岸田首相の訪韓が
早期実現した背景

岸田文雄首相は5月7日、アフリカ歴訪からG7首脳会議の合間を縫って韓国を訪韓し、尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と1時間45分ほど会談した後夕食を共にした。この会談では、去る3月の尹錫悦大統領の訪日以降の日韓関係の進展を踏まえ、さらに協力を強化することで、日韓関係の「改善の動きが軌道に乗った」との認識で一致した。

尹錫悦大統領の訪日時にシャトル外交の再開で合意してから52日後に岸田首相の訪韓が実現した。岸田首相の訪韓は日本側から持ち掛けたものだが、その背景について、米国のバイデン大統領が岸田首相に対し、5月19~21日に開かれるG7広島サミット前の訪韓を要請したとの報道もある。

尹錫悦大統領の訪日以来、日韓の政府間では財務相会談や安保対話の再開、経済安全保障協議の開催などさまざまな分野で重層的な協議が始まっている。また、半導体素材の輸出管理の分野でも進展があった。今後、そうした協議や協力を実効性のあるものにし、日韓関係改善の動きを定着させていくためには、両首脳によるバックアップが重要である。その意味で、岸田首相の訪韓が早期に実現したこと自体に意味があったといえる。

日韓関係は、両首脳の強力なイニシアティブで順調に回復している。

こうした中、次の節目となる最も重要な行事が来年4月にある韓国の総選挙であろう。もしも最大野党「共に民主党(民主党)」が勝利することになれば、尹錫悦大統領の指導力は相当失われ、日韓関係の改善が足踏みすることになりかねない。その意味で岸田首相の訪韓で日韓関係改善を定着させ、その成果を早期にもたらすことで、尹錫悦大統領を支援していくことは重要である。

japanese prime minister fumio kishida visits south korea ahead of g 7 summit
Pool//Getty Images
5月7日、韓国を訪問した岸田文雄首相(左)とそれを歓迎する尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領 (右)。

来年の総選挙に向けて高まる
野党の勝利を望む声

4月の初めに韓国ギャラップが実施した世論調査によれば、来年の総選挙では「政府けん制のため野党候補が多数当選すべき」が50%と、「政府支援のために与党候補が勝つべき」の36%を上回っていた。1カ月前の世論調査では、前者の政府けん制論が44%、後者の政府支援論が42%であり、それと比べると政府支援論者が少なくなった。

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特に20代、30代で政府けん制論が大幅に上回っていたことに注意すべきである。20代30代の支持率は、昨年3月の大統領選挙で与野党候補がほぼ拮抗(きっこう)していた。この世代は浮動票が多く、その人々が野党系に回ることは、韓国国内の雰囲気を代弁しているといえ、尹政権にとっては大きな痛手である。

現在の韓国の国会は最大野党の民主党が169議席、野党「正義党」6議席、与党「国民の力」が115議席と、野党系が圧倒的に優勢であり、尹政権として国会が関与する政策、特に労組、教育、年金改革などは思うに任せない状況である。さらに総選挙で敗北することになれば、尹政権の求心力は低下し、改革は停滞する。

尹錫悦大統領は日韓関係の改善に力を入れており、同政権の期間中にこれまでの岸田政権との合意をほごにするとは思えないが、韓国の次期大統領が文在寅(ムン・ジェイン)大統領のような人物となれば状況は違ってくる。日韓関係改善を次期政権につなぐためにも尹錫悦大統領の政権基盤を強固なものにし、文政権の再現を防ぐことが重要である。

また、日韓関係改善を妨害してきた市民団体や労組の改革を前進させるためにも、尹政権の基盤強化は必須である。

前述の4月の世論調査で、野党候補が多数当選すべきとの声が高まったのは、尹錫悦大統領による元朝鮮半島出身労働者(元徴用工)問題の解決案発表と尹錫悦大統領の訪日以降のことである。これらにより、尹錫悦大統領が「日本への屈従外交」などの批判を押し切って、日韓関係改善を進めたのは、尹錫悦大統領の独善との見方が広まった。

