▼ 当時のロンドンの状況とは?

▼ 切り裂きジャック事件は世界をどう変えたか?

▼ なぜ真犯人探しはいまだに続いているのか?


切り裂きジャックが現れた
当時のロンドンの状況とは?

19世紀のイギリスは、少なくとも上流階級層の視点では、本格的な近代化が進んだとされる時代でした。ヴィクトリア王朝時代には街にガス灯が普及し、産業革命が進んだ街の空には一面煙突がそびえ立っていたそうです。

英国人技術者イザムバード・キングダム・ブルネルらによって、世界初の川底トンネル「テムズトンネル」の建設を開始されます。そしてブリストルとロンドンの間を走る「グレート・ウェスタン鉄道」の建設を手掛けることで都市をつなぎ、大西洋を横断する蒸気船「グレート・ブリテン号」を建造。そうしてイギリスの交通を急激に発達させました。

19世紀後半のロンドンのさまざまな場所に立てば、まるで未来に足を踏み入れたかのように感じたことでしょう。驚異的な近代化の恩恵が、一部の人だけでなく、多くの人々が享受できるものとなったのです。これこそ、イギリスが世界に誇示したかったロンドンの一面だったに違いありません。

テムズトンネル
Nastasic//Getty Images
テムズトンネルのイラスト。

しかし、言うまでもなくロンドンは大都市です。ある部分を明るく照らす光は、それ以外の部分に影を落とすこともあります。切り裂きジャックが獲物を狙ったホワイトチャペルとその周辺地区は、そうした“影”に覆われた地域でした。

「バイオグラフィー」*⁴では、「1800年代後半のロンドン・イーストエンド*⁵は、市民から憐れみや軽蔑の対象として見られる場所だった。主にユダヤ人やロシア人などの熟練技能を持つ移民が商売を始めるためにやってきた新天地であったにもかかわらず、この地区は不潔な、暴力と犯罪の街として有名だった。売春が違法とされたのは、治安を乱すような行為が発生した場合だけで、19世紀後半には何千軒もの売春宿や安い下宿屋が性的なサービスを提供していた」との背景説明がなされています。

ヴィクトリア朝議会が開発を推し進める中、その帰結のひとつとして貧困も生じました。この産業プロジェクトにより、大勢の人が住居の立ち退きを迫られ、保守党員でさえその影響を是正するための社会改革を要求するほどだったそうです。保守党党首のソールズベリー候*⁶は1883年、『ナショナル・レビュー』誌に掲載された「労働者と職人の住居」と題した記事*⁷で、“Laissez-faire is an admirable doctrine,(レッセフェール<自由放任>は立派な教義だが、両面に適用する必要がある)”と述べています。

ソールズベリー卿
Hulton Archive//Getty Images
ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル(ソールズベリー候)。“Labourers’ and Artisans’ Dwellings(労働者と職人の住居)”と題する記事で、イギリスの労働者階級の状況を批判しました。

近代化の粋を享受するロンドンの富裕層がぜい沢な生活をおくる一方で、貧困層や労働者階級が悲惨な暮らしをしていることが問題になりました。議会は1885年の労働者階級者の住宅法の改正*⁸を可決し、スラムとみなされる不適格な建物を使用禁止にできるようにしました。しかしこれは単に表面的な措置に過ぎず、1885年の段階では家を追われた人々のために新たな住宅を建設できるところまでには至らなかったということになります。

切り裂きジャック事件は
世界をどのように変えたか?

そんな中で切り裂きジャック事件は、イギリス、そして世界に対して警鐘を鳴らす役割を果たしました。なぜなら、この凄惨で恐ろしい犯罪の詳細がわかるにつれ、先進的な発展を遂げたと思われていた社会が図らずも、そのような犯罪が蔓延する状況をつくり出したという側面が浮き彫りになったからです。

ロンドンの地下鉄の誕生を可能にしたのと同じ力と作用が、切り裂きジャック事件のような卑劣な犯行の犠牲者を出すロンドンの裏の顔をつくり出したと言えるでしょう。この80年後にアメリカで起きたチャールズ・マンソン*⁹による「マンソン・ファミリー」連続殺人事件が、その時代の楽観的な「フラワームーブメント(ヒッピー文化)」と対比して考えられるのと同様、切り裂きジャックの出現によって人々は(前出の)イザムバード・キングダム・ブルネルが推進した近代化の帰結を受け入れ、このユートピア的なビジョンはそんなに不安定なものではなかったはず…と、疑問視することを迫られたのです。

