この記事は『Esquire』(US版)1983年12月号に掲載されたものです。そのため人種関連の描写に関して、強い感情を喚起する可能性のある現代とは異なる記述も含まれますのでご了承ください。『Esquire』にこれまで掲載された記事を、そのままお読みいただけるのがこのEsquire Classicですので。

[目次]

▼ 序:キング牧師と公民権運動

▼ 白黒映像で記憶する南部での公民権運動

▼ “彼も集まった人々も、ともに教会で特別な交わりが…”

▼ キング牧師の声:新しい真理への挑戦と公民権運動の指導者

▼ キング牧師の遺産:人種差別と闘い、アメリカ社会を変革した方法

▼ キング牧師の軌跡:南部の地から全米へ、立ち向かったリーダー

▼ キング牧師の戦略:テレビを活用した政治活動と影響

▼ キング牧師とメディア:人種隔離を暴く戦略

▼ “運動が始まって数年間、すばらしい勝利をもたらしました…”

▼ 公民権運動の変遷

▼ キング牧師の晩年と公民権運動の転換点

▼ キング牧師と私の出会い


dream speech
Agence France Presse//Getty Images
1963年8月28日、ワシントンD.C.で開催された「ワシントン大行進」で、「I have a dream(私には夢がある)」の演説を行ったあとに20万人を超える群衆に手を振るマーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(1929年生~1968年没)。

序:キング牧師と公民権運動
預言者の導きと歴史的転機

アメリカにおける公民権運動は自然発生的にわき起こりました。そしてその中心には、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師(以降、キング牧師)という人間がまさに預言者として先導していたことは紛れもない事実です。

1950年代に入って発生したモンゴメリー・バス・ボイコット事件(1955年)やリトルロック高校事件(1957年)以降、アフリカ系アメリカ人たちの公民権(参政権など)獲得を求める運動が盛り上がりを見せ、反人種差別運動家だけでなく白人が多くを占めるアメリカ国内の世論、そして連邦政府も公民権法の制定に大きく動き始めました。

この運動の全盛期には、キング牧師が鎮めるために懸命に戦った暴力的な対立もありました。ですが、それもかかわらず、奇跡的な変化が比較的短期間で起こったのです。その最大の契機となったのが、1963年の「ワシントン大行進」ではないでしょうか。

連邦政府に対して公民権制定を訴えかけることと同時に、内外に対して公民権運動の盛り上がりをアピールするため、公民権運動団体を中心にワシントンD.C.のリンカーン記念堂前に20万人以上が集結したのです。

その流れの中で公立学校の実質的な統合、さらに市バスの座席差別の排除、続いてランチカウンターの統合、さらに「Civil Rights Act of 1964(1964年公民権法)」*⁴の制定によって、それまで長らく扉を閉ざされてきた非白人のアメリカ人に対して投票所が開放される運びとなるのです。

こうしてキング牧師による預言の言葉、「Free at last, free at last, thank God Almighty, we are free at last(ついに自由に! 自由になった! 偉大なる神に感謝、私たちは自由に!)」*⁵がとうとう実現することになります(とは言え、実質上は21世紀に入ってもBlack Lives Matterを象徴に、この闘いはまだ終わってはいません)。


king sermon
Michael Ochs Archives//Getty Images
1956年5月、アラバマ州モンゴメリーで説教を行うキング牧師。

白黒映像で記憶する
南部での公民権運動

最初の幕は1956年の秋、まだ南部が昔のままだった時代から開かれます。モンゴメリー・バス・ボイコットはまだ始まったばかりで、それと同時にキング牧師も全国的に脚光を浴び始めた頃。講演のため、テネシー州ナッシュビルに訪れていたときのテレビからの映像です。私(当時の筆者デイヴィッド・ハルバースタム*⁶)の記憶では、その光景はまだ白黒映像です。あの頃まだ、カラーテレビがアメリカに普及していなかったからでしょう、南部の人種的な差別的な光景は大抵、鮮明なモノクロ画像で頭の中に残っています。

