[目次]

▼エドガー・アラン・ポーの謎めいた最期

▼エドガー・アラン・ポーの死についてわかっていることは?

▼エドガー・アラン・ポーの死に関するさまざまな説

▼なぜ今でも人々はエドガー・アラン・ポーに興味を持つのか?


エドガー・アラン・ポーの
謎めいた最期

エドガー・アラン・ポーの墓
MizC//Getty Images

そして、1849年の運命の数日がやってきます。彼の死にまつわる謎は未だに解けぬままですが、1849年10月におけるポーの生活は興味深いものでした。

世に名を残す人物の物語をつづるメディア「Biography.com」につづられているように、その時期はポーにとっては「好転していたとき」だったのです。しかしこれは、当時の生活の資料からの推測に過ぎません。彼の死後に近しい人々が語った話としても、必ずしも信憑性があるわけではありません。確かなこととされているのは、「ポーが作品で大観衆を引きつけるスター作家であり、初恋の人であるサラ・エルマイラ・ロイスター・シェルトンと結婚する寸前だった(1849年に亡くなる直前に彼と婚約)」ということだけです。

しかしながら歴史の中では、特定の人に関する誤った物語や先入観が広まり、その人の実像と異なる印象を残すことがあります。それが芸術家の生涯に関わる場合は特に…。最初の“ポーの物語”はかつて(文学かつ恋)のライバルであり、後に文学的遺産の執行人になったルーファス・ウィルモット・グリスウォルドによってつくり上げられました。ルーファスはポーの初の公式伝記で、ポーを“精神的に異常な酒飲みで女たらし”として描いています。

またポーの死後、グリスウォルドは"ルートヴィヒ"という筆名を使って死亡記事を「ニューヨーク・トリビューン」紙1849年10月9日版で最初に掲載。その後、何度も掲載しています。そこでは、「ポーには友人が少なかったので、悲しむ者が少ない」と主張していました。そして「ポーは狂気か憂鬱かたびたび々街を徘徊しており、独り言を言い、自身を呪い、すぐイライラし、他人を妬み、社会を悪人で構成されていると見なしていた」と主張もしています。そしてポーの成功要因は、「彼の虚栄心を傷つけた世界を軽蔑するため」と記しているとのこと。

そうした伝記から、わたしたちはポーを典型的な“苦悩の天才”と見なすようになりましたが、彼に近しい人々から聞くより正確な話では、「ポーの飲酒に関しては、誇張ではないか」というコメントもあり、何人かはその表現を修正しようと試みたとされています(彼はアルコールに弱く、飲んだとしても軽いものであったと言われています)。

エドガー・アラン・ポー
Culture Club//Getty Images

しかしこれらの回想もまた、人々を惹きつける別の物語を生みました。それは、芸術家の人生がついに上手くいき始めていたところ、それが儚く悲劇的に断ち切られてしまう…という物語です。特にこの時期、文学界は若くして亡くなる詩人の物語に夢中になっていました。

1820年代初頭には、ロマン主義の詩人であるジョン・キーツとパーシー・ビッシュ・シェリーがともに30歳未満で早世。その前にはスコットランドの詩人であるロバート・バーンズが1796年に37歳に亡くなった後も人気が上昇し、1880年には彼の像がニューヨークのセントラルパークにウォルター・スコットとウィリアム・シェイクスピアと並ぶように建てられるまでの著名人になっていました。

その像が建てられた11年後には、散文詩『地獄の季節(A Season In Hell)』の著者であり、仲間の詩人ポール・ヴェルレーヌと恋に苦しんでいたアルチュール・ランボーが37歳で癌に倒れ、「若くして悲劇的な死を遂げた苦悩に満ちた詩人」というイメージを定着させました(ロック界の「27クラブ<27才で逝去したアーティストたち>」のようなものです)。