そのため今回の岸田首相の訪韓で韓国に対する配慮を示し、韓国にとってもよいことであると思わせるのは尹錫悦大統領にとって強力な援護射撃となるだろうし、それは日韓関係の安定化、北朝鮮の核開発に対抗するための日韓、日米韓の連携という日本自身の国益のためにも重要である。

韓国国民の最大の関心事は
首相の歴史認識と原発汚染水問題

今回の日韓首脳会談における韓国国内の主要関心事は、岸田首相が3月の首脳会談で表明した歴史認識が韓国では不十分と受け止めており、それに加え「お詫びと反省」に言及するかであった。

a tv screen at a yongsan railway station shows a news
SOPA Images//Getty Images
2023年3月16日(木)、岸田総理は総理大臣官邸で大韓民国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と首脳会談等を行いました。写真は龍山駅 (ソウル特別市)にあるテレビ画面に映るニュース速報。

共同記者会見で岸田首相は、歴史認識について1998年の日韓共同宣言を含め、「歴代内閣の立場を引き継ぐと明確にした。この立場は今後もゆるがない」と述べた。

さらに元徴用工の訴訟問題をめぐり、韓国側が示した解決策の履行が進んでいることについて、「多くの方々が過去のつらい記憶を忘れずとも、未来のために心を開いてくれたことに胸を打たれた」「当時、厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい思いをされたことに心が痛む思いだ」と述べた。

これは3月に表明した歴史認識の根幹は維持し、歴代政権の立場は「今後もゆるがない」と述べているものの、「心が痛む」との言葉が新たに加わっている。

安倍晋三首相(当時)の戦後70周年談話の「おわびと反省」が自身の言葉でないと韓国のメディアで批判されたとき、朴槿恵(パク・クネ)大統領(当時)は、「日本の歴代政権の認識は今後も変わらないと述べたことをむしろ評価する」と述べたところ、メディアの論調が大きく肯定的に変わったことがある。

また、12年前のシャトル外交では、慰安婦問題をめぐり韓国政府が日本と真剣な交渉をしないのは違憲との最高裁判決を受け、李明博(イ・ミョンバク)大統領(当時)が野田佳彦首相(当時)に対し「慰安婦に対し温かい言葉をかけてほしい」と要請したことがあった。

こうしたやり取りに鑑み、歴史問題に対するおわびと反省に直接踏み込まないとの原則を順守しつつ、尹政権に歩み寄る姿勢を示したのが「今後もゆるがない」と「心が痛む」という2つの発言だろう。

朝日新聞は、こうした踏み込んだ発言の背景には「尹大統領と共に未来志向の日韓関係を作りたいという狙いがある」と評価した。

また、中央日報は「岸田首相が尹大統領とG7サミットの際、韓国人原爆犠牲者慰霊碑に一緒に参拝することにしたのも、事実上、元徴用工として原爆で犠牲になった人に対する謝罪の意味だとの解釈が出ている」と伝えている。

hiroshima hosts g7 summit
Pool//Getty Images
2023年5月21日(日)、広島で開催されたG7サミット首脳会議で平和公園記念館近くの「朝鮮人原爆犠牲者慰霊碑」に献花する韓国のユン・ソクヨル氏(左2番目)とキム・ゴンヒ夫人(左)、日本の岸田文雄首相(右)と岸田裕子夫人(右)。

岸田首相の発言に対し、国民の力の劉相凡(ユ・サンボム)報道官は「『歴史問題が完全に整理されなければ未来志向に向け一歩も踏み出すことができないという認識から抜け出さなければならない』という尹大統領の発言のように、『国民の力』と尹錫悦政権は過去と現在を冷徹に直視し同時に未来と国益に向けた道を国民と共に歩んでいきたい」と明らかにした。

また、福島第一原発の処理水の放出が、韓国国内で非常に機微な問題となっていることに鑑み、会談において日本は韓国の専門家視察団の派遣を受け入れることで合意した。

岸田首相は、「国際原子力機関(IAEA)のレビューを受けながら透明性を維持していく」とし、「日本の首相として自国民と韓国国民の健康や海洋環境に悪影響を及ぼす形での放出を認めない」と説明した。