当時、私はテネシー州ナッシュビルで日刊紙「テネシアン」*⁷で、公民権運動の一端を取材していました。ですが、キング牧師が講演する予定の黒人教会に出向いたのは、記憶違いでなければ仕事が休みの日でだったのです。「テネシアン」紙では、われわれは南部の大多数の日刊紙とはちがい、人種差別問題について積極的に取り上げる良心的な新聞だと自分たちを誇りに思っていました。

こうした自負は、極めて妥当なものだったと思います。ですが、「テネシアン」紙のような善良で勇気ある新聞であっても、わざわざトラブルを探し求めているというわけではありません。とは言え、物言うに恐れを知らぬ若き黒人牧師を取材するために、北部出身の22歳の記者を送り込むなどということは、それ自体でまさしく“トラブル”と言えるでしょう。それに「テネシアン」紙は、人種共学といったいくつかの基本的なテーマについて取り上げることはしていましたが、それでも社には独自の特異性も持ち合わせてもいました。

私はその数週間前に、「次のオリンピックに出場予定の4人の若い黒人女性が、テネシー州立大学でトレーニング中だ」という記事を書き上げたところでした。その4人の中にはウィルマ・ルドルフ*⁸もいて、実際彼女たちはその大会で勝利を収めました。

その記事のリード文で、私はテネシー州立大学の「four young coeds(4人の若い女性)」という書き方をしていました。そこで、「リードを書き直すように」と突き返されたのです。「“coed*⁹”という言葉で呼んでいいのは白人だけだから」というのが理由だったのです。良心的な新聞でさえ、こうでした。そういう時代だったのです。

“彼も、そして集まった人々もともに、あの教会で特別な交わりがあったことを覚えています”

その黒人教会は、1500人ぐらい入れる場所でした。ですが、そのときそこには、おそらく6万人ほどが集まっていました。新聞やテレビでアナウンスがあったわけではありませんが、彼らは知っていたのです。

集まった人々は中には、教会内に入れないと分かっても整然としていて、礼儀正しい様子でした。私は報道陣の席はこちらだろうと、横の扉の方へ回り込みました。メディア関係者は、今のところ私だけのようでしたが、あとでどっと押し寄せてくるだろうと思いました。

中へ入ると、私の宿敵であるナッシュビルの警官がいました。彼は筋金入りの人種隔離主義者で、彼にとっては警官であることが、すなわち人種的憎悪を表現する何よりの手段にもなっていました。彼は私にうなずいて見せ、話しかけてきました。この場で彼のほかには私だけが白人だったので、それで彼は私にかまってきたのです。

「黒人説教師ひとりのために、これだけ集まっているのか」と彼が私に訊(き)いています。そして私は、そんな彼にうなずきました。

king at home, 1956
Michael Ochs Archives//Getty Images
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア自宅にて、1956年。

彼は何度かぐるっと周囲を見回し、膨大な数の会衆を眺めました。つかの間、彼の表情がこわばりました。そして私は、「彼ならきっと、彼らを奮い立たせることができるに違いない」と確信しました。

その日の集まりは、昔のリバイバル・ミーティング*¹⁰の最新版とも言うべきか、長話をする素人くさい説教師が説教したり、多くの黒人たちが大騒ぎして床を転げまわるというものでした。気分が良くなったのかキング牧師は、少しほほ笑み私に手を振りました。


キング牧師の声:
新しい真理への挑戦と公民権運動の指導者

1983年の時点で、キング牧師のスピーチを初めて聞いてから25年以上が経過しましたが、そのとき彼から受けた強烈な印象を今でも驚くほど鮮明に思い出せます。具体的な言葉には出てきませんが、彼のパフォーマンスの力強さ、知性、引力は消えずに残っています。

彼は聴衆の前に自らの高い知性を、そして、猛々(たけだけ)しいほどの意志から新しい真理を、古くからのやり方で言い表してみせる類いまれな才能を発揮していました。そうしてキング牧師が発するオーラは聴衆たちを勇気づけ、その逆に聴衆たちは長い長い苦難の年月を変わることなく耐え抜いた自分たちの尊厳を彼へと差し出します。それによって今度はキング牧師が、力づけられるといったループがそこにはありました。

