「これこれ! 俺の最初の車だよ! 懐かしいな、これで運転を覚えたんだ!」

私の1973年式フォード「ピント」を目にした途端、ある男が近づいてきました。

ワイオミング州のとあるガソリンスタンドでの話です。ケバケバしく下品な蛍光灯の灯りが、その男の姿を照らしていました。ダメージデニムにロックバンド「クラッシュ」のTシャツ。長髪の頭にはバンダナが巻かれています。

腰に手を当てたその男は、私のワゴンの周囲をひとしきり歩いて回った後で、腕組みをして立ち止まりました。それからゆっくり静かな口調になって、かつての自分の愛車について思い出話を始めたのです。

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KRIS CLEWELL

「木に追突させちゃったんだよ。グルグルとスピンした挙句に後ろ向きでね。レッカー車を呼んだら、『よく爆発しなかったな』とレスキューに来てくれた人に驚かれたよ。運が良かったんだろうね」

ガソリンポンプを戻した私は、その長髪の男に向き直りました。「ほんとだね。命拾いしてよかったじゃない」。「全くだよ…」と男は笑いながら、埃まみれの赤いトラックに戻っていきました。

もしかしたら、そもそも長髪の男なんていなかったのかもしれません。このやりとりは私が見た幻だったのかもしれません。70年代に「ピント」をぶつけた過去を持つ人なんて大勢いるはずです。長髪の男は、そんな人々の集合意識だった可能性もあります。時代は70年代。長髪の人もいれば短髪の人だっていたでしょう。

そんな彼らがあの車を目にすると、皆同じことを言うのです ―「あのピント ステーションワゴンってやつは、なかなか酷い乗り物だったけね。けど、素晴らしい思い出ばかりを残してくれたんだよね」と…。

そう、まるで私がまだ幼い娘を乗せて、アメリカ横断の長旅をした遠い思い出のように。

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KRIS CLEWELL

助手席の娘は、ポータブルゲームのマリオカートの画面に釘づけです。「まだ着かないの?」と繰り返す子どもじみた態度に、私もつい苛立ちを隠せなくなっていました。子どもにとっては先々に訪れるべき楽しみなど、靄(もや)の向こうの幻でしかないのです。

折しも外は、深い霧がロッキー山脈の雄姿をかき消そうといった空模様でした。ですが、あのウォール・ドラッグ(※)の53番目と54番目の看板のちょうど間、短い坂道を登り切った辺りに枝分かれする道があるはずです。

※編集注:ウォール・ドラッグ(Wall Drug)=観光名所ともなっている世界最大のドラッグストア。ミュージアムなども備えたランドマーク。1931年創業。サウスダコタ州のウォールという街にあり、国道沿いには看板が延々と点在しています。

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KRIS CLEWELL

「パパ、なんで停まるの?」

「見てごらん」

「なにを?」

「いいから見るんだ」

娘が窓の外に目を凝らします。

「ワオ!」

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KRIS CLEWELL

彼女の「ワオ!」はまさに、本当の驚きに満ちた「ワオ」でした。驚きで空間と時間が満たされた後、重みのある静寂が訪れます。木一本も建物の一つも無い、地平だけが広がる巨大な世界を前に彼女は息を飲み、目を見張っていました。

ダコタの広大な地平線がまるで無限であるかのように、見渡す限りに続いていました。彼女にとっても、そして私自身にとっても、これは初めて経験する何かでした。

彼女にとって、それは初めて意識する地球の大きさだったのかもしれません。おそらく、物事の大きさや存在というものについて考えたことなど、これまでなかったことでしょう。

私にとってそれは、「人がどれほど驚くことができるのか?」ということを改めて思い知らされるほどの経験でした。それは間もなく、8歳になろうとする娘の脳が大きな驚きに撃たれ、激しい刺激を受けているのが見て取れるようでした。

