「メルセデスの黄金時代」と呼ぶべき1950年代から90年代半ばにかけて生み出された車の数々は、現代を生きる私たちの目にはどこか不思議な存在として映るかもしれません。特殊な機能が備わっているわけでもないのにとびきり高価で、特に速いわけでもありません。

ですが、これぞまさに「史上最高の車」と呼ぶべき(呼びたくなる)車なのです。“パゴダ”の愛称で知られるこの「280SL」を、例え短時間でも走らせたことのある人ならば異論を挟む余地などないはずです。

1954年秋に初代が発売された「190SL」は、その美しさと裏腹にパワー不足を否めなかったことは確かです。そうして、それに取って代わる車として生み出されたのがコードナンバー「W113」の「280SL」、通称“パゴダ”でした。高速でスポーティなオープントップGTとして、その後の「SLクラス」を方向づけたモデルであり、初期「SLクラス」の象徴と呼ぶべき1台です。

今回紹介する車両はメルセデス・ベンツ・クラシックセンター所蔵の1968年式「280SL」ですが、これは同モデルの最終形として最大のパワーを誇るモデルです。私(アメリカのカーメディア「Road and Track」編集部クリス・パーキンス氏)がハンドルを握ったカリフォルニア州モントレーの風光明媚な太平洋岸の約27キロの道程は、「これより他にエレガントな車など、この世に存在しないのではないか…」と思わず溜息が漏れるほどのドライブとなりました。

当時の「SLクラス」のライバルと言えば、ジャガー「Eタイプ」、ポルシェ「911」、そしてシボレー「コルベット」が思い浮かびます。私は60年代の「コルベット」にこそ乗ったことがありませんが、67年式「Eタイプ」や同時代の「911」なら何台か運転した経験があります。

今回の“パゴダ”から受けた印象は、それらの車と比べ、はるかにモダンで洗練されたものでした。この車のメカニカルなスペックを見れば、当然の結果かもしれません。

 
RAPHAEL ORLOVE
ステアリングは今見ても絶妙。走りの楽しさもありました

“パゴダ”と言えば、そのベースとなった「W111」および「W112」の各セダンと同様、クラッシャブルゾーン【※編集注:車が衝突時に潰れることでそのエネルギーを吸収し、人や荷物、機械などを保護する働きを持つ空間や部分のこと】を設けることで乗員の安全を追求する、そんな黎明期の1台です。

“パゴダ”は安全性への徹底的なこだわりから、自動車殿堂により「パッシブ・セーフティ(受動的安全性)の父」と称された伝説のエンジニア、ベラ・バレニー氏が手掛けた車です。メルセデスの社史をひも解けば、オーストリア出身のバレニー氏がクラッシャブルゾーンを備えた自動車のアイデアをひらめいたのは1930年代のことでした。1937年には、その設計で特許を取得しています。

現代では当たり前となったコンセプトですが、1960年代当時の車としてはクラッシャブルゾーンの設計は画期的なものでした。“パゴダ”というニックネームの由来となった凹型ハードトップを採用したことで知られる「W113」ですが、このルーフは構造上の剛性を高める役割を果たしています。

フロントはダブルウィッシュボーン、リアはスイングアクスルという四輪独立懸架の設計により、見事な乗り心地とハンドリング性能を両立させています。「280SL」のステアリング性能は、今日の水準と比べても見劣りしない素晴らしさでした。当時において、この車が異次元の存在感を誇ったことは明白です。

他方、オートマチックトランスミッションについては、若干の課題もありました。昔のメルセデスにはありがちなことですが、ともすれば2速ギアで発進しようとしてしまいますし、シフトダウンのたびに大きな音を立てるのです。

ただし、コーナーへの進入前にレバー操作でシフトダウンを行えば、とてもスポーティな走りを楽しむことができました。スポーティでありながら荒っぽさのない、まさに「SL」的な性格を見事に体現した車であったと言えるでしょう。GTカーとしての一つの理想像を、ここに見ることさえできました。

 
RAPHAEL ORLOVE

驚くべきはそのエンジンです。あらゆる“パゴダ”に言えることですが、「280SL」の直列6気筒エンジンにはボッシュ製の燃料噴射装置が採用され、スムーズかつ無駄のないパワーを支えています。このエンジンにより、3100ポンド(約1406kg)という鋼鉄の塊であることを感じさせない驚異のスピード性能を実現しているのです。現在の「SL」に比べればはるかに軽量かもしれませんが、当時の基準からすれば重量級の車でした。

3500rpmを超えた辺りで、6気筒の奏でるサウンドの心地良さがさらに際立ちます。このエンジン音をいつまでも聴いていたいがために、さらにアクセルを踏んでスピードを上げたくなる衝動に駆られてしまうほどです。

「スポーツカー」と言うより、「ラグジュアリーカー」と呼ぶべき車かもしれませんが、“パゴダ”のエンジンとシャシーにはラグジュアリーである以上の何かが秘められているのです。超高速で飛ばさないまでも小気味よいスピードで走りたくなる、そんな車と言えば伝わるでしょうか…。その美しさと魅力には、高い独自性が備わっていました。

当然のことながらインテリアもまた行き届いており、メルセデスに期待するソリッドな感触がまさに車全体から漂ってくるようです。

操作系やスイッチ類にしても近年のメルセデスとはひと味異なる上質感が備わっており、液晶スクリーンなど発明されなければ良かったのにと思ってしまうほど抑制の効いたダッシュボードは、まさに惚れ惚れするほど。3点式シートベルト、パッド入りのダッシュボード、衝撃を吸収するステアリングコラムなど、安全性への配慮も怠っていません。

 
RAPHAEL ORLOVE
気品とノスタルジー漂う存在感は永遠の憧れ

もちろん、その端正なルックスに触れないわけにはいきません。チーフデザイナーのポール・ブラック氏の手によるものですが、この時代のメルセデスの目指したスタイルを見事に体現しています。シンプルな高級感にあふれていながら、気取ったところがないのです。

スポーツカーとしては驚くほど、アップライトなフロントガラスです。が、低いベルトラインと相まって視界が広く、同時代の他の車種や現在の「SL」とは全く異なるプロポーション。「Eタイプ」と比較すると地味な印象を与えるかもしれませんが、これこそが「クリーンで機能的であること」を追求したメルセデス流のデザインでした。今となっては、この控え目な感じがかえって強い印象を与えます。

1968年8月に行われた「280SL」のロードテストの記事には、「精巧なエンジニアリングと完成度の高さを重視する人にとって、これぞこの分野における唯一無二の1台である」という小見出しが付けられています。それから50年の時を経た現在でもなお、この言葉の示す事実に変わるところはありません。

同時代にあってこれほどまでの先進性を備えた車など、ほかには存在しなかったのです。もちろん「Eタイプ」や2リッターの「911」も素晴らしい車ですが、この“パゴダ”はその10年先を行っているような気さえするのです。

「効率的」とは言えない製造過程や輸入の際の為替レートの影響などで、とても贅沢な買い物であったことは間違いありません。しかし、ひとたびこの車の運転席に座れば、その価格に納得しない人などいなかったことでしょう。エンジニアリングという意味でも、またデザインという意味においても、精巧を極めた車だったのです。これが安くつくれるはずなどありません…。

まだ理解できないという人がいれば、一度実際に乗ってみることをおすすめします。きっと、納得するのに時間など不要でしょう。

Source / Road & Track
Translation / Kazuki Kimura
※この翻訳は抄訳です