『ボーはおそれている』は
アリ・アスター監督の
3時間にも及ぶエディパル
(男性の無意識的葛藤)
を描いた作品です

『ボーはおそれている』を見終わった観客は、こう口にするかもしれません。

「私たち、今何を観たの?」

「映画が戻ってた!」

「彼は変わった人ですね...」

「この映画に関するRedditのスレッドができそう」

アリ・アスター監督の3時間にも及ぶエディパル*¹な男性を描いた同作の初上映では、終演後に僕はそんな言葉を耳にしました。

A24製作映画『ボーはおそれている』はさまざまな要素を含んでおり、壮大な冒険、フロイト的な「夢」に対するサプライズ、罪の償い、ドラッグによるトリップ、悲嘆の日記などなど…。ですが、この物語の主軸は愉快なコメディです。

大袈裟で、甘やかされた子どものようで、風変わりな映画とも言えるでしょう。幅広いエンターテインメント性があり、巧妙につくられ、紛れもなく面白い作品でもあります。この映画では、いろいろな事件が起きますが、何が起こったのか? 本当に理解している人はいないかもしれません。

*1:「Oedipal(エディパル)」は、ギリシャ神話の人物「オイディプス」に由来する形容詞で、心理学用語の「Oedipus complexのエディプスコンプレックス」を指しています。この用語はかの心理学者フロイトによって提唱されたもので、「子どもが異性の親(男の子は母親、女の子は父親)に対して無意識の性的な愛情を抱き、同性の親(男の子は父親、女の子は母親)に対して競争心や敵意を感じる」…そんな心理的な段階を指しています。参考文献:『息子と父親―エディプス・コンプレックス論をこえて』(誠信書房)

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
24/2/16公開『ボーはおそれている』予告編
24/2/16公開『ボーはおそれている』予告編 thumnail
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ボーの父親の葬儀の前夜に
不安になるような出来事が…

『ボーはおそれている』は、タイトル通り主人公ボーの誕生から物語が始まります。ですが、これはある意味、この映画で最も誇張なくそのまんま表現された瞬間です。そこから、しわくちゃで青白い48歳のボー(ホアキン・フェニックス)がセラピーを受け、病院から処方された薬「ジプノチクリル」を水なしでそのまま飲み込んでしまったことにより、癌になることを恐れます。

しかし、それよりも差し迫った心配事は、この日はボーの父親の葬儀の前夜であり、母親に会う予定のほうでした。精神が錯乱状態のボーがセラピーから出ると、そこは危険と破壊に満ちたサーカスのような世界に。道行く人々は高層ビルから飛び降り自殺しようとする人物を楽しそうに煽(あお)り、“バースデイ・ボーイ・スタブ・マン”と呼ばれる素っ裸の殺人鬼は街で逃亡。

そして真夜中、ボーが住む部屋の玄関には紙が置かれ、流してもいない音楽の音量を下げるように要求されます。ボーの世界は、いつもこんな感じなのでしょうか? この恐ろしい現実は、単にボーが感じている帰郷への不安が反映されている? もしかすると、彼のセラピストから処方された「超クールな新しい薬」がその幻覚を見せているのかもしれません。

この映画は、何が起きていて、何を示唆しているのか? 人によって異なる解釈を導くことでしょう。アリ・アスター監督がホラー映画に携わってきた経緯を考えると、『ボーはおそれている』はその核心となり、ジャンルで言えばホラーにあたると思う人もいるかもしれません。

実際、この映画は『ヘレディタリー/継承』(斬罪)や『ミッドサマー』(落下死体)といった要素に加えて、これまであまり恐怖として描かれてこなかったけれど“何か”恐ろしいもの(屋根裏、ある意味恐い性交渉、精神病の退役軍人)も展開されていきます。

本作でアリ・アスター監督は、これらのバイオレンス的要素を笑いのネタとなるようなバランスで描いているのです。

『ボーはおそれている』
© 2023 MOMMY KNOWS BEST LLC, UAAP LLC AND IPR.VC FUND II KY. ALL RIGHTS RESERVED.

もし『オズの魔法使い』が
臆病なライオンの視点から
語られていたら、
『ボーはおそれている』
のようになるかもしれません

ホアキン・フェニックスが不器用で神経質なキャラクターを悲しく哀れに演じ、セリフを臆病に読み上げるほど、私は大爆笑しました。他のキャストも、よりわかりやすく面白く見えるように演じています。

きっと監督は、ネイサン・レイン、リチャード・カインド、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、パーカー・ポージーといったベテランの個性派俳優たちを当初からイメージして、脚本を書いたのではないでしょうか。

ですが監督アリ・アスターの野望は、単に大爆笑をとろうとしていただけではありません。この映画が、ポール・トーマス・アンダーソン監督『マグノリア』(187分)とピーター・ジャクソン監督『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』(103分)と同じくらいの長さであることを忘れてはなりません(『ボーはおそれている』は179分あります)。

ボーの冒険はいくつかの章に分かれていて、それぞれの章で一流美術スタッフが独特でグロテスクな世界観を創り出しているのです(プロダクションデザイナーのフィオナ・クロンビーには脱帽です)。特に注目すべきは、映画の中盤で映される「森の中で行われている演劇シーン」――ボーは、(チリ人映画制作者クリストバル・レオンとホアキン・コシーナによって制作された)平面的なセットと明るいアニメーションで彩られた神秘の世界に導かれていくシーンです。

このシーンから、もし『オズの魔法使い』が臆病なライオンの視点から語られていたら…そして、臆病なライオンがこの映画でいう主人公だったら…この映画のようになるのだろうと想像できます。

『ボーはおそれている』
© 2023 MOMMY KNOWS BEST LLC, UAAP LLC AND IPR.VC FUND II KY. ALL RIGHTS RESERVED.

ホアキン・フェニックスが
不器用で神経質なキャラクターを
悲しく哀れに演じ、
臆病にセリフを読み上げるほど
笑ってしまいました

この映画で表現されるマキシマリズム(過剰主義)は、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2023年、『ヘレディタリー/継承』を抑えてA24作品で史上最大の興行的成功を収めました)を連想させます。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と同様に、『ボーはおそれている』も重要なテーマに色彩豊かな刺激、巧妙な美しさ、そしてペニス・ジョークを含んでいます。

私はこの2つの映画を、こう捉えました。

ある種の高尚なコメディの集大成、もしくは単なる始まりに過ぎないのかもしれない。とは言えこの2作品で映し出された騒々しさと現実をねじ曲げる不条理さが、今まさに蔓延しているソーシャルメディアに煽られた不安の反映でもあるんじゃないでしょうか。

そして“マザコン問題”というのは、色褪せることがありません。死への恐怖や、失敗についても同様です。これらは程度の差こそあれ、アリ・アスターが制作してきた過去の作品にも登場しているテーマじゃないでしょうか。

過去作品と『ボーはおそれている』の違いは、監督が悪夢を創り出すのではなく、むしろボーがすでに抱えている悪夢への手がかりを視聴者に想像してもらえるような展開にしている点です。

『ボーはおそれている』はボーのねじれた潜在意識を通じて、「私たちを驚くほどに楽しませてくれる旅のような映画だ」と思っています。

Translation / Miki Chino
Edit / Minako Shitara
※この翻訳は抄訳です

From: Esquire US