「どう? 大きいでしょ?」

「うん」

「こんなに何もないなんて、どうしてだかわかる?」

「わかんない。きっと、訪ねて来る家族も誰もいないね」

反論の余地などありません。

「パパはね、今、自分がどこで何を見ているのか? そのことをまず考えて欲しいんだ。これからどこに行こうとしているかじゃなくてねわかった?」

「うん、わかった」

それからの道中、彼女がビデオゲームに触れることは、もうありませんでした。

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KRIS CLEWELL

あのラシュモア山に刻まれたジョージ・ワシントンが、私が「ピント」のクルーズ・オートマチックトランスミッションを2速にシフトダウンする様子を、海抜約1800メートルの高みから静かに見下ろしています。

エンジンは悲鳴を上げていました。重量を少しでも軽くするためにフロアマットを窓から投げ捨てるべきかと考えました。もしかしたら、「スニーカーのソールのクッションのせいで、アクセルペダルを踏む感覚を掴めていないのではないか?」と疑いました。「何をどうすればいいのか見当もつかないまま、とにかく何かをしなければ気が済まない」というあの感覚です。

ここは気持ちを落ち着けて、指差し確認するほかありません。冷静になれば、これがカーペットの重量でも、靴底の問題でもないということはわかりました。

しかし登っていくにつれて、事態はさらに悪化していきます。

「ピント」にそもそもタコメーターがないというのは、幸いなことだったのかもしれません。顔を真っ赤にして力むこちらの様子を映し出す鏡がないのと同じことです。高度のある上り坂での走行は、まるでスローモーションで映し出される飛行機事故の映像を思い起こさせるものでした。

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標高2700メートルを過ぎた辺り、ワイオミング州のリトル・マウンテンの底を走る谷間を眼下に見ながら、携帯電話の着信音に驚かされました。車を停め、山頂付近の分岐点に駐車しました。再び走り出そうとするも、「ピント」のエンジンに反応はありません。気温30度ともなれば、「ピント」にとっては灼熱の世界です。

もちろん、この車に温度計など装備されていません。エンジンの誤作動を告げるランプが点灯しています。しかし、(笑えない話すぎて、逆に笑えてきますが)それ自体が何かの誤作動かもしれないのです…。

できる限りの酸素をシリンダーに送り込むべく、エアフィルターが全力を尽くそうとしていることがわかります。機嫌を直してくれたのか、「ピント」はまたゆっくりとどうにか動き出してくれました。ギアは1速、メーターは時速10~15キロの間を行き来しています。まるでジョギングでもしているかのような加速です。車内の空気は行き場を無くし、エンジンの熱が充満して顔には汗がにじんできます。

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KRIS CLEWELL

「クソ! このバカ車め!」

思わず叫び声を上げてしまいました。

驚いた娘が目を見開いて、助手席のドアに寄り掛かります。苛立った私がハンドルを前後に揺すっていると、車が言うことを聞き始めました。時速50キロほどでエンジンが安定しています。少しずつスピードを上げてみました。

その後、時速55キロまでなんとか上げることができました。私は歯を食いしばりながら、この先のユタ州まで空気の薄い標高で走り続けていくことを覚悟しました。

「こんなことになるなら、改造を施した72年式ポルシェ『911』で来るべきだった…」

自分の判断を呪いもしました。同時代の車ですが、「ピント」とは比べ物にならない高性能です。

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「パパ?」

冷静さを欠いた私は、娘の呼び掛けに返事をする余裕もありません。

「パパ、なんでさっきから車に怒ってるの?」

いったいどう答えたものか、さっぱりわかりませんでした。そして、初めて自覚したのです。私はこの車にもそもそもできないことを「やれ!」と、無理を強いていたのでした。

この車は少し前の私自身でした。

そのような現実を理解するためにサウスダコタ州を横切り、ワイオミング州を走り抜けてきたのです。ストレスにまみれたスローモーションの低空飛行が、突如のんびりとした、ストレスとは無縁の、チャレンジに満ちた登山へと変わりました。空には鳥たちが舞い、他の車が私たちを追い抜いていきますが、もう何も気に病む必要はありません。

GPSのナビゲーションと到着予定時刻の表示機能。私はこの2つがロードトリップを台無しにするものなのだということを知りました。「時間の無駄」を意識させられることで、当然のように苛立たしい気分にさせられてしまうのです。

