ヘンリー・ディルツさんは、ジャーナリスト側のフォトグラフーではなく、常にミュージシャン側のフォトグラファーでした。それが彼の強みでもありました。彼自身がミュージシャンだったことも大きな要因ですが、ミュージシャンとのこの関係性はローレル・キャニオンでの生活が触媒になったことは間違いないでしょう。彼らはみんな仲間たちだったのです。

人当たりが良く、おおらかでユーモアのあるディルツさんの人柄に、ミュージシャンたちは居心地の良さを感じていました。多くのローレル・キャニオン在住のミュージシャンたちのマネージメントを手掛けた「ゲフィン・ロバーツ・マネージメント」の仕事のほとんどは、彼がこなしていました。

ディルツさんの名前はさらに知られるところとなり、ポール・マッカートニーやローリング・ストーンズ、ブルース・スプリングスティーンなど、多くのビッグネームたちから撮影のオファーが舞い込むようになっていきます。

今回は前回に続き、ヘンリー・ディルツさんへのインタビューの後編です。


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1970年5月にリリースされたドアーズの5枚目のスタジオアルバム「モリソン・ホテル(MORRISON HOTEL)」。全米アルバムチャート4位を記録し、グループで最も売れたアルバムとなりました。ジャケットの撮影はL.A.のダウンタウン、サウス・ホープ・ストリート1246番地にあった「モリソンホテル」で行われました。
ドアーズの「モリソン・ホテル」のジャケットも印象に残る写真ですが、あれはジム・モリソンのアイデアだったのですか?

ヘンリー・ディルツ(以下ディルツ):ある日、彼らから「アルバムジャケットを撮影して欲しいんだ」という電話をもらいました。その後の打ち合わせで、「アルバムタイトルやジャケットのイメージは決まっているのか」って聞くと、「何も決まっていない」と…。

しばらく沈黙が続いたのですが、キーボードのレイ・マンザレックが「そうだ、先日妻のドロシーとL.A.のダウンタウンをドライブしていたときに、モリソンホテルという古いホテルを見かけたよ」と話し始めてね。

すぐに僕たちは、フォルクスワーゲンのバンに乗り込んでそのホテルに向かい、到着してひと目見ただけで「これだ! これはいいジャケットになる」って直感しました。この日はジム・モリソンとレイ・マンザレックが窓のところにある椅子に座っている写真を、何枚か撮りましたね。

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Mark and Colleen Hayward//Getty Images

撮影本番は1週間後でした。午前中にドアーズのメンバーたちと一緒に撮影現場に行って、早速撮影に取り掛かろうとすると、フロントデスクにいた男性がやって来て「ここは撮影禁止だ。撮影するならオーナーの許可が必要だけど、あいにく彼は今出張中だよ」と言うんです。当時は撮影許可なんて、考えたこともなかったですからね。

一旦は外で撮影しようと思ってホテルを出たのですが、間もなくその男性がフロントデスクを離れたので、メンバーたちにすぐに中に入ってもらって、彼らが所定の位置に着いたところで大急ぎで撮影しました。だから5分かそこらの、ゲリラ撮影というわけですよ。その後ジムが飲みに行こうっていうので、数ブロック離れたバーに行って、この日の午後はビールを飲んで過ごしました。良い思い出です。

今までに、約200枚に及ぶアルバムのジャケット撮影を手掛けてこられましたが、一番気に入っている作品はどれですか?

ディルツ:200枚というのはCDジャケットを含めた枚数で、デザイナーのゲイリー・バートンと組んで手掛けたアナログ盤時代のアルバムジャケットは、80枚ほどです。CDになってから新たにリリースされたベスト盤とかライブ盤にも、僕の写真が使われていますからね。

一番気に入っている作品ですが、個人的にはジェイムス・テイラーのアルバム「スウィート・ベイビー・ジェイムス」のジャケット写真ですね。彼のマネージャーだったピーター・アッシャーが私に電話をかけてきて、「宣伝用の写真が必要なんだ。白黒のパブリシティショットを撮ってくれ」って言うんです。それで私はピーターの家に行って、床に座ってギターを弾いているジェイムスの写真を数枚撮りました。この写真は、私が撮ったポートレートの中で一番気に入っているものです。

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1970年にリリースされたジェイムス・テイラー2作目のスタジオアルバム「スウィート・ベイビー・ジェイムス」。全米ヒットチャート3位を記録しました。
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Henry Diltz
ディルツさん自身が最も気に入っているポートレート。ジェイムス・テイラーのマネージャー宅で撮影されたものでした。

