました。そこでは、メンタルヘルスカウンセラーの方々やファースト・レスポンダー(第一対応者=災害や事故による負傷者に対し、最初に対応する救助隊および救急隊、消防隊、警察など)の皆さんにご挨拶しました。続いて市役所へ行き、円卓会議に参加しました。

e
ROBBIE FIMMANO
ユバルディの街で実際に見聞きした内容――子どもたちの両親たちの皆さんの要求などなど――を有力者の方々に具体的に話をしながら、現実的な対応策の実現を後押しするよう努めました。

皆ハグを求め、それが
数分間に及ぶこともありました

仮設の対応センターとなったラッシング・エステス・ノウルズ遺体安置所に、前日に子どもたちを亡くした家族が集まっていました。苦悩の真っただ中に放り込まれた両親たちはショック状態で、現実を受け止めきれずにいます。その多くはひざまずき、祈りを捧げているのです。父親たちは涙に耐え、どうにか正気を保とうと最善を尽くしています。そして、その横で涙にくれる母親たちの肩をそっと抱いていました。多くの方々が、私たちとの再会を求めていたのです。

妻カミラと私は今回、メディアとは関わらないことを決めていました。そんな中、会いたいと願い人なら誰とでも、プライベートな空間で会うことにしたのです。残された家族たちにカメラは否応なしに向けられ、それを避けるのに必死で悲しみに暮れる余裕もないほどだったのです。

彼らと会うときはできるだけ静粛に、ゆっくりと彼らのいる場所(多くの場合、それは彼らの自宅だった)に入り、その目を見つめ――本人たちが望むようなら――手を広げてハグをするつもりでした。すると皆ハグを求め、それが数分間に及ぶこともありました。

そうしているうちに彼らが本当に望んでいるのは、いろいろなバージョンで繰り返される「ご愁傷さまです」というフレーズではなく、2つの簡単な質問に対し答えることだったのだとすぐに理解できました。

「あなたのお子さんは、どんな子どもでしたか?」「お子さんのすばらしいところを教えてください」など――。そのとき、涙の中にも笑顔が現れ始めるのです。

被害者の父、母、兄弟そして姉妹たちは、ほんの数日前まで生きていた愛する人たちの情熱・夢・愛情を分かち合うことに喜びを見出していたのです。 亡くなってしまった愛する子どもが夢中になっていたことや、やりたがっていたことなどなど…さらに、自分たちがいかにその子を愛していたのか、を教えてくれたのです。

いきなり暗闇の中に閉じ込められた現在、愛する子どもたちが生きてきた輝かしい日々の思い出話をすることで、その家族が少しずつ力を取り戻していることを実感してもいました。それはまるで子どもたちへの深い愛を他者と共有することで、その苦痛と対峙しているかのように見えました。つまり、死を悼むネガティブな思いから、その子を愛する思いを鮮やかに保ち続けるようポジティブな努力をしていたに違いありません。そこには大きな違いがあることは理解できると思います。

e

ユバルディでの銃撃乱射事件は
私の心に何千もの疑問を投げかけた

  • 「これほどまで破壊的な行動に駆り立てた動機は、何だったのか?」
  • 「人間にはそもそも、悪の能力が備わっているのだろうか?」
  • 「この悲劇を、家族やコミュニティはどう乗り切るのか?」
  • 「アメリカでは、なぜこうした出来事が立て続けに起きているのか?」
  • 「こんなことが二度と起きないために、私たちにできることは何なのか?」

最後の疑問は、具体的な行動を起こすため重要なキッカケになるような気がしました。それで私は、自分と銃との関係について考え始めたのです。

ユバルディは、父が私に銃を初めて手に持たせてくれた場所でもあります。それはエアガンメーカーのデイジーBBガンでした。9歳だった私にそれを見せたときに父は、厳格な声色でこう言ったのを今でもよく覚えています。

「息子よ、これは道具なんだ。これによってお前は力を得ることができるだろう。だけど、その逆に命を奪うこともできるんだ。だから、慎重に取り扱わなくてはならない」と父は言い、私の中に銃と向き合うためのルールを刷り込んでくれたのです。銃身の使い方、銃口の向け方、安全装置、安全な保管方法、ターゲットの背後に何があるか意識することも…。