エドガー・アラン・ポーの死については明確なことがわかっていないからこそ、「彼が苦悩の天才では?」「 悲劇の夢追いかけ人では?」といったように、自分たちが好むストーリーで不明な部分を埋めようとしてしまいがちとなるわけです。これは、ポーの作品『モルグ街の殺人』の中でオランウータンの甲高い声を外国の言葉だと誤解する証人たちのように、事実が不確かまま論理を構築してしまうようなものです。だから、納得のいく結論を得るためには、その手がかりを決して見逃してはならないのです。

モルグ街の殺人
LMPC//Getty Images
1932年に公開された映画『モルグ街の殺人』のロビーカード(映画館に掲示されるチラシのような印刷物)。この映画はベラ・ルゴシ主演で知られ、ポーの作品と同じタイトルですが原作からは大きく逸脱しています。

エドガー・アラン・ポーの
死について
わかっていることは?

エドガー・アラン・ポー
Hulton Archive//Getty Images

ここで確実な出来事を記します。それは以下のとおりとされています。

  • 1849年9月27日、エドガー・アラン・ポーはリッチモンドからフィラデルフィアに向かい、その後ニューヨークのブロンクスにある自分のコテージに向かうつもりだった。
  • 10月3日、印刷業者のジョセフ・ウォーカーがボルチモアのGunner’s Hallという居酒屋の外で、“錯乱した状態の”ポーを見かけます。Ryan’s Tavernとしても知られるこの酒場は、1849年の選挙の投票係が集まる場所。当時、酒場が投票所として使われており、投票時に飲み物が提供されるのが当たり前とされていた。
  • その場でぐったりしているように見えたポーに、ウォーカーが「誰かに連絡できる人はいないか?」と手助けを申し出たら、ポーは知りあいの編集者であるジョセフ・スノッドグラスの名を挙げます。以下は、ウォーカーがスノッドグラスに宛てた手紙です。
Dr. J.E.スノッドグラス様
拝啓
ライアンズ第4区の投票所に、かなり具合の悪い紳士がおります。その方の名前はエドガー・A・ポーで彼はあなたを知っていると言っており、彼には直ちに助けが必要だと言っています。
敬具
ジョセフ・W・ウォーカー

その後ポーはワシントン大学病院に搬送されましたが、彼がそこで過ごした時間については、ウォーカーが酒場の外で彼を見つける前に起きたことと同様に、それほど明確にはわかっていません。

それは記録の管理が不十分であるだけでなく、何らかの理由で情報がわざとらしく不正確にされている可能性もあります。ポーは窓のない部屋にただ一人、付き添いの医師はジョン・モランだけであったともされています。結果として10月7日に、ポーは明確な説明なしに40歳で亡くなった…それは確かな事実です。

そしてエドガー・アラン・ポーの死因は、「脳炎」または「脳出血」と記録されました。これはよく薬物やアルコールに関連した死因としても使われていますが、具体的に医師がこの判断を下したプロセスは不明です。一説には、ポーが最後の言葉として「主よ、私の可哀想な魂を助けてください」と発したと言われていますが、この報道の信頼性も定かではありません。

死後、ポーはボルチモアに埋葬されました。故郷と呼べる街や家族を持たなかった作家でしたが、最後の日々を過ごし今も眠る場所は実の父親が生まれた街だったのです。

エドガー・アラン・ポーの
死に関するさまざまな説

エドガー・アラン・ポーの謎めいた死の原因について、最初にその推論を披露したのは知りあいの編集者スノッドグラスです。彼はポーの死を過度なアルコール摂取によるものとしました。なぜなら、この説明は彼にとって都合がよかったからです。彼は熱心な禁酒論者であり、さまざまな場でポーの死をアルコール摂取のせいにする発表を行ったそうです。

しかし、ポーが医師のアドバイスに従ってアルコールを断ち、さらには亡くなった年には「Sons of Temperance」という禁酒運動・支援をする組織に自らも参加していたというは、スノッドグラスの主張には一切考慮されていませんでした。

他の説では、ポーの最期について不正行為や狂気説から始まり、ペットの猫から感染した狂犬病までさまざまな見解が述べられています。確かにポーは猫好きであり、晩年は水を飲むことに抵抗したと報じられたことから、R・マイケル・ベニテス医師は1996年にポーの最期の原因として狂犬病の可能性を指摘しました(狂犬病の症状として水を飲まなくなることがあるため)。果たしてポーは、本当に狂犬病で最期を迎えたのでしょうか?