切り裂きジャック事件の犠牲者メアリー・アン・ニコルズの墓碑。
Loop Images//Getty Images
イギリス、ニューハムのロンドン市墓地にある切り裂きジャック事件の犠牲者、メアリー・アン・ニコルズの墓碑。

切り裂きジャックの謎は、今日に至るまでロンドンに長い影を落としています。ロンドンの路上で、その日を生きるのが精一杯だった罪のない女性たちの命をナイフで奪った男の正体について、アマチュア探偵たちが今でもその謎を追っていることは明らかでしょう。しかし、この殺人事件がもたらした重要な結果は、100年も続く真犯人探しでも、この事件を題材にした多くの書籍や映画、散策ツアーでもありません。

切り裂きジャック殺人事件が報道されたことで、最も弱い立場の人々を守るための社会改革を求める市民の声が高まりました。この抗議の声への対応として、議会では1890年の労働者階級住宅法*¹⁰が可決され、彼らは土地を購入し、劣悪な状態と判断された建物を強制退去させられた人々のために新しい住宅を建設することができるようになったのです。

アイルランド出身の劇作家ジョージ・バーナード・ショー*¹¹は「スター」紙*¹²で、ある意味、的を射たコメントをしています。彼は、「当時のどの学者や活動家の主張よりも、切り裂きジャックの残虐性ほど社会変革につながったものはない」として、次のように発言しています。

「今、全てが変わった。社会主義が失敗したところで民間企業が成功している。従来の社会民主主義者が教育、扇動、組織化に時間を費やしている間に、ある1人の“天才”がこの問題を取り上げ、4人の女性を殺害して内臓を切り取っただけで、民間報道機関の論調を不慣れな共産主義らしきものに変えた」

なぜ切り裂きジャックの
真犯人探しは
いまだに続いているのか?

サラ・バックス・ホートン*¹³が自身の祖父の遺志を21世紀に引き継いだように、私たちは文化的な意味で切り裂きジャック事件を忘れることはできないようです。その理由は、連続殺人犯や実録犯罪への好奇心だと説明することもでき、19世紀ロンドンの 「スチームパンク」*¹⁴に欠かせない要素だからと言うこともできるでしょう。そしてもちろん、切り裂きジャックの正体がわかっていないという謎が、私たちをこの陰惨な物語に引きつけているとも言えます。

ただ、私たちが真犯人探しに固執することで、ホワイトチャペル地区で起きたこの殺人事件によって提起された深刻な問題を、覆い隠してしまうのかもしれません。じっくり考えて楽しい問題ではありませんが…。

アバーライン警部の杖、つまり犯人の似顔絵が彫られた杖が警察学校に展示されているのも、その展示を見た人のおかげで突然事件が解決することを期待しているのではなく、むしろその暗い過去を振り返り、「警察技術の進歩がどこまで進んだか」ということを鼓舞するためのようです。

「切り裂きジャック」には、犯人の手がかりとなるような具体的な人物像が欠落しています。その代わり、ガス灯に象徴される近代化とその副産物としての貧困、事件の標的になった弱者の存在、そして、暗い影を伴って国民の関心を集め続けた凄惨な事件という、彼が当時生きていた世界の要素を複合的に象徴する存在となっているのです。

そして、犯人に関する事実がないままこの事件の背景を考えざるを得ない状況で、杖に彫られた顔や裏づけとなる医療記録を見れば、もはや「切り裂きジャックは誰だったのか」という疑問よりも、「素晴らしいはずの社会で、なぜこのような惨劇が生まれたのか」という、よりショッキングな問題が浮かび上がってきます。

その問題は、切り裂きジャックに関するどんな散策ツアーやコミックで語られる内容よりも、ずっと恐ろしいことではないでしょうか。

前編を振り返る

[脚注]

*1:Victorian era ヴィクトリア女王(1819年生~1901年没)がイギリスを統治していた1837年から1901年の期間を指す。この時代はイギリスの歴史上、産業革命による経済の発展が成熟に達したこの帝国の絶頂期とみなされてもいます。