キング牧師は父も祖父も、有名な説教師でした。そんな彼だからこそ、南部の黒人たちの古い歩調に、新たなる「ソーシャル・ゴスペル*¹¹」をもたらしたのです。その教会では、gospel(ゴスペル)の抑揚は古くから親しまれていました。福音を伝える独特の歌うような手法は、黒人の説教師が白人支配層と対立することなく教会に集う会衆の傷を癒やしながら、その人々の感情を表現するための方法だったのです。

しかしキング牧師は、この伝統に挑んでいるとも言えます。なぜなら、彼の考えがもし実行に移された場合には、教会にいる全員が白人コミュニティと対抗しなければならなくなるぐらいの、荒々しい力強さを持ったいたからです。当時の白人の言い方を借りれば、「キングは白人社会をかき乱した」という表現になります。

教会に集まった多くの黒人たちも通常であれば、他州からから来た無名の若い牧師がそんな大きなリスクを冒すよう内容を自分たちに向かって説いたのならば、警戒するに違いありません。ですが彼はキング牧師、「ふつう」ではありません。彼はそうした新しい真理を切々と語ることができましたし、その真理を彼らの心の奥底にとどめさせることもできたのです。

彼が言っていたことは実に単純で、「黒人たちの生活における苦難の責任は黒人たち自身にあるのではなく、彼らを不当に扱った人々にある」ということでした。今となっては、“ひどく急進的で過激なもの”とは思えないでしょう。ですが、当時からすれば「ブラック・プライド*¹²」の運動はまだ何年も先のことであり、南部の平均的な黒人たちは依然として、ひどい自信喪失と自堕落に陥っていたところでだったのです。

そこでキング牧師は事実上、彼らに自分たちの重要な部分…生活するうえでの核となるものを取り戻させたのです。そんなときのキング牧師の声は、彼の声であると同時に彼ら黒人群衆それぞれの声でもあったのです。そう彼は、ノーベル賞受賞者*¹³になるべき運命にあり、彼の世代における最も重要な黒人指導者だったのです。

そんな彼の声を私が初めて聞いたとき、彼はたったの27歳です。

dr king speaks on the phone, 1961
Express Newspapers//Getty Images
電話で話すキング牧師、1961年。

キング牧師の遺産:
人種差別と闘い、アメリカ社会を変革した方法

キング牧師は人種差別に対して、道徳的正当性がないことを暴きます。そうしてアメリカ社会における、人種隔離に関する法律の廃止への道を切り開いたのです。これは彼の偉大なる業績でしかありません。

公職に就くこともなく、しかも、アメリカの大多数である白人中産階級が脅威に感じることのないやり方でこれを成し遂げたことは、彼の活動家であり道徳主義者でもある絶大なる手腕の表れでもあります。実際彼は、白人中産階級の人々から向けられる厳しい視線に対し、彼ら自身が抱く信仰のなかでも中核にあるものを掲げてみせたのです。そしてそれを、それぞれに道徳的判決を下すような形で行ったのです。

今日、アメリカで私たちが直面している人種問題とは異なり、当時は限りなく複雑です。現在は北部であれ南部であれ、アメリカのどの都市にもマーティン・ルーサー・キング大通りがあっておかしくない状況です。それにかつては敵だった者も、選挙に立候補すれば口はばかることなくキング牧師の名を口にもしています。

しかし、忘れてはなりません。彼が先頭に立ったこの運動が始まったときにの南部では、黒人たちは水飲み場で水を飲むこともできなかったのです。南部のバスでは、ほとんどの座席に座ることもできず、ウールワース百貨店ではランチカウンターで食事することもできなかった…さらには、ハイウェイ沿いのどの施設で男子トイレを使うこともできなかったのですから。黒人たちはこれらのことができなかっただけでなく、道徳的にも法的にも、そのような「普通の行為をする価値すらない」と判断されていたのです。


