一年は祭りから始まり祭りに終わる、大仰に言えば毎年のサイクルになって久しい。正確にはコロナ禍で中止を余儀なくされ、けじめない4年目が始まった。詳しくは11話17話などマイベスト3の祭りについては述べてきたのでそちらに譲るが、これを書き始めた3月1日から奈良東大寺二月堂において修二会、通称お水取りの行が始まった。二月堂の舞台を、大松明をかついで清めるメインイベントに「火祭り」のイメージが定着し見せ場にもなっているが、祭りに欠かせないのが清浄のシンボル「火」の力だ。

大学に入るまで、夏休みのある時期は決って、軽井沢の別荘で過ごしていた。夕方になると祖父(白洲次郎)は「Bar is open」と独り言を言って、ドライマティーニやジン・トニックなどの食前酒をつくり、それを飲みながらストーブに薪を焚べるのが日課だった。部屋の中でパチパチ薪の割れる音に、「ああ、今年も軽井沢にきたんだ」と僕は感じたものだ。

以前は自宅(現・武相荘)の居間にも、石造りの大きな暖炉があって、祖父は籐の椅子に座り、グラスを片手に、じっと燃える火をながめていた、と聞くし、庭の大きな焼却炉で、率先して紙くずを燃やしていた姿からも、祖父は火が好きだったのだと思う。ある晩祖母(つまり妻 白洲正子)が、「火が好きな人は助平なんだって」と言うと返す刀で、「助平でない男がいるものか」と言ったという。

僕も火が好きだ。東京の仕事場にもスウェーデン製のストーブがあり、たまの来客や、独酌に活躍してくれる。軽井沢のそれは火がみえなかったが、僕は部屋を真っ暗にして、眼と耳とモルトで火と一緒になる。

仕事場のストーブ
写真提供:白洲信哉

火の神髄を知ったのは、厳しい修行で知られる比叡山回峰行者の故・光永澄道大阿闍梨の元で、修行の真似事をしたときだった。阿闍梨さんがお経を唱え、大護摩を焚べるそばで、僕もお不動さんの真言を唱えていた。

ノウマク・サンマンダバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン

その熱さたるや、「火がきれい」なんて生易しいものではなく、顔もひりひり、つらく痛い時間だった。が、修行、というのは理にかなったことで、日々の精進により身体の塩分がぬけてくると、火ぶくれもおこさなくなってくる。日を追うごとに火の熱さは和らぎ、お経の音やお香の匂いと混ざって、同じ火が生き物のようになってきた。

それからは外とは別世界、快感の堂内で、あらゆる微妙な変化が直覚できる空間になっていった。お堂の中心はご本尊なのは言うまでもないが、僕は護摩壇の「火」が、僕らと仏様をつないでくれているんだと思った。太古から火は穢(けが)れを祓(はら)い、清浄のシンボルだと腹に入った瞬間だった。

ベランダの焚き火
写真提供:白洲信哉

だが、普段の生活から火は疎遠になってしまった。当たり前だがガスや電気があれば、竃(かまど)や囲炉裏がなくても煮炊ができる。が、縄文の竪穴住居の中心に炉があったように、戦後のしばらくまで一万年を超える日常の住まいに「火」があって、僕らのDNAに刷り込まれてきたのである。

今月6日は土中で冬ごもりしている虫たちが、春の訪れを感じ穴から出てくるという、一年の中で最も好きな響きの節気「啓蟄(けいちつ)」を過ぎたが、三寒四温の春朝夕は冷える。ときには薪を焚べ、炭をおこして夕食の魚を炙るなど、日々の暮らしを時にはリセットし、明日への新たな生を授かるために、火祭りのみならず「火」を生活の一部に取り入れていったらどうだろうか。

炭で猪肉を焼く
写真提供:白洲信哉

白洲信哉
写真提供:白洲信哉

白洲信哉

1965年東京都生まれ。細川護煕首相の公設秘書を経て、執筆活動に入る。その一方で日本文化の普及につとめ、書籍編集、デザインのほか、さまざまな文化イベントをプロデュース。父方の祖父母は、白洲次郎・正子。母方の祖父は文芸評論家の小林秀雄。主な著書に『小林秀雄 美と出会う旅』(2002年 新潮社)、『天才 青山二郎の眼力』(2006年 新潮社)、『白洲 スタイル―白洲次郎、白洲正子、そして小林秀雄の“あるべきようわ”―』(2009年 飛鳥新社)、『白洲家の流儀―祖父母から学んだ「人生のプリンシプル」―』(2009年 小学館)、『骨董あそび―日本の美を生きる―』(2010年 文藝春秋)ほか多数。近著は、『美を見極める力』(2019年12月 光文社新書刊)。