的確に扱うことができるようになるまでは、父は私が一人で銃を持ち歩くようなことは許しませんでした。やがて年を重ねるに従って、私は410番散弾銃を持つようになり、ライフルも手に入れました。新しい銃器を見せるたび父は、“始まりの儀式”を行ったのです。それは実に辛抱強く、息子に銃に付随する責任を説いてくれるのです。この道具が持つ力すべてに畏敬の念を払い、銃の所有者として責任ある行動をとるよう教え込まれたのです。

個人の銃所持に関しては
賛成していますが…

私はアメリカ合衆国憲法修正第2条、つまり、個人の銃所持に関しては賛成しています。狩猟やスポーツ、自衛のための銃は、入手できたほうがいいと思っているのです。ただ購入する際には厳格な身元確認が必要であり、軍人でない限りアサルト・ライフル(戦闘時等に使用される自動または半自動のライフル)は21歳まで購入すべきではありません。

それからリスクから身を守るための規制や、(危険とみなされた人物から銃を没収できる)「レッドフラグ法」はしっかりと憲法に盛り込まれるべきだと思いますし、銃を安全に扱うための講座は必修にしなくてはなりません。テキサス州に住む友人や近所の住民たちも、こういった考え方に同意しているのです。

そしてその多くの人々は、「憲法修正第2条が保証する権利自体は、問題を抱えた悪意ある人間たちによって奪い取られ悪用されてしまっている」と考えているのです。私たちの多くが、「権利には義務が伴う」という事実を忘れているのではないでしょうか。権利は義務を全うしてこそ、初めて得ることができるのです。何もしないなんて、無責任極まりないこと。そんな行為をする者は、アメリカ人ではありません。 だから、「私たちの銃器政策は失敗している」と言うしかないのです。

esquire cover matthew mcconaughey
Robbie Fimmano

パークランドにバッファロー、エルパソ、ピッツバーグ、それからオーロラ…悲惨な銃乱射事件が起きるたび、銃規制の改革がいつも叫ばれます。ですが、国家レベルでは全く変わっていないのが現実です。しかし今回は、「違うだろう」という期待の濃度が少し感じられます。

それは今回、個人的な思い入れのある街で起こったことだからかもしれません…おそらく。でも、それだけではないのです。アメリカ各地の州議会そしてワシントンにおいても、間違った人間の手に銃が渡ってしまうことを防ぐ法律を制定しようとする機運が高まっているように感じられます。そのような法案が可決されれば、28年ぶりに連邦政府が銃規制を改正することになるのです。

私は政治家ではない

私は政治家たちのような言語を話すことはできません。 それでも、一方の銃保有権支持者と他方の銃規制支持者の間で展開する押し合い引き合いは実に悪質であることは理解し、非常にアメリカ的であることも認識しています――そう、非常に政治的というわけです。

そう思っているときに私の心に浮かんだのが、一緒に過ごしたユバルディで苦悩する家族の皆さんの生の証言でした。 そこで一貫する1つのフレーズを思い出したのです。それは、全てと言っていいほどの親たちが、私たちに表明した願いなのです。 毎回のように言うこの言葉には、より深い思いが込められていることを体感してきたのです。

それは…“Make their lives matter.(命を大切にしなければ)”

もし私たちが、ユバルディで見聞きしたことを有力者たちに伝えることができ、それを政治的な流れへと進展させることができたなら、彼らの願いをかなえることになるのではないだろうか、私はそう考えました。そして実行すべきときは、すぐにやってきたのです。

ユバルディのような悲劇が起きると、新聞や雑誌はすぐにその事件で一面に埋め尽くされます。そう、世間の関心は集まっているときなのです。やるなら、今しかないと…。私とカミラの気持ちは重かりました。精神的には疲れ切っていましたが、既に大きく足を踏み入れたこの状況から、抜け出すことなどしたくなかったのです。

この疲れと生々しい経験を偉大なる財産として、政治家たちと話をするときがやって来たのです。


“片道切符”は
ワシントンまで続く

まずは、テキサス州レベルで接触を始めました。ですが、そこで耳にしたのは、「できることはない」や「君が思うほど、私には力がないんだ」という責任転嫁の言葉ばかり。「何かをしたいなら、ワシントンに行く必要がある」と言われたのです。

