ザ・バーズによる『ミスター・タンブリン・マン(Mr. Tambourine Man)』の大ヒットによって、フォークロックなる名称が大きくクローズアップされた1965年。この年の12月、ロサンゼルスにおけるカウンターカルチャー時代の到来を告げるかのような曲がリリースされました。ロサンゼルスで結成されたママス&ザ・パパス(The Mamas & the Papas)のデビューシングル、『夢のカリフォルニア(California Dreamin')』です。
この曲は、メンバーであるジョン&ミッシェルのフィリップス夫妻が、ニューヨークで生活していた時代に書かれたナンバーで、66年1月にチャートインした後、17週にわたって全米トップ100に残り、最高位で4位を記録する大ヒットとなりました。
同年2月にリリースされたデビューアルバム「If You Can Believe Your Eyes & Ears」は全米アルバムチャートの1位に輝き、リードシングル『カリフォルニア・ドリーミン』とともにこのアルバムに収録されている『マンディ・マンディ』もシングルチャートの1位を記録するなど、ママス&ザ・パパスは上々のスタートを切ります。
そんな彼らもまもなく、ローレル・キャニオンへ移り住むことになります。
中でも“ママキャス”ことキャス・エリオットは、ここで暮らすミュージシャンたちの“ママ”のような存在となり、多くのミュージシャンたちのボヘミアンな音楽コミュニティを舞台とした生活と音楽活動に影響を与えました。CS&N(Crosby Stills & Nash=クロスビー、スティルス&ナッシュ)の結成など、エポックメイキングな出来事の立役者となっていくのです。
|夢のカリフォルニア
ママス&ザ・パパスのメンバーたちは、それぞれがニューヨーク周辺を中心にフォークグループとして活動していました。デニー・ドハーティとキャスは当時のバンドメンバーで、ジョン・フィリップスとはそのときからの顔見知りでした。フィリップス夫妻とデニー・ドハーティで新しいグループを結成することになり、最後にキャスが加わってママス&ザ・パパスが誕生します。
キャスの加入には、ロサンゼルスの音楽業界で敏腕プロデューサーとして活躍するルー・アドラーの強い後押しもありました。そしてママス&ザ・パパスは、ルーが共同経営者を務めるダンヒルレコードと5000ドルの前金とともに、「5年間、年2枚のアルバムを録音する」という条件で契約を交わします。
『If You Can Believe Your Eyes & Ears』
そうしてデビュー後はヒット作が続き、1stアルバムもチャート1位に輝きます。続いてシングル2作目となる『マンデイ・マンデイ(Monday Monday)』はグラミー賞を獲得。まさにスター街道まっしぐらでしたが、ママス&ザ・パパスの内部はトラブル続きでした。ジョン・フィリップスの妻ミッシェルはドハーティと不倫関係が続き、キャスはドハーティに片思い…といった具合で、バンドの内部では内輪揉めが絶えませんでした。
結局、妻ミッシェルとドハーティの不倫を夫のジョンは認めることとなり、ジョンとドハーティはこの状況をテーマに「アイ・ソー・ハー・アゲイン(I Saw Her Again)」という曲を共作。この曲もチャートを駆け上がり、全米ヒットチャート5位を記録します。
『I Saw Her Again』
ママス&ザ・パパスは瞬く間に成功を手にし、フィリップス夫妻とドハーティはローレル・キャニオンのルックアウト・マウンテン通りに住み始めます。キャスもローレル・キャニオンに根を下ろし、ウッドロウ・ウィルソン・ドライブにかつて女優のナタリー・ウッドが所有していた広大な土地を購入し、邸宅の改装工事を行いました。
その後、このキャスの家はローレル・キャニオンで暮らすミュージシャンたちのサロンとして機能するようになり、多くのミュージシャン同士の出会いの場に、時にはセッションの場に、そして時には作曲のインスピレーションの場にもなりました。「いつ来ても構わないけど、来る前に電話してね」、キャスはいつもこう言っていました。
キャス・エリオットは気風が良く育ちの良い女性で、頭の回転も早く、ユーモアのセンスにも優れていました。男女隔たりなく友人たちと親しい関係を築いていました。
