記事のポイント

  • 13年に及ぶ考古学的な発掘調査により、かつてローマ帝国の辺境都市と考えられていた地から、当初考えられていたよりもはるかに長期間存続していた痕跡を発見することになりました。
  • その名はインテラムナ・リレナス、紀元3世紀まで繁栄した町でした。
  • 物理学的な調査により、研究者たちはその町の配置に関するイメージをかなり詳細に構築することが可能となり、都市機能について印象的な情報を具体的に得ることができたということ。

「ただの辺境の町」と
思われていたその地は、
繁栄を誇った町でした

イタリア・ローマから南へ80km離れたリーリ渓谷にあるインテラムナ・リレナスという町の遺跡を発掘していた考古学チームが、この地を単なるローマ帝国の“辺境の町”という認識ではなく、はるかに意味のある存在であることを示す痕跡を見つけました。

2024年2月に発売予定の書籍『Roman Urbanism in Italy』(刊:Oxbow Books Limited)に掲載される研究報告によれば、「この町は印象的な都市機能と先進的なデザインを活かし、帝国の崩壊の影響から逃れていた。そして、イタリア全体が衰退の一途をたどっていたと考えられる紀元3世紀まで繁栄していた」と推察しています。

この研究の執筆者であり、Interamna Lirenas Project(インテラムナ・リレナス プロジェクト)の責任者でもあるケンブリッジ大学古典学(古典美術・考古学)准教授アレッサンドロ・ラウナーロ氏は声明の中で、「私たちは、何かが発見されそうもない…あえて、見込みのない場所から調査をスタートさせました。誰も、そこで発掘をしようと思わないような場所です」とし、続いて「これは、イタリアでは珍しいケースです」と少々誇らしげにつづられています。

研究チームは、自分たちが発見したものに驚嘆しました。屋根のある劇場や市場、倉庫や河港などが見つかり、この地域とローマ帝国の衰退に関するこれまでの先入観を打ち砕ったのです。インテラムナ・リレナスという町は、これまで考えられていたタームよりも約300年も長く存続しており、しかも、栄華を誇っていた町であること推定できる痕跡が発掘されたのです。

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How did a backwater town buck Roman Italy’s decline?
How did a backwater town buck Roman Italy’s decline? thumnail
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ラウナーロ氏が語るところによれば、「表面には何もなく、目に見える建物の痕跡もなく、ただ壊れた陶器のかけらだけがあるだけでした。ですが、ここは決して辺境の町ではなく、900年間にわたり紛争や災害などさまざまな困難に対応しながら、繁栄し続けた町だったのです」ということ。

考古学者のチームは磁気と地中レーダーを使用して、開けたフィールドの中から約60エーカー(約24万平方メートル)を調査。その後、対象を絞って発掘作業を繰り返し、その歴史の痕跡を明らかにしました。ラウナーロ氏は次のように述べています。

「わたしたちは、『この町が特別な存在であった』とまで言ってはいません。それよりもはるかに興奮しているのは、『イタリアにおける多くの平均的なローマの町には、同様の回復力をもって成り立っていた』と考えられるようになったことです。ただ、考古学者がそのことを見極めるための適切な技術とアプローチを適用し始めたのは、ごく最近のことですので…」

繁栄していた証拠を示す
陶器と港の存在

研究チームは、「その証拠は陶器にある」としています。

高貴な身分の人々が生活していた痕跡を示すことの多い輸入陶器ではなく、調理に使われた一般的な陶器に注目することで、研究チームはこの地域における市民が移動した場所と時期をより正確に把握することができたようです。そして、これまで信じられていたように、この町の規模が紀元前2世紀後半から1世紀前半にピークを迎えていたのではなく、紀元後3世紀後半まで町の衰退を食い止めることができていたこともわかったということ。

「輸入陶器が比較的少ないことから、考古学者らはこれまでインテラムナ・リレナスを「衰退した辺境の町」と推測してきました。ですが、今ではそうではなかったことがわかっています」とラウナーロ氏は語ります。2000人ほどが住んでいたと考えられるこの町は、輸入された陶器を好むのではなく、「独自の道を切り開くことに注力していたのではないか?」と推察しています。

また、碑文を発見できたことで、研究者らは、「インテラムナ・リレナスは地域の都市ネットワークの一部であり、川と幹線道路の間に理想的な位置にあったため、この町に紀元前46年にユリウス・カエサルが訪れた可能性が高い」と考えていいます。

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ラウナーロ氏は、「この町は常に賢明な手を打ち続けました。交易の中心地として栄えながら、ローマと南イタリアの間のコミュニティとの関係を築き続けていたのです」と述べています。その点では、リーリ川が重要な役割を果たしていた可能性があります。この町は河港として機能していたのかもしれません。

というのも、考古学者たちは幅131フィート(約40メートル)、長さ39フィート(約12メートル)の倉庫の痕跡を発見しました。おそらくこの倉庫は、広範囲におよぶ貿易のための商品を保管するために使用されたていたものと推察できます。さらに港の近くには、町の3つの寺院と浴場の複合施設の一部もありました。

ラウナーロ氏は次のように述べます。

「河港に必要なのは、倉庫だけではありませんでした。人々はこの周辺で仕事をしたり休憩したりと多くの時間を過ごしていたため、ここで見つけたようなあらゆる種類の設備が必要だったのでしょう」

高度な建造物も存在していた

インテラムナ・リレナスは、単なる港町ではなかったようです。考古学者らは、約147フィート(約45メートル)× 85フィート(約26メートル)の大きさで、1500人を収容できる大きさの屋根付きの劇場も発見しました。ラウナーロ氏は次のような見解を示しています。

「この町が屋根付きの劇場、それも非常に洗練された建物を追求したという事実は、衰退する辺境の町にはそぐわないものです。この劇場は重要なステータスシンボルだったことが考えられます。町の富、権力、そして野心を示していたのです」

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さらに、発見された劇場は衰退するどころではなく、成長過程があったことが読み取れたということ。なぜなら研究チームは、裕福な支援者から改修資金が提供された記録された証拠物も発掘したのです。また、それとともに他にも発見された数々の証拠物と組み合わせることで、町が存続していた間にこの劇場が常に使用されていたことも推察できるということ。

ローマ帝国時代の衰退したその後も、継続的に使用され維持されていたことを示す3カ所の浴場施設と、ゾーニングや社会的地位による分離が見られない住宅も確認しています。これらによって、この町が明らかに繁栄したという推察を助長しました。

研究チームはこれらの60エーカーにおよぶ調査を通じて、市場、ギルドハウス、倉庫、またはアパートとして使用されていたと考えられる19の中庭付きの建物を特定しました。また、考古学者らは羊と牛の市場も発見したと考えており、羊毛貿易が盛んであったこの地域にとって、重要な場所であったとしています。

灰の層や暴力による終焉の証拠がなかったことから、「住民が軍隊による襲撃を恐れ、最終的には町を放棄したのではないか?」とラウナーロ氏は考えています。インテラムナ・リレナスの終焉は、これまで考えられていたほど急激でも早くもなかった…。今回の調査報告によって、そんな新たな見解がもたらされたのでした。

Translation /Yumi Suzukii
Edit / Satomi Tanioka
※この翻訳は抄訳です

From: Popular Mechanics