時間を惜しむ気持ちがひとたび芽生えてしまえば、あらゆる不便な物事や休憩のための一時停止でさえもが時間との戦いになってしまいます。フロントガラスから見える風景を楽しむ余裕などなくなり、まさに娘に対して行った忠告が、そのまま私自身に突き返されてくるのです。

時間に囚われ、それを少しでも失わないようにと必死になっていた自分自身の姿に気づき、愕然としました。予定通りにいかない車に乗っているのですから、時間に追い立てられるなど愚の骨頂だと思い至ったのです。この「ピント」にとって、時速55キロで山道を登り続けることなど、そもそも無理な相談だったのです。

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こんなときのため、ありがたいことに「ピント」にはAMラジオが搭載されています。カセットデッキもCDプレーヤーも、FMラジオもありませんが、それは大した問題ではありません。

ダイヤルをひねるだけで、実にさまざまなラジオ局の電波をキャッチできました。イエス・キリストについて語り続ける放送局からちょっと回すと、今度は地元の安売り情報が飛び込んできます。箱入りの最新式の木工用ノコギリの通信販売をしている番組があるかと思えば、カントリーミュージックばかりを流しているラジオ局もあります。

娘もラジオが気に入ったようで、退屈していないかと訊ねる私に、親指を立てて応じます。そのようにして何キロもの道を駆け抜けました。ときには急ぎ、ときにはのんびり。山を登り、谷を下り、小さな町をいくつも通り過ぎました。

「ピント」は、ユタ州北部の小さな町の目抜き通りを走っていました。西部の小さな町々を単体で見ても、特に何か強い印象が記憶に刻まれるなどということはありません。ですが、そのような性格を含め、私の目には魅力的なものとして映ります。

そんな町のひとつひとつを重ね合わせてみれば、まさにアメリカ西部を定義するに足るほどの、明確な精神性がそこに宿っていることがわかるのです。自給自足の魂が人々に根づいており、また、それを支える環境に対する静かな誇りに満ちています。

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ガソリンスタンドや地元の食堂に立ち寄ろうとする際には、もしかしたらよそ者扱いされるのではないかという緊張感、「トイレを貸して欲しい」などと言えばホウキで追い払われるのではないかという恐れが、孤立した町々の境界線を越えて入ろうとするたびに襲ってきます。

現実には、そのようなことは一切ありません。それどころか、音を立ててドアを開ければ歓待の笑顔で迎えられます。外部から持ち込まれる貨幣が、町の明かりを絶やさぬために役立っていることを実感します。よそ者のような気分に陥ることがあるとすれば、その原因はつまりこちら側にあるのです。

道中、いつの間にか車が煙を吐き出すようになっていました。最初はかすかな煙に過ぎませんでした。バックミラーの汚れか、もしくは後部ガラスの照り返しかと思い込んだほどです。しばらく走った後、ガソリンスタンドに寄ったついでに、すっかり汚れたリアガラスを指でこすってみました。なかなかの汚れでした。ペーパータオルを取り出しガラスを拭き、その色を確認すると、なんと真っ黒でした。

とは言え、不具合は何もこれが初めてというわけでもありません。サウスダコタ州のバッドランズ国立公園を通り過ぎた際にはスパークプラグのワイヤーが溶け、一時的に3気筒のトラクター状態での走行を余儀なくされました。道を照らす薄明かりの中、漏電した電気がまるで幽霊のようにワイヤーから抜け出ていく様を想像したものです。

 
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小さな町で自動車部品を売る店を見つけ、「ピント」を停めました。カウンターにいた若い女性は、私の後ろでもじもじと恥ずかしそうにしている娘に、すぐに気づいたようでした。トランスミッション液のチェックのほか、何が問題なのか見て欲しいと頼みました。

ATF(編集注:オートマチック・トランスミッション・フルード=AT内部の歯車の潤滑やトルクコンバーターや油圧バルブの操作を行う役割を持つオイル)を注ぎ足そうとしてトランスミッションディップスティックチューブで指先を火傷してしまった若い男性スタッフには、20ドルのチップを支払いました。