エドガー・アラン・ポーの家
Michael Natale
フィラデルフィアのエドガー・アラン・ポー国立歴史地区にある家は、意図的に簡素なつくりになっています。ですが、その中には執筆机には彼のそばにいる猫を描いた絵があります。

アメリカの著名なテレビ評論家、編集者、作家など多岐にわたって活動しているマーク・ダウィジアックは、シンプルに思い浮かぶ死因として「結核」の可能性を挙げています。当時アメリカでは結核の患者数が急増しており、ポーの妻であるヴァージニアもその2年前に結核で亡くなったとされていました。そのため、ポー自身も結核を患っていた可能性が高いということ。また、彼の発熱や妄想といった症状が結核の診断に合致していたことも、この推察の根拠としています。

また、ダヴィジアックはポーの失踪を説明する際は、当時は多発していた「cooping(クーピング)」というより悪質な要素があったことも指摘しています。「Gilded Age(南北戦争後の1860~70年代、アメリカ経済が急速に発展した時期。日本語で『金ぴか時代』とも)」と呼ばれる時代の前段階において、アメリカには集票組織がはびこり、賄賂や交渉、ときには圧力をかけて票を稼いで権力を得ようとしていた者が多数いました。その当時によく行われていたというのが「cooping」であり、浮浪者やさまざまな面で力を持たない弱者をまとめて狭い場所に閉じ込め(なので、「閉じ込める」という意味を持つ「coop」が使われています)、偽名を使ってさまざまな投票所に送り込み、不正な投票を行わせたのです。エドガー・アラン・ポーもそれに巻き込まれ、さまざまな精神・物理的な虐待を受けたことで失踪し、ウォーカーによって発見されたときには異常な振る舞いを起こすようになってしまっていた…という説もあります。

このときポーは、投票所の外で発見されています。身体的に脆弱で体力がなかったポーが自分でアルコールを避けていたとしても、不正な投票を行った酒場でアルコールを無理やり飲まされたことで、酩酊状態に陥ったのではないか…という説も唱えられているのです。

当時は有名人であったポーが失踪時や拘束時に正体がばれなかったのは、「彼が文学の有名人でしかなかったから」という推測があります。事実、ポーの姿は新聞や文学雑誌のエッチングに現れる程度だったわけなので、彼を見ても誰なのかわらなかったことは当時としては当たり前のことだったかもしれません。また、クーピングを実際に仕組んでいた男たちも、貧困層や移民であったことも認識されなかった理由でもあるでしょう。

エドガー・アラン・ポー
Culture Club//Getty Images

とは言え、確実なことはわからないですし、名探偵C・オーギュスト・デュパンのように謎解きをしてくれる人物もまだ現れてはいないので、私たちは出されている物語の中で「どれを選ぶか?」を考えるしかないのかもしれません。

そこで、クーピング説を選んだ人にはさらに苦々しい皮肉話が付いてきます。

実際には、ポーが強制的に投票をさせられたかもしれない地方選挙の記録は残っていませんが、1849年の選挙でメリーランド州が選んだ2人の上院議員に関する情報はあります。1人はジェームズ・アルフレッド・ピアースです。彼は1843年から1862年まで議席を保持していましたので、彼を救うために投票を不正に操作する必要があったとは考えにくいです。もう1人のデヴィッド・スチュワートはというと、彼は民主党員として上院議席を狙っていました。この議席は以前にホイッグ党の党員であるレヴァーディ・ジョンソンが務めていたのですが、彼は第12代アメリカ合衆国大統領ザカリー・テイラーの内閣に入閣するために辞任していました(なお、テイラー大統領自体も疑わしい状況で死亡していますが、それは別の話となります)。

