子どもの頃、私(今回執筆していただいた、作家クリス・ナシャワティ)のジェームズ・ボンドと言えば、ロジャー・ムーアでした。一方、兄のキースのほうはショーン・コネリーに憧れていました。80年代、たった3歳の差にもたらされたこの認識の違いには驚かされます。私たちにとってこれは、まるでアイデンティティがどちらのボンド派かにかかっているかのように、大事な問題だったのです(どちらも、1度だけボンドを演じたジョージ・レーゼンビーに興味がなかったことはお伝えしておきます)。
現在でも、例えばDCかマーベルかというように、同じような白熱した議論は存在していると思います。しかし、マサチューセッツ郊外の寂(さび)れた映画館で新しいボンドの新作が上映されたり、古い作品がテレビで放映されるたびに繰り広げられるボンド議論はそれはもう凄まじいものでした。殴り合ったり、ツバをつけた指を耳に突っ込んだり、乳首をひねられたり…と。当時、少なくとも私たち兄弟にとっては、それくらい重要なことだったのです。
そして、1983年がやってきました…。
ボンド映画の新作は、もちろん今でも大きな話題になります。ダニエル・クレイグの作品は変わらず大きな興行収入を収めていますし、「007」シリーズの続編が公開されないことでシャッターを下ろさなければならない劇場チェーンもあるくらいです。ちなみに最近では、『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』の公開延期というのが、実際に起きた大きな話題です。
しかし、私のようなボンドファンからすると今日のボンド映画は、息を飲むスーパーヒーロー映画や、観ていて楽しいピクサー映画、そして、『ワイルド・スピード』などと並ぶハリウッド大作映画のエコシステムの流れに乗っかった一作品にすぎません。
80年代初めは、ボンドがすべてでした。だからこそ1983年は、私たちのようにこのスーパースパイにこだわりを持っていた映画ファンにとっては、究極の試練の年となったのです。
この年、4カ月という短い期間に、2つのジェームズ・ボンド映画が公開されたわけです。1つは(6月に)ムーアが、もう1つは(10月に)コネリーがボンドを演じたのです。我が家にとってこの4カ月は、まるでワールドシリーズ(MLB)とスタンレー・カップ・ファイナル(NHL)とスーパーボウル(NFL)が集結して、たった1つの栄冠を手に入れるために因縁の対決をしているかのような様相でした。これを「ボンドの戦い」と呼んでいましたが、そうはどうやら私たちだけではなかったようです。
赤コーナーに控えるのはコネリー。誰もが懐かしむボンドとして、ヘビー級のチャンピオンと呼ぶに相応しいでしょう。しかし1983年には、秘密情報部の初代スパイである彼は52歳であり、最後に『007 ダイヤモンドは永遠に』でステアではなくシェイクのマティーニを飲んでから12年が経っていました。すでにボンドを卒業していたのです。
コネリーは1962年から1971年にかけてボンドを6回演じましたが、業績について考えすぎる多くの俳優同様、同じ役ばかり与えられることをよく思っていませんでした。そして躊躇(ちゅうちょ)した結果、ボンドをもう1度だけ演じるということに。そして、「二度とごめんだ」という有名な一言を残してボンドに別れを告げたのでした。
一方、青コーナーのムーアは現役のボンドとは言え、挑戦者と呼ぶべきでしょう。颯爽として愛想のいいイギリス人のムーアは、1973年の『007 死ぬのは奴らだ』から1981年の『007 ユア・アイズ・オンリー』までの5作品では、スムーズでひょうきんで、皮肉の効いたボンドとして人気がありました。が、1983年には少し年老いてきていました。
ボンド役はムーアにとって素晴らしいもので、この役のおかげで彼は、スイスにシャレー(山小屋)を購入。冬にはスキーを、夏はテニスを楽しむことができるようになっていました。しかし1983年には、降板すると周囲を脅(おど)すようにもなります。
アルバート・“カビー”・ブロッコリーとボンドの製作陣にこのことを伝えると彼らは、「この煮え切らない俳優に振り回されるのはもうごめんだ」と考え、後任のオーディションを大々的に開始し、ジェームズ・ブローリンによるスクリーンテストまで行いました。ムーアを怖がらせるには十分な効果だったようで、『007 ユア・アイズ・オンリー』の次作である『007 オクトパシー』のときには、襟を正して契約したそうです。
その間、イギリスの高等裁判所では別のドラマが繰り広げられていました。
イアン・フレミングが1961年に発表した小説『サンダーボール』(当時のタイトルは『西経78』)のアイデアを出すのを手伝っていた、独立プロデューサーのケビン・マクローリーと脚本家のジャック・ウィッティンガムが、「フレミングが自分たちの貢献を認めなかった」として、著作権侵害で訴えていました。