キング牧師の軌跡:
南部の地から全米へ、人種差別に立ち向かったリーダーの姿

キング牧師が正真正銘の南部生え抜きのリーダーとして、つまり、南部の地に生まれ育った南部の申し子として登場する以前は、長らく南部の黒人の間には先導力を示す人物はほとんど登場していませんでした。

どんなに成功した黒人でも、何らかの仕方で白人の権力構造の恩恵にあずかっていない者は稀(まれ)だったのです。葬儀屋(商売はいつも繁盛していました)、医者、歯医者は成功していましたし、白人の圧力からも比較的自由でしたが、そこにはリーダーシップはほぼありませんでした。

もちろん、昔ながらの説教師もいて、彼らにはそれぞれ信奉者もいました。ですが、かつては教育も満足に受けられませんでしたし、何よりも彼らは、黒人コミュニティの感情的な安全弁となることで機能していたのです。多くの場合、当時の説教師たちは信徒たちにのしかかるのと同じ疑念を背負い込んでいることも珍しくなかったのです。

しかし、キング牧師はそんな彼らと違いました。彼は新しい世代の南部の黒人を代表する、若きプリンスそのものだったのです。南部のどこへ行っても誰もがキングの父親と祖父のことを知っていましたし、個人的な知り合いでなくとも、少なくともその評判で黒人たちの間では認識されていた存在だったのです。

なにより彼は、高い教養を身に着け自信に満ちていたのです。北部の名門大学に通い、博士号まで取得します。そして、その過程で白人が自分より優れているわけでもなく、また賢いわけでもないこと。さらに、道徳心があるわけでもないことをそこで確認していたのです。その後、彼は自身と同様に誇り高く、自信に満ちあふれた教養の高い黒人女性と結婚もしました。

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Bettmann//Getty Images
1955年12月の事件バスで逮捕されたローザ・パークスの裁判のあとの若き日のキング牧師、1956年

「われわれ(黒人)誰もについて回る自分自身との葛藤が、マーティンにはなかった」と、ジェイムズ・ボールドウィン*¹⁴は以前書いていました。しかしながら、キング牧師のような人間は、彼ひとりではなかったのも事実です。当時の南部に住む白人たちにも、そのことは分かっていたはず。周囲には、才能に恵まれ十分な教育を受け、全く恐れを知らない新しい世代の若き黒人牧師たちが南部で台頭していました。とは言えキング牧師は、その中で最も目立つ存在であったのは確かです。

1955年12月に、アラバマ州モンゴメリーの市営バスに乗車した黒人女性が黒人優先席に座りながらも、「運転手の座席指定に従わなかった」という理由で逮捕された事件で端を発した抗議運動、いわゆるモンゴメリー・バス・ボイコット事件*¹⁵において彼がリーダーとなっていました。

このことにより、キング牧師の名もその地域から徐々に全国規模で知れわたるようになりました。そして、モンゴメリーの人種隔離主義者が抵抗すればするほどキングの説教壇は大きなものとなり、彼の名もますますアメリカ全土に知れわたるようになったのです。


キング牧師の戦略:
テレビを活用した政治活動と影響

キング牧師は、短期間に多くの重要な成果を達成しました。最も顕著な成果の一つは、虐げられた南部の黒人たちに自分たちの価値を認識させることでした。もう一つ重要な成果は、南部の白人キリスト教徒たちに彼らの信仰と向き合わせること。これらの白人キリスト教徒は、アメリカで最も宗教に熱心な層の一つだったのです。

黒人と白人キリスト教徒への影響

キング牧師はまず一世代の白人牧師たちの心を動かし、これらの牧師が自らの教会の信徒たちと向き合うよう促しました。キング牧師は教会の人間であると同時に、広い意味で政治的な人物でもあったのです。