確かにスチュワートは上院議席を獲得し、ボルチモアにおけるホイッグ党の優勢に打撃を与えましたが、それはたった1年間のことでした。わずか1年後の1850年、スチュワートは上院議席をホイッグ党のトーマス・プラットに奪われ、その後7年間にわたってその席を奪還できませんでした。したがって、もしポーが巻き込まれた「cooping」が民主党のスチュワートのために投票を左右しようとしたものだったのならば、アメリカで高く称賛された文学者の一人が、わずか1年の間の、そしてわずか1つの上院議席のために失われたことになるのです。

なぜ今でも人々は
エドガー・アラン・ポーに
興味を持つのか?

エドガー・アラン・ポー国立歴史地区
Michael Natale

アメリカ文化史の中でも、有名な作家の一人であるエドガー・アラン・ポー。彼が滞在した都市の多くは現在、由来のある建物を保存または新たに彼にちなんだを建てるなど、その偉業を高く賞賛しています。そして、ポーの死の謎が今でも人々を引きつけていることは、好奇心旺盛な観光客たちが“答え”を求めてくるたびに疲れ果てた表情を浮かべているツアーガイドたちの顔を見ればわかるでしょう。

謎の最期についての紹介は、施設によってさまざまです。

NFLのチームがポーの有名な詩から名前をとって、「ボルティモア・レイブンズ」と命名したメリーランド州ボルチモアでは、「ボルチモアでのエドガー・アラン・ポーの生涯と死に関するバスツアー」と銘打ったツアーが開催されており、これは彼が亡くなった病院と2つの墓地を巡るというものです。また、バージニア州に州都リッチモンドのポー博物館を訪れると、ポーへの敬意を表すために弔辞を述べたり、謎を解くための「デス・クルー」に参加したりすることができます。

ペンシルベニア州最大の都市フィラデルフィアのエドガー・アラン・ポー国立歴史地区の国立公園局では、ポーの死に焦点を当てず、むしろポーが過ごした空間をそのまま保存しています。そこでは質素な家(ビジターセンターには魅力的な読書室がありますが)や、そこで書かれた小説を紹介することにフォーカスしています。もし興味があれば、パークレンジャーにポーの死について尋ねてみてください。

エドガー・アラン・ポー・ストリート
Michael Natale

ニューヨークでは、ポーの足跡は他の場所より少し控えめに表現されています。マンハッタンのウェスト84thストリートが「エドガー・アラン・ポー・ストリート」と呼ばれており、他の場所も同じように主張してはいますが、建物の一部には「『The Raven』をつくった場所」とつづられた銘板があります。

また、ブロンクスにはポー・パークと呼ばれる小さな緑地があり、そこにはポーが住んでいた質素なコテージが今も残っています。ただし、コテージ内に入るにはブロンクス歴史協会を通じて、事前に予約したツアーに参加しなければなりません。最近は2023年12月15日より、このコテージではポーの妻ヴァージニアの死に関する展示「THE DEATH OF VIRGINIA POE」が行われています。

公園内のコテージの隣には、ニューヨーク市が運営するポー・パーク・ビジターセンターがあります。ですが、この施設はポーの歴史や謎に焦点を当てるのではなく、地元のアーティストの作品を紹介しています。ポーが生前経験したことがなかったような、地元のアーティストたちの活動を促進する場となっています。

エドガー・アラン・ポーのコテージ
Michael Natale
ブロンクスのポー・パーク内にあるゲートの奥に位置する、エドガー・アラン・ポーのコテージ。

Translation / Yumi Suzuki
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

From: Popular Mechanics