1967年にザ・バーズを解雇されたデヴィッド・クロスビーは、フロリダ州マイアミの中心地から少し南下したところにあるココナッツグローブに滞在中、この街のコーヒーハウス「ガスライト・サウス」を訪れます。そして、そこにある小さなステージで歌っていた女性シンガーに衝撃を受けます。それがジョニ・ミッチェルです。魅力ある独自の世界観を持つジョニの自作曲は、デヴィッドの度肝を抜きました。

デヴィッドはすぐにジョニをロサンゼルスへ連れて帰り、彼女のファーストアルバム「ソング・トゥ・シーガル」をプロデュースします。サンセット・サウンド・スタジオで録音されたこのアルバムにはスティーブン・スティルスらも参加し、1968年3月にリリースされました。

古い本に書かれていたの。「ハリウッドで一番クレイジーな人々が住むのがローレル・キャニオン」って
― ジョニ・ミッチェル―
 
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カナダ出身のジョニはアメリカに移住し、1965年からツアー生活を続けていました。ですが、このデビューをきっかけにローレル・キャニオンに定住します。そして渓谷での生活から生まれた数々の素晴らしい楽曲で、まもなくローレル・キャニオンを代表するアーティストへと成長していくのです。


|恵まれた才能たちが集う瞬間

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Hidehiko Kuwata
ルックアウトマウンテン 8217番地にあるジョニ・ミッチェルが暮らした家。この4軒先にはエリオット・ロバーツが暮らした家があります。ジョニはこの家で多くの曲を書き、一緒に暮らしていたグラハム・ナッシュはこの家をモデルにして名曲「アワハウス」を書きました。

デヴィッド・クロスビー以外にも、ジョニの才能に魅了された重要な人物が2人います。それが後にロサンゼルスの音楽ビジネス界の重鎮として君臨することになる、デヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツです。共にニューヨークのエージェントで働いている時代にジョニの音楽に出会い、デビューアルバムの録音をきっかけに彼らもローレル・キャニオンの住人となりました。ゲフィンはジョニのエージェントに、ロバーツはマネージャーとなり、L.A.における彼らの音楽ビジネスのスタートを切ったのです。

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デヴィッド・ゲフィン。ソニック・ユースやニルヴァーナらを引き上げたゲフィン・レコードの創設者であり、映画プロデューサーでもあります。スティーヴン・スピルバーグらと映画製作会社ドリームワークスを設立しました(2008年に離脱)。
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1943 年ニューヨーク生まれのエリオット・ロバーツ(右。左はジョニ・ミッチェル)。ニール・ヤングのマネージャーを長く務めた人物としても知られています。

そして彼らはジョニをはじめ、ニール・ヤング、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y:Crosby Stills & Nash)、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタット、イーグルスなど、ローレル・キャニオンのミュージシャンたちを次々に世に送り出し、1970年代のウエストコースト・サウンド全盛期をつくり上げるのです。

ジョニは、ローレル・キャニオンに対してこのように話しています。

「1968年に初めてL.A.に来たとき、友人がフリーマーケットで見つけた古い本にこう書かれていたの…『カリフォルニアで一番クレイジーな人々が住んでいるのはL.A.で、L.A.で一番クレイジーな人々が住んでいるのがハリウッド。そしてそのハリウッドで、一番クレイジーな人々が住んでいるのがローレル・キャニオンだ』ってね。

そして、『そのローレル・キャニオンで、一番クレイジーな人々が住んでいるのがルックアウトマウンテン通りだ』と続くの。だから私は、ローレル・キャニオンのルックアウトマウンテンに3万6000ドルで家を買ったの」

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Jack Robinson//Getty Images

デヴィッド・クロスビーはジョニの家に入り浸り、スティーブン・スティルスを呼んでセッションしたり、キャス・エリオットの家に遊びに行ったりと、ローレル・キャニオンのコミュニティでの生活を楽しんでいました。1969年にホリーズを脱退してローレル・キャニオンにやって来たグラハム・ナッシュは、デヴィッド・クロスビーの家に宿泊します。するとデヴィッドはグラハムのためにパーティを開き、ジョニも招待しました。

ホリーズ時代にカナダのオタワでジョニに会ったことのあるグラハムはこの再会に大喜びで、意気投合した2人は瞬く間に恋に落ちました。パーティの後ジョニと一緒に家に帰り、ルックアウトマウンテンの彼女の家でその後2年間を一緒に過ごしました。その時代にグラハムが書いた名曲が、『アワハウス(OUR HOUSE)』です。