キング牧師と同様にジョン・F・ケネディも、政治においてテレビを巧みに利用した最初の人物でした。ケネディは政界においてキング牧師よりも一歩先を行っており、白人であり、やがて第35代大統領となりました。キング牧師が活躍した1956年のモンゴメリー・バス・ボイコット事件から1963年のワシントン大行進までの期間は、アメリカの家庭にテレビが普及し始めた時期とほぼ重なります。この期間、テレビは政治の新たなチャンネルとして最適なものだったのです。

キング牧師が活動を始めた当初、真の意味でネットワークと呼べるものは存在しませんでした。ですが、彼の偉大な功績を達成した頃には、テレビを政治的な手段として利用することが、アメリカの政治生活の一部として広く受け入れられるようになっていました。

キング牧師はメディア戦略の達人

キング牧師は他の多くの人々がそうするように、ジャーナリストの機嫌を取ることや、報道関係者個々の個性に迎合すること、または報道関係者と取材対象者との間で大切にされる疑似的な親近感を生み出すことなどには興味を示しませんでした。事実彼は、メディア関係者に対してこびることは得意ではなく、常に少し堅苦しく、近寄りがたく、そして厳格すぎるほどでした。

代わりに彼は、記者たちに二つの魅力的な要素を提供していました。その一つは、現在進行形の高度な対話であり、もう一つは、彼の口にするセリフがほぼ完璧な悪役と化していたということです。これらの要素は、メディア関係者なら誰もがあらがいたい魅力だったのでしょう。

この点においてキング牧師は、単に人を操作することに長(た)けているというレベルを超えていました。彼はテレビ時代のアーサー・ミラーやテネシー・ウィリアムズと並ぶ、20世紀中盤のアメリカにおける偉大な脚本家だったのです。配役も見事でした。貧困にあえぐ黒人が正義の味方(ホワイト・ハット)として描かれ、白人の警官たちは敵役(ブラック・ハット)とされました。彼は自らの敵役を慎重に選び出し、これらの悪役に目新しさのない言動と粗暴さをあらわにさせたのです。

キング牧師とメディア:
人種隔離を暴く戦略

キング牧師は公の役職に就くことなく、社会の権力構造を上手に使って、社会が実際にどう動いているか、そしてそれがどれだけの人々に犠牲を強いているかを人々に見せました。簡単に言えば、キング牧師は、いつも私たちの目には見えないが、実は存在している「人種隔離」という問題を引き出しました。

彼はその問題を解決したわけではありませんが、問題をみんなの前に提示し、みんながその存在を知れるようにしたのです。警察犬や放水ホースなど、人種差別を維持するために使われていた手段を人々が見て、問題が自然と解決するように導きました。

つまり、キング牧師は私たちが普段見ることのない人種差別の問題を、みんなが見えるように表に出しました。彼は力や暴力で問題を直接解決しようとはせず、代わりに問題を公にして、それを使っていた人たちが自分たちの行動を見直すよう導きました。

運動が始まって数年間、キング牧師にすばらしい勝利をもたらしました。彼が人種隔離の道徳的な正当性を打ち砕くにつれて、その法的基礎も崩壊し始めまたのです。

キング牧師はメディアをうまく使って、人々に重要なメッセージを伝えました。彼のやり方を観ていると、テレビがどれほど政治に影響を与えるかがよくわかります。私は、キング牧師の行動は完全に正しかったと確信しています。実は、それ以前は白人たちがメディアを支配し、自分たちの意見だけを広めていました。南部では、テレビ局や新聞は全て白人が所有しており、長い間、黒人の声や抗議は無視され続けました。

多くの重要な話し合いや市長、警察署長、判事などからの電話も、南部のメディアは一切報道していませんでした。白人たちは新聞に何を書くべきか? 何を避けるべきか? 地域で起こる抗議行動にどう対応すべきか?を指示していたのです。そうしてこれらの抗議行動は報道されなかったため、まるで存在しなかったようでした。キング牧師が直面していたこのような白人によるメディアの操作は、南部のほとんどの町や都市で、ひっそりと行われている大きな陰謀のようでした。

march against fear
Archive Photos//Getty Images
1966年6月9日、ミシシッピ州ジャクソンにて行われた、「恐怖に対する行進」*¹⁶をキング牧師が指揮しているところ。