ちなみにその内容は、「ブロフェルド」というキャラクターの使用に関すること。「ブロフェルド」という登場人物は、世界規模の犯罪組織「スペクター」の首領として原作者イアン・フレミングとマクローリーによって創作されたもの。ですが、ジェームズ・ボンドの映画化権を保有するイーオン・プロダクションズとマクローリーの間で、「スペクター」と「ブロフェルド」の登場が特徴的な作品『007 サンダーボール作戦』の著作権について争いが起きていたのです。つまり、そのクレジットに、マクローリーの名前はなかったということ。これに対しマクローリーは、物語の構想や登場人物の創造は共作、小説は共著、と訴訟を起こしたわけです。
最終的には、マクローリーが勝訴します。1963年には、最終的にすべての『007』映画シリーズを製作することになるイーオン・プロダクションズが、10年間は自分で映画版を製作しないことを条件に、マクローリーを1965年の映画版『007 サンダーボール作戦』のプロデューサーにする契約を結びました。
それから10年後、ボンドはこれまでと同様に人気を博していました。法的な障害がなくなったマクローリーは、『サンダーボール』を元にした映画『Warhead』(日本未公開)の製作に真っ向から乗り出しました。脚本にはベストセラー作家のレン・デイトンを。そしてアドバイザーとして、「007」を知り尽くしているコネリーを迎えました。が、今度はイーオン側からこれに対して提訴されてしまうことになります。
しかし、反逆的なこのプロデューサーは、骨をくわえたロットワイラー(ドイツ原産の牧牛用・警備用として活躍する犬種)のように戦い続けました。何年にもわたって法廷闘争が繰り広げられ、脚本家が何度か変わりました。ですが、80年代の初めにマクローリーがついに勝訴します。
コネリーは当初、マクローリーの非公式ボンドを演じるつもりはなかったのですが、マクローリーがチラつかせる300万ドルの小切手や、さらに契約を魅力的なものにしたロイヤルティには抗(あらが)えなかったようです。
この時点で、ムーアとコネリーは古い友人でした。それは、グシュタード(スイス・ベルン州にあるリゾート。ムーアもコネリーも別荘を有している)のテニスコートでミックスダブルスをするほど仲良しではなかったかもしれませんが、ほぼ同時期に2つのボンド映画が公開されるということを、当の2人は無害なスポーツのように捉えていました。
しかし、当時10代の「007」に夢中になっていた方たちにとっては、この衝突は生死を問う国民投票のようにも感じられていたのです…。
ムーアの『007 オクトパシー』が、先に映画館で公開されることになりました。この映画は、フレミングの1966年の短編集『オクトパシー』から抜粋した短編小説を映画化したものです。ボンド映画のベテラン、ジョン・グレンが監督を務め、悪のプレイボーイ、カマル・カーン役にペペ・ル・ピューのようなルイ・ジュールダン、そして戻ってきたボンドガール、モード・アダムス(『007 黄金銃を持つ男』)が、スパンデックスを着た女性アクロバット戦士たちを率いて国際的な密輸業者を演じました。
この『007 オクトパシー』は、ムーアを純粋に楽しめる映画と言っていいでしょう。ムーアがサーカスのピエロの格好をして、サザビーのオークションで貴重なレディーの卵をすり替えたり、ジュールダンは高額なバックギャモンでいかさまをしたり。もう一度言わせてもらいますが、アダムスはスパンデックスをまとった女性アクロバット戦士の部隊を率いました(笑)。
グレンは2750万ドルの予算のすべてを使って『007 オクトパシー』を製作し、ムーアはベルリン、モスクワ、インドのウダイプールで撮影に臨みます。そして映画内のボンドは、ドイツのアメリカ空軍基地で核兵器を爆発させようとする悪党ソビエト将軍(スティーブン・バーコフ)を追い払おうとしました。確かにムーア時代のボンドには、私たちが期待する多くの驚くべき工夫が多く見られました。ばかげた幼稚な題名のために、見なかったという方もいたかもしれません。ですが、全体としては非常に面白い映画に仕上がっていたと言わせていただきます。
コネリーの映画を観て年を重ねてきた批評家たちは、そんな彼の『007』があと4カ月後に控えていることに期待していたのでしょう、『007 オクトパシー』のほうには緩(ゆる)い評価を与えていました。しかしながら1983年6月6日に公開されるやいなや、観客はこの作品に夢中になりました。最終的には、全世界で1億8750万ドルの興行収入を達成します。
そして次は、ショーン・コネリーの出番です。