カミラと私は、予想外の展開に戸惑いました。次に何をすべきなのか? わからなくなったのです。これを実現するためにはプランを練り直さなくてはならない…と、迷いが一瞬浮かんだことも否定できません。ですが、その必要はありませんでした。ユバルディで会話した家族の思いは私たちの心の芯まで浸透していて、私たちの迷いを吹き飛ばすに十分すぎるほどだったのです。冒頭で“片道切符の旅”とつづったのは、そういうことも含めてのことなのです。

e
ROBBIE FIMMANO
テキサス州レベルの有力者たちの答えで、カミラと私は一瞬先が見えなくなったことは否めません。ですが、すぐに見えてきました。それを後押ししたのは、ユバルディで会話を重ねた苦悩する家族たちの生の声です。ジャケット、ベスト、パンツ、シャツ、チーフ(すべて参考商品)(すべてラルフ ローレンパープル レーベル/ラルフ ローレン TEL 0120-3274-20)

すぎさま私とカミラは、首都ワシントンへ向かう準備を始めました。しかしながらそのときのプランは、上院共和党のリーダーであり院内総務を担当するミッチ・マコーネル上院議員を訪ねることだけ。そこで運がよければ、話し合いができるのでは?ということ以外、具体的な計画は何もなかったのです。

ワシントンでのプランは
ミッチ・マコーネル上院議員を訪ねること

ではなぜ、マコーネル上院議員なのか?

それは、「責任ある銃所有に関する規制を強化したいのなら、強固に憲法修正第2条を支持する人物を味方につけるべきだ」という考えからです。「アメリカで最も強い権力を持つ共和党議員から始めるしか手はない」と考えたのです。そうしてマコーネル上院議員のドアをノックし、「できれば会議を開催してほしい」と願うのです。ただし、これ以外に具体的な計画はありませんでした。

ですが幸運なことに、私の広報担当スタッフが私たちをワシントンの政治アドバイザーチームとつなげてくれたのです。彼らと長い間電話で会話を重ねていくうちに、ワシントンではユバルディと同じやり方では通用しないことに気づきました。気持ちだけで体当たりするのではなく、プランが必要だということを…。

それから私たちは議会について、政治家について、そして変化が起きるスピードの遅さについて集中特訓を受けました。続いて、どのような内容なら達成できる可能性があって、どのような内容ならその可能性がないのか? 達成できないものに対して強く要求しすぎれば、何もできなくなる…など。すべては交渉力にかかっていることが学ぶことができたのです。

また、私たちが東へと飛び立つ日、「オースティン・アメリカン・ステイツマン」紙に“It's Time to Act on Gun Responsibility(銃の責任について行動する時が来た)”という論説を書かせてもらいました。 その中で私は、2A(アメリカ合衆国憲法修正第2条)の権利を依然として保護するための合理的な規制を提示し、この問題の新しい意味論的枠組みを提案しました。単なる注意喚起のラベルが付けられただけの銃規制の代わりに、私は「そこにある真の問題のひとつは、銃に対する責任である」と主張しました。それ政府と一般大衆に、改めて知らせる必要があったのです。

ワシントン・ダレス国際空港に到着する頃には、私たちの“マコーネル上院議員訪問”の計画は30までにおよぶ会議へと膨れ上がっていたのです。その他の上院議員ら、および政界のさまざまな分野を代表する人物たちとの会談を重ねることになったのです。

私たちは学生時代の宿題のように、かなりの知識を詰め込んで向かったおかげで、「一般レベルの銃規制マニアよりも詳しい」と自負できるほどのレベルには達していました。ですが、私は自分に言い聞かせたのです。

「マコノヒー、お前は銃規制の専門家としてワシントンまでやって来たわけじゃない。ユバルディの現場で起きたことを伝えるためにここにいるんだ。相対する意見の中から共通項を見つけ出し、そしてそれを丁寧に組み立て、確固たる主張を述べなくてはならない。そして、賢明な変化を生み出さなければ…」と。

ワシントンでの最初の夜、私とカミラはジョージタウンのレストランで食事会を開催しました。そこに招いたのは、下院議員と上院議員の(政党の枠組みを超え、共通の目標に向けて協力しあう)超党派グループ。それは、銃規制法案について積極的に協議している議員たちです。