キング牧師:
公民権運動の変遷

公民権運動の初期数年間、キング牧師は人種隔離という不正に対して道徳的な勝利を重ねてきました。彼の強力な信念と行動は、アメリカ南部で広く受け入れられていた人種隔離の法的な根拠を崩壊させ始め、1964年の公民権法成立に大きく貢献します。この時期のキング博士の強さは、彼自身のの揺るぎない信念の賜物(たまもの)と言えるでしょう。彼が信じるアメリカの本質的な善良さを、他の人々にも信じさせるパワーを擁していたのです。その瞬間こそ、彼のビジョンが現実となった瞬間でした。

ですが、キャリアの後半に北部で活動を始めたときには、キング牧師は過酷な時期を迎えます。そう、彼の影響力は低調になってしまいます。北部の問題はより複雑で、法的や政治的な不平等ではなく、長年にわたる不公正が社会の一部として定着し、固定化した社会階層の増加という形で現れていました。南部で彼を支えた教会に通う黒人コミュニティは北部にはいません。代わりにキング牧師の前に現れたのは、厳しい状況に置かれた、疎外された黒人の若者たちだったのです。

彼らは「自分たちの未来が暗い」という事実を強く認識し、提供される仕事が限られていることも十分に理解していたのです。また彼らは愛や善、非暴力、イエス・キリストの教えがその状況を変えてくれるとも信じてはいませんでした。彼らはどちらかと言えば、マルコムX*¹⁷の考えに共感していたのです。

北部でキング牧師が直面したのは、こうした課題でした。この段階でキング牧師の運動は、人種間の不平等に対処するための新たなアプローチを模索していたのです。北部での経験は、彼にとって多くの挑戦をもたらしましたが、公民権運動の多様性とその適応性の重要性をキング牧師に気づかせました。

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Michael Ochs Archives//Getty Images
1967年、カリフォルニア大学バークレー校で講演するキング博士。

キング牧師の晩年と
公民権運動の転換点

1967年春に私がキング牧師に会ったとき、彼はベトナム戦争に反対していました。この立場はワシントンの協力者だけでなく、従来の公民権運動の支持者たちからも彼を遠ざけました。北部の都市では、異なるグループの組織化に成功は限られていました。南部での「法的な人種隔離」という明確な敵はなくなり、北部では問題の複雑さが黒人指導層の分裂を招いていました。

キング牧師は北部の問題を「スラム病」*¹⁸と表現しました。彼は悪い仕事、教育、家庭環境が重なり合い、連鎖する構造を指摘しました。北部での演説も続けましたが、以前のような聴衆との一体感は失われ、彼の内なる疑念も深まっていたように感じられました。反響も以前ほどではありませんでした。

キング牧師は賢明な策略家であり、自分がある時代の終わりに至ったこと、そしてアメリカが穏健なクリスチャンにとって厳しい時代に入ることを理解していたと思われます。彼の生涯と運動は、公民権の歴史において重要な転換点を示しています。

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Bettmann//Getty Images
キング博士とその家族、1960年。

キング牧師と私の出会い

このころ 私はキング牧師についての作品を執筆していました。そのための取材旅行から帰宅し、作品を完成させたとき内容には満足していましたが、キング牧師のことを完全には理解できていないと感じていました。彼は個人的には近づきがたい雰囲気でしたが、公の場ではいつも控えめで品がありました。

彼は軽い会話や笑いが、彼自身や運動の尊厳を損なうと考えているようでした。このような態度から、若い世代の活動家たちには“ドゥ・ロード*¹⁹”というあだ名をつけられることになります。

アトランタでの再会

私はもっと彼について知りたいと思い、アトランタへ向かいました。アンディ・ヤングが私を、キング牧師が家族や友人とリラックスして過ごす場所へ連れて行ってくれました。そこでは、キング牧師がより人間的な一面を見せてくれました。彼の幼い娘が膝を痛めた時、彼は優しく慰め、冗談を言って笑わせました。この日は、キング牧師が公の場とは異なる、プライベートな姿を見ることができた貴重な機会でした。