実はジャケットに印刷されたカラー写真は、ワーナーブラザーズのアートディレクターがトリミングしたもので、この写真はトリミングなしの私が撮ったままのほうが素敵だと思いますね。この撮影を行った頃のジェイムスは住む所がなくて、知り合いのミュージシャンたちの家を泊まり歩く宿なし生活だったんです。

写真を撮るときに心がけていることを教えてください。

ディルツ:僕は写真学校で写真を学んだわけでもなく、写真家になりたいと思ったわけでもないですし、自分が写真家だと思ったこともありません。ただ、自分の周りにいる仲のいいミュージシャンたちを、―これは大切なことですが― ”視覚的かつ直感的”に記録してきただけです。

結局は、人が好きなんでしょうね。だから彼らの自然な表情を掴めるように心理学を勉強したんですよ。今まで撮影してきたミュージシャンたちは、みんな私のヒーローです。もちろん彼らの音楽も大好きです。私はラッキーでした、そんな人たちばかりを被写体にして撮影を続けてくることができたのですから…。

 
Johnny Nunez//Getty Images
自身の写真展で、ジミ・ヘンドリクスの写真の前でポーズを取るディルツさん。

撮影時に重要なことは、「直感的なフレーミング」です。絞り値やシャッター速度の設定などのちょっとした技術さえ把握すれば、あとはどうフレーミングして、カメラをどこに向けて、いつシャッターを押すのか…これらはすべて、内面的な自分の感覚です。

どのくらい近づくのか、それとも離れるのか…写真には何を入れて何を入れないのか…、そういったことの判断がとても重要で、私の場合はこれらのことが最初から偶然うまくいきましたし、とても簡単だったんですね。その直感的な撮影が受け入れられたから、今日まで続けることができたんだと思います。

ローレル・キャニオン時代を振り返ってみて、どんな思い出が残っていますか。

ディルツ:みんな家族みたいな存在でした。ミュージシャンもいたし、デヴィッド・ゲフィンやエリオット・ロバーツのようなクレバーなビジネスマンもいました。素晴らしい相乗効果がありましたね。私も「ゲフィン・ロバーツ・マネージメント」の仕事はほとんど全部やったんじゃないですかね。

ローレル・キャニオンの住人たちは、社内チームのようなものでね。みんなが知り合いで仕事がないときはそれぞれの家を行き来して、陽が暮れるとナイトクラブの「トルバドゥール」やあちこちで一緒に遊んだ仲ですよ。

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Hidehiko Kuwata
ヘンリー・ディルツさんのアトリエにある撮影した膨大な数のスライドを保管している棚。現在は専任のスタッフによるデジタルアーカイブ化が進められています。

しかし1969年に、ローレル・キャニオンの隣にあるベネディクト・キャニオンで、チャールズ・マンソン率いる狂信的なカルト集団が、残忍かつ猟奇的な「シャロン・テート殺害事件」を起こしました。そして1971年には、サンフェルナンド大地震もありましたね。以来、多くの住人が渓谷の急斜面での生活に不安を抱くようになって、ローレル・キャニオンの雰囲気も変わったのです。セキュリティ上の問題と自然災害の脅威からです…。

もちろん、現在でも暮らし続けているミュージシャンもいます。が、成功を手に入れたミュージシャンの多くは結婚して、家族ができて、そしてビバリーヒルズやマリブなどに移っていきましたね。

当時の僕は、仕事というよりも友人たちの写真を撮っていただけです。まさか彼らが後に、これほど有名になるとは思ってもみませんでした。当時はみんな駆け出しでしたからね…。彼らの写真を撮って、終わったら一緒にビールを飲むのが日課。ささやかですが楽しかった。そして、数年後に彼らの多くはスターになり、ジム・モリソンは若くして亡くなったことによりヒーローになりました。

今思い返せば、1968年から70年あたりがシンガーソングライターの全盛期で、ローレル・キャニオンでの生活が一番楽しい時期でした。家の鍵はみんな開けっぱなしで、実におおらかで豊かな生活。穏やかで平和な時間が流れていました。

  
JIM STEINFELDT//Getty Images

Interview Coordinate / Kaz Sakamoto, Mutsumi Mae


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screenshot from mhg

アメリカ・ロサンゼルス、ニューヨーク、マウイ にギャラリーを構え、膨大な数のミュージシャンたちの写真を扱うMORRISON HOTEL GALLERY(モリソン・ホテル・ギャラリー)では、オンラインでヘンリー・ディルツさんの作品も展示・販売を行っています。誰もが見たこともあるような有名な写真から、ミュージシャンたちのオフショットまで、時代を彩る作品が数多く掲載されています。