才能とエゴにあふれたローレル・キャニオンの若いミュージシャンたちに対してキャスは気さくに家に招き入れ、食事やドラッグ、音楽、そして友情を共有できる中立の立場を維持しました。“ママキャス”という芸名は演技ではなく、彼女はまさに頼りになる“渓谷の母親”だったのです。
しかも、キャスの直感は実に見事で誰と誰が相性がいいか、誰と一緒に仕事をすべきか、誰と一緒に歌うべきか、そういったチャンスを知る上で他のミュージシャンにとっては重要な存在でした。 クロスビー、スティルス&ナッシュのメンバーの一人、スティーブン・スティルスは次のように振り返ります。
「トルバドゥールで久しぶりにキャスに会ったら、『3人目のハーモニーが必要じゃないの?』って訊かれたんだ。すると数日後に、デヴィッド・クロスビーから『ギターを持ってキャスの家に来い』っていう電話が来たよ。それでキャスの家に行ってリビングルームに入ると、彼女にグラハム・ナッシュを紹介されたのさ。『歌ってみて!』ってキャスが言うから、仕方なく軽く3人でハモってみたら、これが最高でね。この出会いが僕らバンドの全ての始まりさ」
ヒット連発でスターとなったキャスは、ローレル・キャニオンのアイコン的な存在となり、全米のみならずイギリスのロック・ミュージシャンたちもキャスを訪ねてローレル・キャニオンにやってくるようになります。ママス&ザ・パパス、CS&N、イーグルス(Eagles)などの有名なジャケット撮影をした写真家のヘンリー・ディルツ氏の作品に、実に印象的な写真があります。彼はこう語っています。
Eric Clapton meets Joni Mitchell @ Cass Elliot’s House by Henry Diltz
「キャスはローレル・キャニオンの自分の家に、人を集めるのが大好きでね。TV番組の収録で偶然出会った孤独そうなイギリス人に声をかけたんだ、“うちにいらっしゃい ”ってね。それは当時まだL.A.に誰も知り合いのいなかった、エリック・クラプトンだったというわけさ。キャスは彼のために、裏庭でピクニックを催したんだ。
そのとき彼女はデヴィッド・クロスビーを招待し、デヴィッドはジョニ・ミッチェルを連れて来て、それにモンキーズのミッキー・ドレンツもやって来たな…。ジョニが不思議なオープンチューニング(通常のギターは6弦から順にE→A→D→G→B→Eに調律するところ、典型的なところで言えば指で弦を押さえていない状態の開放弦で鳴らしたとき、GコードやDコードなどの長和音になるようにする調律法)でアコースティック・ギターを弾き始めると、エリックは右手にタバコを挟んで、不可解な表情で彼女の指を真剣に見つめているんだ。するとキャスは俺にこう言ったんだ、『いつだって音楽は私の家で起こるの。これが私の喜びなの』ってね」
|キャスとの突然の別れ
ママス&ザ・パパスは1968年に、事実上の活動を停止します。その後キャスはソロ活動で成功を収め、アメリカやヨーロッパをツアーで巡りました。そしてこの頃には、キャスに世話になったクロスビー、スティルス&ナッシュやジョニ・ミッチェルもメジャーデビューを果たし、大成功を掴みかけていたのです。その中の一人グラハム・ナッシュは、当時をこう振り返っています。
「キャスは心の広い女性でね、人間として本当に惹かれたよ。そして彼女はミュージシャンがいかにクレイジーで、そして壊れやすいかをよく理解していたんだ。キャスとの出会いがなかったたら、妻のスーザンに出会うこともなく、結婚して子どもを持つこともなかったと思うよ。僕らのバンド、クロスビー、スティルス&ナッシュもなかったかもね。彼女に出会わなかったら、僕の人生はどうなっていたかわからないなさ…」
キャスは1974年7月29日、チケットがソールドアウトとなったロンドン・パラディアムでの公演を終えた後、ホテルで睡眠中に心筋梗塞で他界してしまいます。32歳でした。彼女の通夜はビバリーヒルズ・ホテルのポロ・ラウンジで行われ、多くのミュージシャン仲間やプロデューサーのルー・アドラーなどが参列しました。
それでは次回は、東海岸からローレル・キャニオンに移住してきたカナダ人シンガーソングライター、ジョニ・ミッチェルを中心に紹介します。
*連載4回目「ローレル・キャニオンの記憶|4_ジョニ・ミッチェルの到着 」へと続きます*