1971年のとある夏の午後、5人の男たちがローレル・キャニオンのサウナに座り込んで話し合っていました。甲高い声で話しているリーダー格の男は、前年にアサイラム・レコードを立ち上げたデヴィッド・ゲフィン。うなずきながら話を聞いているのは、ジャクソン・ブラウン、イーグルスのグレン・フライとドン・ヘンリー、そしてネッド・ドヘニーの4人です。ゲフィンはこう力説していました。
「僕はアサイラム・レコードを、小さなレーベルのままで存続させたい。所属するアーティストの数もこのサウナルームに入る程度で十分。僕はいつでもアーティストを守るつもりだ。アサイラム・レコードは、アーティストにとっての聖域でありたいと考えている」
彼はレコードレーベルの主宰やエージェントという立場から、ローレル・キャニオンに集うミュージシャンたちが名声を獲得していく過程で大きな役割を果たし、自身も巨万の富を築いていきます。それと同時に少しずつ、そして確実に、ボヘミアンなコミュニティであったローレル・キャニオンを包む空気にも変化が生じ始めます。
|週給55ドルから始まったアメリカンドリーム
1960年代中頃、大学を中退し、ニューヨークのCBSスタジオで案内係として働いていたデヴィッド・ゲフィン。彼はUCLA卒業と学歴を詐称して、タレントエージェシーのウィリアム・モリス・エージェンシーのメールルームの職に就きます。それは週給55ドルの仕事でした。
この職場で、後に重要なビジネスパートナーとなり、共にロサンゼルスで大成功を掴むエリオット・ロバーツと出会います。そして5年後には、軽く200万ドルを稼ぐエージェントになります。
ニューヨークで見つけた素晴らしい才能、ジョニ・ミッチェルと一緒にローレル・キャニオンへ移住し、ジョニに加えてクロスビー、スティルス&ナッシュのマネージメントを手がけることになります。そして、アトランティック・レコードからリリースされた彼らのデビューアルバムは大ヒットを記録。ゲフィンとロバーツは、ロサンゼルスで幸先のいいスタートを切ります。
Crosby, Stills & Nash『Suite: Judy Blue Eyes』
2人はゲフィン・ロバーツ・マネージメントという会社をつくり、ローレル・キャニオンの才能豊かなシンガーソングライターたちを次々にデビューさせます。まずは、ジャクソン・ブラウンです。ゲフィンはアトランティック・レコードからデビューさせようと、創設者であり当時の音楽業界の重鎮だったアーメット・アーティガンに売り込みます。しかし、アーティガンはさほど興味を示さずゲフィンにこう話します。
「そんなに彼を気に入っているのなら、君がレーベルをつくって契約をすればいいじゃないか」
その言葉を受けて、ゲフィンはロバーツと共同で1971年に自身のレコードレーベル、アサイラム・レコードを設立します。
1972年、ジャクソン・ブラウンはアサイラム・レコードからデビューアルバムをリリースします。シングルカットされた『ドクター・マイ・アイズ(Doctor My Eyes)』は全米ヒットチャートのトップ10入りを果たします。アルバムには後に彼の代表曲となる曲もあり、今も代表作の一つに数え上げられています。
Jackson Browne『Doctor My Eyes』
プロモーションツアーには、ゲフィン・ロバーツ・マネージメントと契約するジョニ・ミッチェルやリンダ・ロンシュタットも参加し、彼らと契約しているローレル・キャニオンゆかりのアーティストたちは、相乗効果で知名度を上げていきます。そしてゲフィン自身も、L.A.ミュージックシーンに確固たる立場を築いていきます。
|レーベルに集う豊かな才能たち
ジャクソン・ブラウンがデビューしたのと同じ1972年。後にゲフィン・ロバーツ・マネージメントに膨大な利益をもたらすグループが、デビューシングルを発表します。それがイーグルスです。リンダ・ロンシュタットのバックバンドから独立して結成された彼らは、リーダーのグレン・フライがジャクソン・ブラウンと共作したデビューシングル『テイク・イット・イージー(Take it Easy)』を5月に発表し、全米ヒットチャート12位に送り込みます。
