州道29号線
Hidehiko Kuwata
ナパからセントヘレナに向かう通称「ワイン街道」と呼ばれている州道29号線。沿線には世界的に有名なワイナリーがずらりと並びます。

カリフォルニアを縦断するように走る「パシフィック・コースト・ハイウェイ(PCH)」こと、州道1号線。風光明媚(めいび)な景観が多く続く太平洋の海岸線を車で巡るロードトリップは、素晴らしい出会いとの連続です。

この連載では、「PCH」沿いにある注目のエリアを紹介しながら南部の都市サンディエゴ近郊の街テメキュラ(Temecula)からカリフォルニアを北上。メンドシーノ(Mendocino)の街へと目指します。

およそ1000kmにわたるロードトリップ。ワイルドなアトラクションや地域のテロワール(その土地および風土が擁する個性)を反映した個性的なワイナリー、味わい深いオールドタウンに心癒やされるビーチタウンなど偉大なる寄り道をしながら、レイドバックしたカリフォルニアをゆる~く紹介します。

【Vol.12】
ナパ→ソノマ→メンドシーノ

カリフォルニア・ワインカントリーの中で最も有名なナパとソノマへ…。そしてこの旅の目的地メンドシーノへ向かいます。

これはThird partyの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

ナパとソノマはともに1850年頃に誕生したカウンティで、ワイン生産の歴史は1861年にドイツ人のチャールズ・クリュッグがナパ・カウンティのセントヘレナにワイナリーを創設した時代に始まります。以後、シュラムズバーグ、ベリンジャー、前回紹介したイングルヌックなど、現在も生産を続けている歴史的なワイナリーが誕生し、当時すでに140カ所を超えるワイナリーが存在していました。

今回はナパとソノマを代表する、「カリフォルニア・ワインの歴史にそのもの」と言えるワイナリーの物語を紹介しながら、最終目的地の北カリフォルニアの海辺の街メンドシーノを目指します。まずはナパからセントