[目次]

▼エドガー・アラン・ポーが残したもの

▼ポーの人気が絶えないのは自らの人生に謎を示したから

▼ポー最大のミステリーはやはり、その死因

▼エドガー・アラン・ポーは何者?

▼エドガー・アラン・ポーの波乱に満ちた晩期と文学的遺産


エドガー・アラン・ポーが
残したもの

エドガー・アラン・ポーは推理小説のスタイルを確立した人物であり(1841年に発表した『モルグ街の殺人事件(The Murders in The Rue Morgue)』が、世界初の推理小説とも言われています)、SFにホラー、ゴシックなどの幅広いジャンルに不滅の作品の数々を残した大作家です。

そんな彼がこの世の残した最後の謎こそ、極めて難解なもの…それは、「自らの早すぎる死の原因は何か?」です。ポーがこの世に現れてから200年以上が経ちますが、彼自身は40歳という若さでこの世を去ったのです。

作家としての活動の期間もそう長くはありませんが、その短期間の中で彼は数々の名作を残しました。『モレラ(Morella)』や『ライジーア(Ligeia)』では“死後の世界”や“転生”の世界観を、そしてゴシック風の怪奇な世界を描いた短編小説『アッシャー家の崩壊(The Fall the House Usher)』や、ミイラをよみがえらせた『ミイラの言葉(Some Words with a Mummy)』では社会の価値観や偏見、科学への過剰な信仰への風刺を巧妙につづっています。

そうして後輩と言えるボードレールやドストエフスキーら、同時代の作家たちからの絶賛も受けました。加えて、彼にとって次世代とも言えるフォークナーやナボコフ、ステファヌ・マラルメらは多大な影響を与えたと言われています(言うまでもなく江戸川乱歩は、文字通り大ファンでした)。

ポーの人気が絶えないのは
自らの人生に謎を示したから…

ですが、今もなおエドガー・アラン・ポーの名声は薄れていないのは、先で述べているように、自らの人生をミステリーにしたところにあると言って過言ではありません。そして彼は作品の中に、「自分が死後どのようになるか?」を予見しているかのような短編があります。それが『楕円形の肖像画(The Oval Portrait)』です。

そこに登場する若き花嫁の運命は、ポーそのものではないでしょうか。この物語で人の肉体は次第に枯れ果てていきますが、その姿は肖像画の中で永遠に保存されていきます。これと同様にポーの身体は朽ちながらも、その魂は作品の中で生き続けているというわけです。

もし、彼の作品が出来上がっていく過程をつづった解説ノートがあれば、「ポーは作品づくりに身も心もささげ、一心不乱につづっていた。そして作品が完成に近づくにつれ、ポーは痩せ衰えていった」と記録されていたことでしょう。そうしてポーの命を吸い取ったのち、生き生きとした作品が完成したのかもしれません。

'the oval portrait' by edgar allan poe
Culture Club//Getty Images
アーサー・ラッカムによるエドガー・アラン・ポーの『楕円形の肖像画』の挿絵では、美しい若い花嫁の肖像画を描く画家が、彼女がポーズをとりながら亡くなっていることに気づかず、絵を描くことに夢中になっている様子が描かれています。

そして時を経てもなお、ポーは現代の大衆文化の中で存在感を放ち続けているのも確かなこと。数々の表現で、現在も取り入れられています。例えば2023年10月には、Netflixでマイク・フラナガン監督による「Poe-meets-Succession」シリーズの一つとして『アッシャー家の崩壊(The Fall of the House of Usher)』が配信されました。こちらの作品はNetflix全世界ランキング(英語作品:2023年10月16日~2023年10月22日の期間)で、1位にも躍り出ています。

また、欧州放送連合加盟放送局によって開催される毎年恒例の音楽コンテスト「ユーロビジョン・ソング・コンテスト2023」では、オーストリア代表デュオのテヤ&サレナは『Who the Hell Is Edgar?』でエントリー。エドガー・アラン・ポーの霊にとりつかれているというテーマで歌っています。ちなみにこのコンテストでこの曲は、準決勝2位で予選を通過。その後、26曲からなるグランドファイナルの1曲目として出場するも決勝では、合計120ポイントで15位となりました。オーストリアとリトアニアのランキングでは、トップ10入りも果たしています。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Teya & Salena - Who The Hell Is Edgar? | Austria 🇦🇹 | Official Music Video | Eurovision 2023
Teya & Salena - Who The Hell Is Edgar? | Austria 🇦🇹 | Official Music Video | Eurovision 2023 thumnail
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エドガー・アラン・ポーは、アメリカ文学を代表するホラー作家として世界的に知られていますが、他の文学ジャンルにも大きな影響を与えた作家としても有名です。冒頭でも触れている『モルグ街の殺人(The Murders in the Rue Morgue)』でポーが創作した、世界初の名探偵とされるC.オーギュスト・デュパンと、デュパンの犯罪解決手法である「ratiocination(推理)」は、後にアーサー・コナン・ドイルの「シャーロック・ホームズ」シリーズの誕生や探偵小説ものが一大ジャンルとなる基盤となりました。

ポー最大のミステリーは
やはり、その死因にある…

ですが、ここで本題に移ります。

エドガー・アラン・ポーの作家としての功績以上に人々を魅了しているのは、何度も言うようですが、彼自身の謎めいた死にまつわる複雑な状況にあるのです。2世紀以上にわたって多くのアマチュア探偵たちが、その神話や医学的な難問、さらには政治的な陰謀に埋もれた謎解きに挑戦してきました。

marker at edgar allen poe's original grave site
drnadig//Getty Images
1875年にボルチモアに建てられたエドガー・アラン・ポーの墓碑。

「エドガー・アラン・ポーの死因」、そして「誰が彼を殺害したのか?」という謎に挑む最新の名探偵デュパン役に名乗りを上げたのが、作家マーク・ダウィジアックです。彼の2023年の著書『ミステリー・オブ・ミステリーズ:エドガー・アラン・ポーの死と生(A Mystery of Mysteries: The Death and Life of Edgar Allan Poe)』の中で、ポーの母と妻の両方の命を奪った致命的な病気である結核と、当時の悪辣で犯罪的な行為であった「cooping(クーピング。選挙前に投票権のある弱者たちに暴行をふるったうえに監禁し、その後、特定の候補に無理やり投票させること)」を組み合わせた画期的な新説を提唱しています。

ですが、ダウィジアック自身も以下のように自著で認めています。「これはあくまでも自論であり、本当のことは誰にもわからない」と…。

リッチモンドからニューヨークへ向かう途中で、なぜ彼は最終的にボルチモアにたどり着いたのか? それを説明できる人は誰もいません。

9月26日の夕方にリッチモンドで最後に目撃されてから、10月3日の湿った寒い午後にボルチモアの選挙日の投票所の外に再び現れるまでの行方不明の数日間に何が起こったのか? 知る由もありません。

ポーがワシントン大学病院で亡くなる前、数時間にわたり呼びかけたとされる『レイノルズ(Reynolds)』という人物の正体も解明されていません。

錯乱の原因とされる『脳出血』『脳炎』『脳症』と一般的に形容される状態に関する、確定的な証拠やそれに匹敵するものは誰も示していません。

彼が最期につぶやいた、感傷的でやや情けない言葉『主よ、私の哀れな魂を助けてください!』ですら、疑問視されています。

では、アメリカで称賛される作家の死にまつわる謎が、なぜこんなにもたくさんあるのでしょうか? そこで今回は、エドガー・アラン・ポーの生死を見ていきましょう。

「なぜ生についても触れるか?」 と言う人もいるかもしれません。それは、エドガー・アラン・ポーの生は死と切り離せないもの。生を議論することなくして、死について語ることはできないと言えるからです。ポー自身も『早すぎた埋葬(The Premature Burial)』で、「生と死を分ける境界は、漠然としています。生がどこで終わるのか? 死がどこから始まるのか? 誰が言い切れるのでしょうか」と言っているように、その境界は曖昧という認識なのです。

エドガー・アラン・ポーは
何者?

edgar allan poe 19th century
powerofforever//Getty Images
19世紀にエッチング画(銅版画)で描かれたエドガー・アラン・ポーの肖像画。

エドガー・アラン・ポーの遺産をめぐっては、アメリカ東海岸の主要都市のほとんどが何かしらの関わりを主張していますが、“彼の生まれ故郷”と断言できるのはマサチューセッツ州ボストンだけです。

ただし『The New England Grimpendium』誌(ニューイングランド地域に関する奇妙で興味深い事実やエピソードを集めた書籍)によれば、エドガー・アラン・ポーの生家やその家があったストリートも、現在のボストンには残っていません。これは都市の再開発プロジェクトが進み、かつ当時はポーに対する人々の興味が低かったため、関わりがあった場所が失われてしまったからだそうです。

現在ではバージニア州リッチモンドからニューヨーク市まで、多くの都市が誇らしげにポーにゆかりのある場所として主張していますが、これらの都市、そしてその都市に住む誰一人として、当初は彼に対して関心など持っていなかったとされています。その中には、自身の両親も含まれています…。

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Edgar Allan Poe - Writer | Mini Bio | BIO
Edgar Allan Poe - Writer | Mini Bio | BIO thumnail
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ポーは、「実の両親をほとんど知らなかった」と言えます。彼の母はイギリスの旅役者エリザベス・アーノルド・ポーであり、父はボルチモア生まれの俳優デイビッド・ポー・ジュニア。「デイビッドはアルコール依存症で、妻に比べて役者として劣っていることに不満を抱いていた」とされており、これはケネス・シルバーマンの著書『Edgar A. Poe: Mournful and Never-ending Remembrance』で示唆されています。そしてデイビッドはポーが生まれたばかりの頃に、家族を捨てて蒸発します。

lincoln's murder
Hulton Archive//Getty Images

一方、エリザベスは母親としての責任を果たそうと努力します。彼女は子どもたち(ポーには兄のウィリアムと妹のロザリーがいました)の世話をしていましたが、ポーがわずか2歳になった頃に結核で亡くなってしまいます。

そしてポーは兄のウィリアムと妹のロザリーから引き離され、バージニア州リッチモンド商人ジョン・アランとフランシス・アラン夫妻のもとで暮らすことに。養父のジョン・アランはたばこ業界に従事しており、ポーがその仕事を継ぐことを期待していたそうです。しかし、ポーは詩人になるという夢を持っており、彼のミューズかつ婚約者であるサラ・エルマイラ・ロイスターから強烈なインスピレーションを得て、執筆活動を始めます。

ジョン・アランは、ポーの夢の実現に向けた手助けをする立場にあった最初の人物であったと同時に、その手助けを断った最初の人物でもありました。ポーはヴァージニア大学で優秀な学生だったと伝えられていますが、養父ジョン・アランと賭博の借金が原因で仲たがいし、資金援助は打ち切られ大学を中退します。同様にロイスターとの恋愛も、彼女が別の誰かと婚約してしまったことで破綻したとされています。

そうして落胆し進むべき道を模索する中、若きエドガー・アラン・ポーはボストンに戻りました。

a staircase in a stone building
Michael Natale
フィラデルフィアにあるポーの家の崩れかけた地下室は、現在は国立公園局によって管理されており、ポーがそこに住んでいた当時の様子が再現されています。

エドガー・アラン・ポーの
波乱に満ちた晩期と文学的遺産

こうしてさまざまな仕事、経済的な困難、そして居場所を転々とする生活が始まりました。ポーは短期間でしたが陸軍に所属したのち、ウェストポイントの士官候補生にもなりました。また、アメリカ南部で刊行されていた文芸誌『サザン・リテラリー・メッセンジャー』でも勤務していました。この期間にポーは、ボストン、リッチモンド、ボルチモア、フィラデルフィア、そしてニューヨークシティに住んでいたという記録が残っています。

そして作家として、詩に始まり文学批評、冒険小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語(The Narrative of Arthur Gordon Pym of Nantucket)』、宇宙論エッセイ『Eureka: A Prose Poem』、コンテンポラリースタイルのインテリアを批評するエッセイ『The Philosophy of Furniture』、偽情報を論破するエッセイ『メルツェルの将棋差し(Maelzel’s Chess Player)』、そして自身の執筆でいくつかの偽情報を紹介した『The Balloon-Hoax』などなど、さまざまなジャンルで執筆しました。

またポーの文学評論は非常に厳しく、その批評によって彼は「トマホーク・マン」というあだ名を得ると同時に、アメリカ人の詩人、ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの怒りを買ったともされています。

1836年、当時27歳のポーは13歳の従妹ヴァージニア・クレムと結婚しました。彼らの結婚がどのようなものだったのか?は私たちにはわかりませんが、ポーの研究者の中には彼らの結婚はchaste marriage(純潔の結婚)であり、「それは肉体的な問題というよりも法的な問題であった」と指摘する人もいます。

ポーがヴァージニアについて書く際、彼は「乙女」という言葉を使っています。これは文学的な表現かもしれませんが、結婚生活全般でヴァージニアが貞操を守っていたことを示唆しているかもしれません。しかしヴァージニアは、苦悩するポーの精神的な大きな支えとなったはずです。

実際、彼が亡くなるわずか4年前の1845年に詩『大鴉(おおがらす:The Raven)』を発表するまでは、ポーは評価をほとんど得られなかったのです。この作品は発表後すぐに大ヒットとなり、アメリカの文化に浸透した他とは一線を画する作品として同業者たちからも「別格だ」と評価されます。

poe and his raven
Transcendental Graphics//Getty Images
1869年のRavenブランドのたばこに使われたラベルは、『The Raven』の物語の1シーンを描いています。

しかしながら、ポーの文学的な評価が輝き続けたのは『The Raven』が発表されてからわずか2年だったのです。1847年、彼が24歳のときにヴァージニアが、実の母親と兄が亡くなったのと同じように結核で亡くなりました。ポーは彼女の死に打ちひしがれながらも仕事を続けましたが、そこから体調が悪化し、経済的に苦しむ日々が続きます。それは1849年に亡くなるまで続いたそうです。

後編では、いよいよ謎に包まれたポーの死について見ていきましょう。

Translation / Yumi Suzuki
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

From: Popular Mechanics