尹錫悦大統領は「科学に基づいた客観的な検証が行われるべきだとする韓国国民の要求を踏まえ、意味ある措置が取られることを期待する」と要請した。

尹政権の対日外交への
批判に終始する民主党

一方、民主党は、岸田首相との首脳会談について、尹錫悦大統領を「希代の屈辱外交」と批判した。民主党の姜仙祐(カン・ソンウ)報道官は会見で「なぜ両国外交復元の前提が韓国の歴史の放棄でなければならないのか。普遍的人権問題である韓国の歴史を徹底的に無視し屈辱外交を継続するという大統領の立場が会談結果に忠実に反映された」と批判した。

岸田首相が元徴用工の問題に関し「心が痛む」と発言したことに対しても、「個人の考えとして意味を縮小するのにきゅうきゅうとした」と述べた。

福島第一原発の処理水放出に関しては「『安全性が確保されなければ放出に反対する』という明確な原則を貫徹できなかった。現地視察団派遣の合意はむしろ汚染水放出用の名分になることが懸念される」と批判した。

また、革新系メディアのハンギョレ新聞は、「強制動員について謝罪せず、『3.16会談』の繰り返し」と、前回の首脳会談から進展がないとして批判した。

北朝鮮核抑止への協力や
経済安保において前進

両首脳は会談後の記者会見で、北朝鮮のミサイル情報をリアルタイムで共有するための協議を歓迎し、日米韓で議論を進めることにした。また、尹錫悦大統領は米韓の核協議体に「日本の参加を排除しない」と述べたと言われ、北朝鮮の核抑止強化に向けたワシントン宣言への日本の参加可能性を示唆した。両首脳は広島で開かれるG7サミットで日米韓首脳会議を開き、議論をさらに深めることとした。

岸田首相は共同記者会見で、「核協議体の創設を含め、米韓の間で拡大抑止の強化に関する議論、日米韓での拡大抑止協議や、外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)を含めたハイレベルの協議を通じ、拡大抑止強化に向けた取り組みが相まって地域の平和と安定に資する。引き続き日米、日韓、日米韓で緊密に協議したい」と述べた。

両首脳は、韓国の半導体メーカーと日本の素材・部品・装置メーカーによる半導体サプライチェーン(供給網)構築への連携強化も確認した。日韓両国政府は岸田首相の訪韓に先立ち、半導体関連の輸出手続きが簡素化される「ホワイト国」への復帰を発表していた。

なお、共同会見の場で記者から、自衛隊機へのレーダー照射問題について質問があり、岸田首相は「双方の関心事項や懸案についてお互いの立場に基づき、議論した」と答えたが、詳細は外交上のやり取りだとして答えを差し控えた。

小渕・金大中のような
日韓の新時代を切り開けるか

朝鮮日報は社説で、「信頼関係を積み上げてきた両首脳は、かつて韓日新時代を開いた金大中(キム・デジュン)・小渕関係を再現させる可能性を示している」と評価した上で、「韓日両国は韓国における反日左派と日本の嫌韓右派に振り回されず、未来に進まなければならない。それは、尹錫悦大統領が内政における負担を抱えながらも口火を切った韓日関係改善の努力に対し、岸田首相がより積極的に答える勇気と誠意を示すべきだ」と結んでいる。

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現在の日韓を取り巻く地政学的状況、経済環境は、これまでのどの時代よりも日韓の緊密な協力を必要としている。

北朝鮮の核ミサイル開発の状況は待ったなしである。中国の台湾侵攻の可能性や南シナ海における軍事拠点化の動きも日韓の安全保障上の脅威となっている。また、韓国の経済状況は成長率の鈍化と輸出の停滞、家計債務の増加で危機的な状況にある。日本も貿易赤字や経済成長率の低下に苦しんでいる。そうした中、米中の経済安全保障における対立も経済再生の足かせとなっている。

今回の岸田首相の訪韓は、尹錫悦大統領の努力に応えるという意味で日韓関係の大きな節目となったといえよう。

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