その場には『エボニー』誌*²⁰のカメラマンもおり、キング牧師とその友人たちが次号の特集のために撮影されていました。この撮影は、キング牧師が逮捕された際に保釈金を支払ってくれた請負業者への感謝の意を表すものでした。その日の思い出は、南部の文化、中流階級の生活、そしてアメリカの価値観を象徴するものでした。

この経験を通して、キング牧師の公のイメージと私生活のギャップを理解することができました。彼の運動における重要性と、個人としての謙虚さが、彼を偉大なリーダーにしていることを学びました。 


[脚注]

*1:公民権運動 1950年代後半から60年代前半に活発となった、アメリカにおけるアフリカ系アメリカ人の基本的人権、公民権の適用と人種差別の解消を求めて行った大衆的な社会運動要求する運動。

*2:リトルロック高校事件 1957 年に、アーカンソー州都リトルロックのリトル ロック・セントラル・ハイスクール にて、アフリカ系アメリカ人生徒9名の入学に白人たち が反対し、学校と州、国家が対立した事件。 州と連邦が対立する過程で、州兵と連邦軍まで投入されている。当時の様子は、映画『グリーンブック』でうかがえる。

*3:ランチカウンター 一般的には、飲食店やカフェなどの店内にあるカウンター状の席。1950年代初頭には、アメリカ南部ではジム・クロウ法(Jim Crow laws)などにより、白人と非白人(主にアフリカ系アメリカ人)の分離が法律で定められていました。そのため、ランチカウンターもその一環として白人用と非白人用が分けられていたのが一般的でした。そうして公民権運動が盛んになると、その差別の代表的な場所とされるランチカウンターにおいて、非白人は差別されることに対しての抗議を行いました。これは、「sit-in movement(座り込み運動)」としても知られている。

*4:参照 アメリカンセンター「公民権による声明」より

*5:1963年8月28日のワシントン大行進の最後になされたキング牧師による有名なスピーチ「I Have a Dream(わたしには夢がある)」の演説での最後の部分からの引用。これは黒人霊歌『Free at Last』からの一節でもある。

*6:David Halberstam (1934年生~2007年) アメリカのジャーナリスト。1964年にベトナムを巡る報道により、ピュリツァー賞を受賞している。

*7:“The Tennessean” テネシー州ナッシュビルの発行される日刊紙 公式サイト

*8:Wilma Glodean Rudolph (1940年生~1994年)は、アメリカの陸上競技選手。1956年のメルボルンオリンピックでは女子4 × 100mリレーで銅メダル、1960年のローマオリンピックでは女子100mと女子200m、そして女子4 × 100mリレーで三つの金メダルを獲得。

*9:coed:Coeducation(男女共学)”を略した言葉。また、男女共学における女子学生を指す。

*10:revival meeting 「伝道集会」と訳し、「信仰復興伝道集会」とも言われる。アメリカのキリスト教会で1740年頃から「大覚醒」と呼ばれる信仰復興の運動が高まり、信仰と回心のため数多くの集会が開かれたのが起源で現在まで続く。外部から牧師などを招き数日間かけて行われることが多い。

*11:social gospel 「社会的福音」と訳し、19-20世紀のプロテスタント教派内における社会運動のこと。それまで福音は個人の救いに関わるものだったが、貧困や不平等といった社会的諸問題にもキリスト教の教えを適用して理解しようとするもの。

*12:Black-pride(ブラック・プライド) アフリカ系アメリカ人が自身の文化を祝い、アフリカの伝統を受け入れることを奨励する運動。特に公民権運動の最中に、白人の人種差別に対する直接的な反応がこれである。ブラックパワーの考えに由来するこの運動は、人種的誇り、経済的権限付与、政治的および文化的制度の創設を強調していた。