プライベートルームを借りたので、絶好の場となりました。ワインも食べ物もすばらしく、充実した会話が交わすことができました。もちろん、カメラも入っていません。アドバイザーによると、超党派のメンバーでこのような意見の分かれる議題について話し合うことは稀だということ。

e

その日のディナーは
感謝の集会となった

それは私が子どもの頃にユバルディで学び、以来続けている儀式でもあります。難しいことではありません。参加者全員が、人生の中で自分が感謝していることについて声に出して言い合うのです。その晩、すべてのゲストがこれに賛同してくれました。この“感謝”が一周し、皆が打ち解けてきたように感じた瞬間(とき)、政敵とも言える人々の間にも仲間意識が芽生えたのです。そして、互いにその声に耳を傾けていたのです。

そうして次に、私たちは本題に入りました。3時間にわたって私たちは、銃の権利とともにそれをより適切に規制するためのさまざまな提案について話し合ったのです。 誰もがオープンに意見を述べながら、市民的に議論が進めました。そこで、ある出席者が別の出席者に対してこう言っているのを何度も耳にしました。

「あなたがそう感じる理由がわかりません」と。

そこで私は驚きました。彼らは、これまでこのような話し合いの場をもったことがないのか…と。こうして議員たちは、これまでにない方法でお互いを知るようになったのです。 彼らの理解の扉を、少しだけ広げることができたのだと感じました。

ディナーのあと、私とカミラはホテルに戻って翌日に向けての準備をしました。私は大統領からの招待を受け、ホワイトハウスでユバルディの出来事について記者会見をすることになったのです。予定されていた登壇時間は、午後1時30分でした。

私がスピーチの原稿などを用意している間、カミラのほうはユバルディで会った家族に電話やメールで、私が彼らの代わりにアメリカ国民に対して話をする許可をとっていました。私は犠牲者家族に対して、きちんと敬意を表すことができているのだろうか? それとも彼ら彼女らは、私単に自分たちを利用しているだけの男だと思われていなかいか? 微妙な境界線を歩いているような不安な気分にもなっていたのです。私は、その一線だけは越えたくなかったのです。

ですが…ありがたいことに、家族の皆さんは承諾してくれたのです。

その夜は睡眠時間を削って原稿を書き、さらに書き直しを繰り返しました。原稿など持たず即興で話したかったのですが、私の口から発せられた言葉は世界中に配信され、さまざまな解釈がなされるでしょう。そして、その言葉は再放送や再販されることで、私やユバルディの家族たちよりも長く生き続けることになるのです。なので、注意深く丁寧に語らなければいけません。

また、私は自分にこう言い聞かせたのです。「書いた言葉を心から信じろ。ユバルディの家族の言葉はお前の中に生きている。知っていることを、自分自身のものにすればいいのだ」と…。私は記者会見場に入る直前まで、原稿の手直しを続けました。

アーメン(同意します)
大統領

翌日、カミラと私がホワイトハウスの報道官室で待っていると、バイデン大統領が私たちに会いに来てくれました。 ほんの数分間の会話でしたが、家族、父性、価値観など、多くのことを話すことができました。

もちろん、 銃規制についても話しました。そして大統領が「アメリカで銃乱射事件が現状維持になることを許しておくわけにはいきません」と、奥歯をかみしめながら語った顔を忘れることはできません。アーメン(同意します)、大統領。

登壇直前になると、あきらかにそわそわしている自分がいました。とは言え、もはや原稿に書き足すものなどなく、リハーサルをする必要もありませんでした。私はカミラを抱きしめ、ゆっくりと私のハミングに合わせてふたりで4分間ほど踊りました。

彼女は妻であり親友、そして子どもたちの母であり、さらに2週間前にロンドンから電話で「私は次のフライトで家に帰ります」と言い出した人です。そんな彼女とさらに心を通じ合わせたのです。すると、気持ちが落ち着いてきました。ちょうどそのとき、肩越しからささやき声が聞こえてきました、報道官です。

「マコノヒーさん、いいですか?」

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Matthew McConaughey Complete Remarks at White House Press Briefing
Matthew McConaughey Complete Remarks at White House Press Briefing thumnail
Watch onWatch on YouTube

ユバルディでの体験談で、
出席者の志はひとつになった

記者会見を終えた翌日、カミラと私は多くの議員の皆さんと会いました。その中には、法案審議に関して要となる投票権を持つ有力な数十名の議員もいました。そしてすべての会合において、私たちはこんなシンプルなリクエストから始めたのです。「規制について話し合う前に、私たちがユバルディで聞いてきたことについての話をさせてください」と。