Crosby, Stills, Nash & Young - 『OUR HOUSE』

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Crosby, Stills, Nash & Young - OUR HOUSE (Joni Mitchell and Graham Nash fan video)
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『アワハウス』は、さりげないジョニとグラハムの日常生活の中から生まれた曲で、ジョニの家のリビングルームに置かれているピアノに向かって、グラハムは1時間ほどで曲を書き上げました。1970年にリリースされたCSN&Yの名盤「デジャ・ヴ(Déjà Vu)」に収録され、映画『いちご白書(The Strawberry Statement)』の挿入歌にも使われています。ちなみに映画の主題歌となった『サークルゲーム(The Circle Game)』はジョニ・ミッチェルがデビュー前に書いた曲です(映画では、カナダの歌手バフィ・セント=メリーが歌っています)。

 
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1960年代の学生闘争を描いた映画『いちご白書』。原著は、作家ジェームズ・クネンがコロンビア大学で体験した学生運動を記したノンフィクション作品。「アメリカン・ニューシネマ」ムーブメント作品の一つとして知られます。

ジョニはこの家で多くの曲を書き、1969年のアルバム「クラウド(Clouds)」(グラミー賞最優秀フォークパフォーマンスを受賞)、翌70年の初のゴールドアルバムとなる「レディズ・オブ・ザ・キャニオン(Ladies of the Canyon)」と立て続けに名盤を発表します。

この「レディズ・オブ・ザ・キャニオン」には、ローレル・キャニオンでの出来事や光景、出会いなどをモチーフにした曲が並び、自伝的な内容、そして明らかにグラハム・ナッシュをモデルにした曲など、実に奥の深い物語がつづられています。

Crosby, Stills, Nash & Young「Woodstock」

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Woodstock
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ジョニいわく、「自分は参加できなかったという喪失感からこの曲が生まれた」という『ウッドストック(Woodstock )』。CSN&Yで出演したグラハムにウッドストック・フェスティバルの様子を聞きながら、ニューヨークのホテルの部屋でジョニが書き上げたこの曲は、CSN&Yの『デジャ・ヴ』にも収録され、このバージョンはドキュメンタリー映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』のテーマ曲となりました。

|渓谷からの豊かな音色が鳴り止む時

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Jim McCrary//Getty Images
キャロル・キング(右)の大ヒットアルバムとなった「タペストリー(Tapestry=邦題:つづれおり)」収録中のスタジオを訪れたジョニ。この作品でバックグラウンドボーカルを務めました。

ある意味で、この時代のローレル・キャニオンが、ユートピアのようなコミュニティとしての絶頂期にあったのかもしれません。1969年以降、ローレル・キャニオンで暮らすミュージシャンが次々と成功を収めていきます。1970年代に入ると、ロサンゼルスのロックビジネスはますます肥大化し、高額の印税を手にするミュージシャンも増え、次第にローレル・キャニオンのボヘミアンなコミュニティにも変化の兆しが現れ始めます。

ジョニも初めて手にした結構な額の作曲印税で、メルセデス・ベンツ「280SE」を購入しました。曲づくりが大きなお金を生み出すとなると、今まで誰かの家に集まって聴かせ合っていたでき立ての自作曲も、なんとなく出し惜しみをするようになります。

1970年 に発表した3枚目のアルバム「レディズ・オブ・ザ・キャニオン」には、名声に対する不快感、マネー最優先の社会の弊害、信念を持つ独立した女性が男性に抱く軋(きし)みのような内容の曲もあり、ジョニは仕事とグラハムに対するこれからの関わりについて考え始めていたようです。

Joni Mitchell 「Ladies of the Canyon」

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Conversation
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「グラハムと2人で切磋琢磨してやっていきたいのか、それとも1人でやっていきたいのか、じっくりと考えたの。彼は伝統的な母親像を求めていたようで…。いつも家にいて子育てに励むような女性をね。最後に私は、『砂は強く握りすぎると、指の間からこぼれ出すよ』というメッセージを送って、彼との生活に区切りをつけたの」

 
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それでは次回は、ローレル・キャニオンの名物物件・3階建ての巨大なログハウスに引っ越してきた狂気の才能、フランク・ザッパを中心に紹介します。

*連載5回目「ローレル・キャニオンの記憶|5_フランク・ザッパとログキャビン 」へ続きます*