*13:キング牧師は1964年に、当時としては史上最年少の35歳でノーベル平和賞を受賞する。

*14: James Arthur Baldwin(1924年生~1987年没) アメリカの小説家、著作家、劇作家、詩人であり、随筆家および公民権運動家でもある。代表作には、『Go Tell It on the Mountain(邦題:山にのぼりて告げよ)』(1953年)、『If Beale Street Could Talk(邦題:ビール・ストリートに口あらば)』 (1974年)がある。特徴としては、黒人を差別する白人を憎むのではなくむしろ、「黒人側が憐(あわれ)みの心をもって受け入れなければならない」と主張。また、同性愛者であることに関連したテーマを多く扱い、公民権運動ではキング牧師とともにワシントン大行進も行っている。

*15:Montgomery Bus Boycott(モンゴメリー・バス・ボイコット事件) 1955年12月、アラバマ州モントゴメリーでの公営バス内の人種分離席に座った黒人女性ローザ・パークスが白人運転手によって逮捕される事件が発生。その後、ローザ・パークスの拒否行動に触発された黒人コミュニティが結束して若きキング牧師の指導の下、平和的な抗議としてバス・ボイコット運動を開始。この運動によって黒人乗客が大多数を占めるバスの利用を拒否することで、モンゴメリー市に経済的な打撃を与えることに。黒人の多くが家族への脅迫や暴力に苦しみながらも運動は続けられ、1956年11月に連邦最高裁がモンゴメリーの人種隔離政策を違憲と判断。そうして運動は、1956年12月に公式に終了した。参照はスタンフォード大学マーティン・ルーサー・キングJr.研究教育研究所のページ

*16:The March Against Fear ミシシッピ大学に入学する初めてのネイティブ・アメリカンとアフリカ系アメリカ人学生となったジェームズ・メレディス。その入学は当時のロス・バーネット州知事に反対され、大学校内で暴動「Ole Miss riot of 1962(ミシシッピ大学暴動=メレディス事件)」が起き、当時のジョン・F・ケネディ大統領の要請で連邦軍が派遣される事態に。そして1966年に、テネシー州メンフィスからミシシッピー州ジャクソンに向けて、人種差別撤廃を訴えるために行った行進を始めるが、行進開始の翌日に散弾銃により狙撃されてけがを負うことに。その後の行進はキング牧師など他の多くの黒人運動家に引き継ぎ、その後の公民権運動のモチベーションをさらにアップさせた。参照はスタンフォード大学ライブラリーのページ

*17:Malcolm X(1925年~1965年) アフリカ系アメリカ人の公民権運動家。彼はイスラム教ネーション・オブ・イスラム(NOI)のスポークスパーソンとして活動し、アフリカ系アメリカ人の自尊心回復と自立を訴える。彼は「黒人による黒人のための」経済的および社会的自立を強く推し進め、非暴力を主体としたキング牧師のアプローチとは一線を画していた。1964年にNOIを離れた後は、人種間の兄弟愛を説きつつ、自己決定と自立の重要性を強調し続けるが、1965年に暗殺されることに。参考ウェブ記事は「Britannica」より。

*18:slumism アメリカ北部の都市部での複雑な社会問題。悪い仕事、教育の質の低さ、そして貧しい住環境が重なり合い、これらが連鎖することで社会的、経済的な不平等が深まること。キング牧師はこれらの問題に取り組むことの重要性を説き、北部でも公民権運動の活動を展開したが、南部のような一体感を得ることは難しく、彼の運動は多くの挑戦に直面することになった。

*19: de Lawd ”主よ卿“とでも訳しうる揶揄(やゆ)の呼称。名字に付くdeは、しばしば貴族身分であることのひとつの印となる。Lawdはlordと同じでイエス・キリストを表す。GodやJesusにも似た用法があるが、lawdも間投詞として興奮や嘆きなどを表す言葉として使われる(「主よ!」「なんてことだ」など)。キング牧師の自分たちとは異なる宗教性や言葉使いなどを揶揄してつけた呼称と思われる。

*20:Ebony 1945年創刊のアフリカ系アメリカ人向けの月刊誌。公式サイト

Translation: Miyuki Hosoya
Edit: Keiichi Koyama

From: Esquire US