この言葉によって、出席者の志がひとつになりました。それぞれ異なる政治的立ち位置からではなく、共通する価値観から会話を成立させることができたのです。私たちは、子どもたちを育て、守らなければいけないという信念を誰もが持っています。また、愛する者やコミュニティに対して、負うべき義務を共有しているのです。

大統領が歯を食いしばって表明したことに関して、超党派の皆さんも共通認識として心に抱いていることを確認できました。銃による暴力が、アメリカの常識になってはならないのです。これまで傍観し続けていたこと、それは許されないことなのです。憲法修正第2条「国民が武器を保有する権利」の筋金入り擁護者たちでさえ、何かをしなければならないことに同意してくれたのです。

打つべきは“ピリオド”ではなく“コンマ”

提出された法案は、すでに上院で交渉が進められていました。ですが、なにも保証されていません。銃規制改正論者たち(民主党員)は、自分たちを「楽観的である」と言いながら、この姿勢を保ち続けることでよい結果など生まれなかったことも認めています。

銃を持つ権利を主張する人々(すべてとは言いませんが、多くの場合は共和党員)も、有権者の支持を得られなくなることへの恐れを表明しています。結局のところ、選挙の年なのです。所属する党がどこであれ、政治家たちは自分たちの党を守ろうとし、この考えが決定に影響を与えることは明らかであると認識しているのです。

こういった議題については、とりわけそうなのです。銃規制にまつわる法律問題に関しては特に、これまでと同様に――複数の人が相互に影響しあう状況の中で、全員の利得の総和が常にゼロになってしまう――ゼロサムゲームにされてしまう可能性も高いという硬い認識を持っているのです。

サウスカロライナ州選出の民主党議員であるジェイムズ・クライバーン下院議員は、「一方が小さなパンを1切れ提供する場合、反対側はパン全体を要求するだろう」と述べ、同僚たちが考える大多数の考えを説明しています。

すでに両党の政治家たちは銃規制について、それぞれの立場で考える真実や実用的な利点について話し始めているのです。あとは、彼らの議論には“コンマ”が必要だということを認識してもらうことだけではないでしょうか。打つべきは、ピリオドではないのです。そう、私たちにはもっと規制を強化する必要があるわけですが、同時にメンタルヘルスケアにも投資しなければならないのです。

私たちがフォーカスしたのは
態度が曖昧な議員たち

そんな会合の中で私とカミラは、態度を決めかねている人々に注意を払いました。迷っている彼らを、正しい方向に向かわせることこそ大事であると考えたのです。そんな彼らに、「相手の意見に対して、自身が思っているほど実は反対などしていない」ということを理解してもらおうとしたのです。「妥協」と「敗北」は、全く違うものであるということを…。そんな彼らに求められていることは、「イエス」でも「ノー」でもないポジション、“中立”に身を置くことだと思うのです。

このときの私たちの使命は、ギャップを埋める手助けをするという新たな役割を担っていました。 自らがそれに気づく以前に、人々は私たちをブローカー(仲立人)だと言っていました。 そんな私たちは、会議の多くで牽引力を発揮しているじゃないか…と自負できることもありました。ですが、その力を部屋の外へ持ち出さすことができるのか―― これに関しては、私自身も懐疑的だったのです。

ワシントンに到着してから4日後、これまで以上に疲れ果てていましたが、希望もありました——ですが、その裏に疑いもあったことも否定することはできません。


選挙を前に「交渉」は
「主張」へと変化していった

e
ROBBIE FIMMANO
私を含め、ほとんどのアメリカ人は政治的な内容に首を突っ込むことは余りありません。 私たちは合理的かつ責任感もあるのです。つまり、噂以上に多くの価値観を共有してもいるのです。コート(参考商品)(ザ・ロウ/ザ・ロウ・ジャパン TEL 03-4400-2656) スーツ(参考商品)、シャツ7万4800円(エルメス/エルメスジャポン TEL 03-3569-3300) 靴はヴィンテージ

それから1週間も経たない6月12日、コネチカット州の民主党員であるクリス・マーフィー上院議員とテキサス州の共和党員であるジョン・コーニン上院議員が率いる20名の上院議員グループが、銃規制の法制化に向けた枠組みについて合意したと発表します。そして6月21日には、その法案の本文が公開されました。