コネリーのボンド映画はまだ製作中で、『James Bond of the Secret Service(シークレットサービスのジェームズ・ボンド)』という仮のタイトルがつけられていましたが、コネリーの妻が『ネバーセイ・ネバーアゲイン』と呼ぶことを提案しました。これは、数年前に夫がこの役を引退したと思っていた際の有名な言葉を、内輪のジョークにしていたものです。最終的に、このタイトルが採用されることになりました。
監督は、1980年に『スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲』を終えたばかりのアーヴィン・カーシュナーで、3600万ドルと高めの予算が与えられました。撮影はコート・ダジュールやバハマなど、数々のエキゾチックな場所で行われました。しかし登場したボンドは、ファンが『007 ダイヤモンドは永遠に』で覚えていたコネリーでは全くありませんでした。彼は常にタートルネックを着て顎(あご)を隠し、違和感たっぷりのかつらで練り歩いていました。相変わらず鈍器の扱いにはカリスマ性がありましたが、軽快な冗談とは裏腹に、動きは実に鈍いものでした。
『ネバーセイ・ネバーアゲイン』はそもそも、非公式のボンド映画になるはずだったとは言え、作中には他のボンド映画とは異なる場面が多すぎるほど登場します。
例えば、コネリーがクールな新しいスパイ道具を取りにQ課の課長のもとへ訪れた際、彼を出迎えたのはデスモンド・リュウェリンではなくアレック・マッコーエンであり、名前もブースロイドではなくアルジャーノンでした。Mはバーナード・リーやロバート・ブラウンではなく、エドワード・フォックスが演じています。マネーペニーはロイス・マクスウェルではなく、パメラ・セイラム。もはや違和感は拭いきれません。ツアー会社がつくったボンド映画のような感じと言っていいでしょう。
「再びコネリーの演じるボンドを見ることができる」という目の眩(くら)むようなスリルが一挙に落ち着いてしまえば、そこまでワクワクする映画でもありません。コネリーが「二度とごめんだ」と言ったことが、「本気であればよかったのに…」と嘆いてしまうほどでした。
前作である『007 ゴールドフィンガー』から一転し、再びシリアス路線に戻った1965年公開作品である『007 サンダーボール作戦』でコネリーは、シリーズで初めて水中アクションでわれわれを魅了してくれました。60人ものダイバーを動員して撮影したクライマックスの水中アクションは、今でも忘れられません。そんな水中でのシーンを思い出させることを意図したシーケンスもありました。それはさておき、その他にも成功した点もいくつかはあります。
クラウス・マリア・ブランダウアーは猟奇的な笑みと奇妙なタイミングで、世界各国の政府を脅迫するためにアメリカの核ミサイルを盗む、スペクターの訓練を受けた狂人マキシミリアン・ラルゴを見事に演じています。ボンドのCIA仲間、フェリックス・ライター役のバーニー・ケイシーの演技も光っていました。また、『ナインハーフ』に出演する前のキム・ベイシンガーは、ラルゴのストックホルム症候群の愛人ドミノ役を熱演していました。
しかし、この映画の全注目を奪い去っていったのは(134分という長さなので、奪える場面がたくさんあるのですが)、SM女王の暗殺者ファティマ・ブラッシュ役のバーバラ・カレラではないでしょうか。低い笑い声と野性の目つきをしたプレイボーイモデルは、演技をしているようには見えませんでした。まるでジェームズ・ボンドを殺すことが単なる任務ではなく、彼女自身を興奮させているかのようだったのです。「素晴らしい!」のひと言です。
1983年10月7日に『ネバーセイ・ネバーアゲイン』が公開されたとき、多くの方が『007 オクトパシー』と比較せずにはいられなかったようで、そのほとんどはコネリー寄りの評価でした。しかし興行成績は、全世界で1億6000万ドル。ムーアの作品には及びませんでした。
『007 オクトパシー』がボンドの戦いに(少なくとも興行収入的には)勝利したのは、「先に公開されたからだ」という意見もあるかもしれません。しかし、両作品を数えきれないほど何度も観ている私は、『007 オクトパシー』のほうが圧倒的に優れた映画だと確信しています。当時、兄はもちろん反対はしていました…が、それは本心ではなかったはずです。
37年経った今、私も年をとって柔軟な考え方になったので、兄の視点をはっきりと理解できるようにもなりました。そして、兄の意見を尊重すべきだとも思います。ですが、それでも彼は「確実に間違っている!」と固く思っています。
Source / ESQUIRE US
Translation / Yuka Ogasawara
※この翻訳は抄訳です。