翌月、デビューアルバム「イーグルス・ファースト(Eagles First)」を発表します。『テイク・イット・イージー』の他にも、このアルバムからは『ウィッチーウーマン(Witchy Woman:邦題『魔女のささやき』)|9位』、『ピースフル・イージー・フィーリング(Peaceful Easy Feeling)|22位』もシングルカットされ、アサイラム・レコードは初年度から大きな利益を上げます。
Eagles - 『Take It Easy』
アサイラム・レコードは、リンダ・ロンシュタットやJDサウザーなどとも契約し、売れっ子アーティストがそろっていきます。ですがその後、ゲフィンはアサイラム・レコードをワーナー・ブラザーズに700万ドルで売却します。
「正直、これで一生安泰だと思ったんだよね。でも、その後もアサイラム・レコードはヒットアルバムを連発して、1年後にレーベルの価値は5000万ドルに達した。売却したのは実に愚かな判断だったけど、決して後悔はしてないよ」
ゲフィンは当時を振り返って、こう語っています。アサイラム・レコードを吸収したワーナーは、所有していたエレクトラ・レーベルと合併させて1973年にエレクトラ/アサイラムを設立。ゲフィンはその会長兼代表取締役に就任して、1975年末まで務めました。
1975年までにゲフィンが契約した主なアーティストは、ジャクソン・ブラウン、イーグルス、ジョニ・ミッチェル、リンダ・ロンシュタット、トム・ウェイツ、JDサウザーなどの名が並びます。ゲフィンが策を練って実現した、1974年のボブ・ディランとの契約は大きな話題となりました。
これらのアーティストたちは70年代前半に売れに売れ、ウエストコースト・サウンドの黄金時代を築きました。彼らの名作と言われる作品の多くは、この時期にリリースされたものです。
数年前までローレル・キャニオンでボヘミアンな生活をしていたミュージシャンたちは、有名になるに従ってレコード会社からヒット曲を強いられるようになり、切れ目のないツアーとレコーディングに追いかけられました。彼らも大金を手にしましたが、代償としてビッグビジネスに飲み込まれてしまったのです。
|ローレル・キャニオンが迎えた落陽
1976年に発表されたイーグルスの傑作、『ホテル・カリフォルニア』の驚異的な成功はウエストコースト・サウンドのピークであり、崩壊の始まりを象徴するような1曲でもありました。
成功したミュージシャンたちはツアーやレコーディングに追われ、彼らの多くは年間を通じてわずかな期間しかロサンゼルスにはいません。アリーナやスタジアムを回る大規模なツアー、ビッグセールスで手にする巨万の富。サザンカリフォルニアの文化の中から生まれた肌触りのいい音楽は巨大なビジネスとなり、アーティストたちは次第に追い詰められていきます。
そういった時代背景を含めると、“そのスピリッツは1969年以降持ち合わせていません”という『ホテル・カリフォルニア』の印象的な歌詞が実に胸に刺さります。素晴らしかったサザンカリフォルニアの文化の退廃と崩壊を揶揄(やゆ)した、この時代を象徴する曲としても響いてきます。
Eagles『Hotel California』
さて、ゲフィンについてですが、1977年にガンと診断され引退をします。が、その後の診断技術の進歩によって誤診であることが判明し、1980年にゲフィン・レコードを設立して音楽業界に復帰。その後も彼のビジネスセンスは冴えわたります。
ジョン・レノンの遺作となったオノ・ヨーコとの共作アルバム「ダブル・ファンタジー」をリリースし、エアロスミスを復活させ、エルトン・ジョン、シェールなどのアルバムをリリースしました。
相変わらずゲフィンの才能を見出す能力は素晴らしく、1980年代にはガンズ・アンド・ローゼズを、1990年代にはニルヴァーナを世に送り出します。現在、ゲフィンはおよそ108億ドル(約1兆4582億円)もの純資産を持ち、エンターテインメント業界で最もリッチなセレブリティの一人として君臨しています。
それでは次回は、自身もローレル・キャニオンで活躍したミュージシャンであり、数多くのアーティストを撮影してきた写真家、ヘンリー・ディルツの『日本版Esquire』への単独インタビューをお届けします。
*連載7回目「ローレル・キャニオンの記憶|7_ヘンリー・ディルツが写した渓谷 」へ続きます*