これには、「レッドフラッグ法*」の制定を促進することや、(特に21歳未満に対する)身元確認の厳格化、そして代理購入に対する断固とした処置などの内容が盛り込まれています。あとはこの法案を、議会で通過させるだけです。しかしそれには、60票集めなければならないのです。50人の民主党議員のすべてが、これに賛成に投じても足りない…つまり共和党議員による10票が必要となるわけです。

レッドフラッグ法:家族や同僚、法務執行機関、メンタルヘルスの専門医などが、自分や他の人々に危害をもたらす兆候のある者の銃器へのアクセスを禁止する保護命令を裁判所に申請できるという法律。

私は電話をかけ始めました。これまで会ってきた議員たちと、再び話をしなければと思ったからです。そこで誰もが、「今回の投票は接戦になるだろうからな」と口にしていました。そして、保証はできない…と。もはや私は、交渉などしていませんでした。私はただただ、自分の意見を主張していただけなのです。そうして電話を受け、電話をかけ続けたのです。

2022年6月23日
上院は法案を承認する

最終的な集計結果は、15 人の共和党員を含む賛成65人、反対33人でした。翌日、下院も可決しました。そして6月25日、大統領はこれに署名をし、この法律は成立しました。それは最高裁判所が、(女性の人工妊娠中絶を認めた1973年の)ロー対ウェイド事件の判決を覆す判断を下した24時間後の出来事となったので、この銃規制の話題は新聞の2面に追いやられてしまいました。ですが、そんなことは関係ありません。28年ぶりに大統領が銃規制を改善しようと…つまり、アメリカを安全な国にしようと行動したのですから。

では、この法案の成立によって、すべての問題は解決の方向へと動き出すのでしょうか? いいえ、そう簡単にはいきません。どんな法律も、ユバルディや同じ悲劇にみまわれたコミュニティの傷までは癒やしてはくれないのです。「われわれは、正しい方向へと導かれているのか?」、この問いに対してはイエスです。この法案通過を受けて、被害者遺族たちは感謝の気持ちを伝えてくれました。これで子どもたちが戻ってくるわけではありませんが、少なくともある程度は政府が彼らの言葉に耳を傾けてくれていることを感じることができたのではないでしょうか。

ユバルディなど
悲劇にみまわれた
コミュニティの傷まで
癒やすことはできない

私たちの取り組みは、なんらかの影響は与えることができたのでしょうか? 「影響を与えてくれた」と言う人々もいます。そして私自身の一部には、それが真実であると願っています。ですが私の別の部分には、私たちはもっと大きな影響を与えることができたのではないか? という不満も感じているのです。

私たちはワシントンに訪れ、画期的な考えを紹介したり、これまでにない論旨を展開したりすることができたわけではありません。ただ、さまざまな意見を持っている人たちにも理解してもらえるよう、妥当なやり方で議論を定義づけただけ。アリシアやマイテ、エリー、イルマ、ホセ、そしてそのほかのユバルティで犠牲になった子どもたちの物語を、責任のある形で共有しようとしただけなのです。

私たちは彼らの命、そしてその死を無駄にしないよう、可能な限り真摯に接してきただけなのです。


ワシントンの4日間で
私たちは多くのことを学んだ

ワシントンに到着したとき、私は政府そしてこれを動かしている人々に対し、尊敬の念を抱いてこの地に臨みました。「その気持ちは次第に薄れていった」とまでは言いませんが、アメリカで最も強い権力を持つ政治家たちは、ただただ政治ゲームの世界にだけとらわれているように感じられたのも事実なのです…。

もどかしさも感じました。政治の世界では手を取り合って問題を解決しようとするよりも、どこで? 誰が?どのように問題を起こしたのか? について議論されることのほうが多いのです。ほとんどの政治家たちは、「問題への解決策など求めていないのではないか?」と感じることもあるほど。それは、解決策があるなら彼ら自身が必要なくなってしまうことがわかっているかのように内容よりも見栄えが重視され、誰の手柄になるかのほうがその “手柄”が誰の役に立つか? あるいは、どの程度役に立つか?よりも優先されることが多いのです。

そう、掲げる信念と実際の行動の板挟みとなり、再選のことばかりに意識を向けている政治家に、変化を生むことなどできやしない…そう思うのです。

もちろん私たちは皆、同じような欠点について自分自身を批判することができますし、そうするべきです。しかしながら選挙で選ばれた議員たちには、より高い倫理基準を求めなくてはなりません。