*2:Isambard Kingdom Brunel(1806年生~1859年没) エンジニアとして鉄道会社「グレート・ウェスタン鉄道」の施設や車両を設計しました。また当時としては大型の、蒸気船「グレート・ウェスタン」と「グレート・ブリテン」も製作しています。2002年には、BBCが行った「100 Greatest Britons(100名の最も偉大な英国人)」投票では第2位になっています。フランスで教育を受け、1833年にロンドンとブリストルをつなぐ「グレート・ウェスタン鉄道」の技師となり、橋梁、トンネル、駅舎を設計・監督をします。優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈されるBrunel Award(ブルネル賞)は彼に由来します。

*3:Whitechapelイングランドのロンドン市街、タワーハムレッツ特別区にあるインナーシティ地区。中心はホワイトチャペル・ロードであり、さらに東へと延びるホワイトチャペル・ハイ・ストリートで、そこにある小さな教会(分会堂) に因んで名づけられとされます。

*4:Biography 1960年代にテレビ番組として放映され、1996年にBiography.comとしててスタートした歴史的人物のストーリーを追求するウェブマガジン。参照ウェブページはNotorious Figures(悪名高き人物)カテゴリー内のアーカイブより。

*5:East End of London シティ・オブ・ロンドンの中世期の防壁の東側とテムズ川の北側の地域。ただし、正式な地域の境界線は存在しません。参考ウェブ記事は「Britannica」より。

*6:Robert Arthur Talbot Gascoyne-Cecil, 3rd Marquess of Salisbury(詳細な名は、第3代ソールズベリー侯爵ロバート・アーサー・タルボット・ガスコイン=セシル、1830年生~1903年没1853年に庶民院議員として政界入りし、1868年に爵位継承で貴族院議員に。保守党政権下で閣僚職を歴任し、ベンジャミン・ディズレーリ亡き後には保守党の党首となり、ヴィクトリア朝後期からエドワード朝初期にかけて3度にわたって首相を務めました。

*7:National Review 1955 年に創刊された、政治・社会・文化問題に関するニュースと解説記事に焦点を当てたアメリカの保守的右派の雑誌。引用したコメントのアーカイブ

*8: Housing of the Working Classes Act 1885 労働者階級の住居に関する法律を改正する法律。資料のアーカイブ

*9:Charles Milles Manson(1934年生~2017年没) 1960年代後半のアメリカに登場した、旧来の価値観に対抗するカウンターカルチャー の一翼を担った若者たち「ヒッピー」コミューンの指導者であり犯罪者。1960年代末から1970年代初めにかけて、カリフォルニア州で「ファミリー(マンソン・ファミリー)」の名で知られるコミューンを率いて集団生活をおくります。そして1969年8月8日から10日にかけてロサンゼルスにて、チャールズ・マンソンらの指揮のもと、マンソン・ファミリーのメンバーによって一連の殺人事件が起こります。その一部は映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で描かれています。Amazonで観る

*10:Housing of Working Class Act 1890 1851年以来の3つの住宅法を集大成したものとされています。地方自治体がスラムクリアランスの地区内で従前居住者の再居住のための住宅(公営住宅)を供給できるように権限が強化されました。これを受けてLCC(ロンドン郡議会)は、早速建築局を設置して、大規模な不良住宅地区の再開発事業を開始しました。

*11:George Bernard Shaw(1856年生~1950年没) アイルランド出身の文学者、脚本家、劇作家、評論家、政治家、教育家、ジャーナリストで、代表作は『人と超人』『ピグマリオン』など。Biography.com内のアーカイブを参照。

*12:The Star newspaper 1888年に創刊されたロンドンの夕刊紙。そこの掲載されたジョージ・バーナード・ショーのコメントのアーカイブ

*13:Sarah Bax Horton 実録犯罪作家、アナリストで、以前は外務省に勤務していました。 1968年に南ウェールズ生まれ。ホワイトチャペル殺人事件に魅せられ、本書の執筆に至ります。 著書は、『One-Armed Jack: Uncovering the Real Jack the Ripper』。

*14:Steampunk SFジャンルの一つで、レトロフューチャーやサイエンス・フィクションのサブジャンルの1つ。「スチーム(蒸気機関)」と「サイバーパンク」を組み合わせてつくられた造語で、 蒸気機関が主要な動力源として普及している世界が舞台になっています。

Translation / Keiko Tanaka
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

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From: Popular Mechanics