その後は「ピント」が煙を吐くたびに、もしくは150マイル(約241キロ)進むたびに1クオート(約1.13リットル)ずつ、ATFを注ぎ足しました。何か異常が起きているのは間違いありません。「目的地であるラスベガスに着いたら、そこで車を徹底的に検査してもらおう」と考えていましたが、まだまだ遥か先です。それまでは、トランクに積んだATFだけが頼りです。

歴史的な名所が道中、次から次へと現れました。どれもかつてその場所で起きた、極めて重要な歴史的事件の証です。そんな名所に行き当たるたびに立ち止まるのは不可能で、結局、立ち止まろうとすることさえやめてしまいました。

標識によれば私たちは今、フレーミング渓谷のシーニック・バイウェイを走行中のようです。どこか右の方角には大きな川が流れているはずですが、残念ながらここからは何も見えません。

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私はブレーキを踏み、ハンドルを右に切って砂利道に車を入れました。砂埃が車の後方に立ち上りました。車にはたっぷりの水を積んでいます。道を取り巻く鋭い岩々が私たちを待ち構えているかのようです。進むに従い、1速へのシフトダウンが必要となるほどの急勾配のスイッチバックがどこまでも続きます。

ここはもう、携帯電話の電波も届かぬほどの荒野です。私は方位磁石を頼りに砂漠を西へと進み、景観を誇るグリーンリバーを目指しました。25マイルほど行った先に1時間ぶりに木立ちが現れ、その傍らに傾いた標識が立っていました。

深いわだちの間に、草が生い茂っています。大地に根を張る草原に挟まれた道を、さらに西へと走ります。木々の間を抜けていくと、岩だらけの河岸の先に澄み切った川面は光っていました。鼓動が聞こえてくるほどの、風音もない圧倒的な静寂です。

「味わい深い」とさえ言えるほどの紛れもない孤独が、私たちを包み込んでいるようでした。冷たい川の水で娘と泳ぎ、石を投げて水切りを楽しみました。時間という対価を支払い、また故障のリスクを冒したことになります。

もし「ピント」が立ち往生してしまうようなことがあれば、かなりの愚行だったと認めなければならなかったかもしれません。ですが、方位磁石と水とのおかげでこの遠出はまったく別の物語となりました。

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ユタ州を背に、私たちはラスベガスへ向けて走り出しました。「ピント」はすでに満身創痍(まんしんそうい)で、当初は往復を予定していた旅程も今ではすっかり目的地までの片道の旅へと変わっていました。

長い砂利道を走ったせいで、新品だったリアのサスペンションも吹っ飛んでしまったに違いありません。陽が傾き、「ピント」の影をセンターラインの向こう側へと伸ばします。

山火事の影響で、空がオレンジ色に染まっています。もう午後も暮れようとしている時間でしたが、気温は高く、運転席も助手席も、窓は開け放ったままです。娘は窓の外に腕を伸ばし、手を飛行機のように操っています。西日を受けた長い赤毛が風に揺れ、まるで炎が舞っているかのようです。

私は、その光景から目を離すことができませんでした。

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私の方に顔を向けた娘が、泣いているのかと訊ねます。泣いてはいませんでしたが、私が涙をこらえているのが彼女にはわかっていたのです。部屋を散らかして怒られたり、兄娘喧嘩をして叱られたりしたときに、彼女自身も何度も涙をこらえてきたのです。私は返事に窮(きゅう)してしまいました。

私はわけもなく子どもを褒めたり、肯定するためだけに甘やかすような親ではありません。何事にも理由が必要なのです。それは…意味もなく褒められることで成長や忍耐の機会を逸し、また成功や失敗にどう対処すればいいのか学べなくなり、物事に対する理解を育み損ねてしまうからです。

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瞬きをすると、目にあふれる水分で視界が滲みました。瞼(まぶた)の隙間に涙が幕を張り、娘の髪の毛を照らす太陽の光がまるで爆発したかのように飛び散っていました。もう隠しても無駄でした…。

「これこそ、パパの人生で最高の瞬間だよ。おまえはなんと美しいんだ」

その理由を、語って聞かせる気にはなれませんでした。いつか彼女にも、自分でそれを理解する日が訪れるでしょう。彼女はまるで重力などないかのように微笑み、「パパ大好き」と言って、また窓の外を向き、まるで飛び立とうとしているかのようでした。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です