両党とも相手を攻撃することによって自分自身も疲弊し、打てるのはカウンターパンチのみ。相手の攻撃をかわしたり、自党の防御に集中したり、相手の行動に反応することしかできない状態に陥ってしまっているように見えてならないのです。価値観やビジョンを見失い、結果として自分の力を政治の周縁に立つ過激派へと譲渡してしまうような…それが問題なのです。

というのも、私を含めほとんどのアメリカ人は、過激な意見を持つ人々を支持することはありません。私たちは合理的で責任感が強く、世間で言われている以上に多くの価値観を共有しているのです。そして中間地点に歩み寄ることによって、より大きな利益が生まれることも信じています。なので、そろそろ私たちを分断してきた過激派たちから、メガフォンを取り返さなくてはなりません。

彼らはあまりにも長い間、ペップラリー(政治的壮行会、激励会)によるソフトポルノ(やわらかな扇情)を私たちに販売し続けてきたのです。アメリカの民主主義が帆走するボートの左舷と右舷から、彼らを追い出す時が来ました…または、少なくともそれらをモップブラシでデッキから追いやるべき時が来たのです。


高いところに手を伸ばせば
同じ立ち位置を見つけることができる

銃所有に関する新規制は、さまざまな面で「中間地点で話し合おう」というコンセプトを具現化しています。私たちの代表たちは妥協によって、これを成し遂げたのです。民主主義を癒やす、そして守るためには、選挙で選ばれた議員たちは同じような超党派のアプローチで、アメリカが抱える無数の問題に立ち向かわなければなりません。

それは、「固有の価値観を持つ党などない」ということを認めるアプローチと言えるでしょう。民主党は「共感」についてのトレードマークなど持っていません。共和党に関しても、「自立」に関するパテントなど持ってはいないのです。「価値観」とは自由に取引することのできる財産であり、党派を超えて私たちの中に取り込まれていくもの。両党が呼びかけに応じ、すべての議論をピリオドではなくコンマで止めることによって、アメリカは初めて成長することができるのではないでしょうか。私たちが互いにより高いところに手を伸ばせば、同じ立ち位置を見つけることができるのです。

そして、よりよい政策や法案、規制が、私たちのコミュニティ・州および国が進むべき最適な方向を形成するために必要である一方で、国民一人一人がそれらを達成するために必要な責任を負わない限り、私たちは十分な権利も安全も自由も手に入れることができません。このことは、認める必要があるのです。それは…よい法律が「責任のある選択」を促してくれるのは確かですが、「自分で下す選択には責任を持たなければならない」ということでもあるのです。

より安全なコミュニティや自由、よりよいリーダーがほしければ、よりよい人間を形成しなければなりません。親として、ロールモデル、メンターとして、私たちの子どもを自分の人生に積極的に関われるように導き、私たちが彼らを大切にしているということを示し、彼らに彼ら自身を、そして他者をどのように大切にするのかを知ってもらうこと。そうすることによって、彼らに責任を教えるのです。

私の知る限り、自分の命が大切だということを健全な形で理解していれば、その子は他者の命も大切だということを同じように理解できるはずです。こうした教えは最も強い影響力を擁し、大きな変化をもたらすことができる場所…つまり、家庭から始まるのです。それは傷を癒やす必要性が生まれる前に、問題自体を防ぐことを可能にする場所――家こそ、物語が始まる場所なのです。辻褄が合いませんか?

真の意味で前へ進むためには、かつていた場所へと戻らなければならないときがあります。「自分がどこに向かおうとしているのか」を確認するため、自分が生まれた場所や住んだ場所を再び訪れるのです。自分のルーツや家族を思いながら、鏡を観ましょう。そして、自分に問いかけるのです。「大切にしているものは何?」 、そしてそれに答えるように…。

もっと簡潔に言うなら、「家へ帰ろう」


PRODUCTION CREDITS:
Photos / Robbie Fimmano
Styling / Bill Mullen
Production / Shawn Spillett at FX Group
Grooming / Johnny Hernandez
Tailoring / Mina Alcantara-Madrid
Casting / Randi Peck
Translation / Zion Utah
※この翻訳は抄訳です。

From: Esquire US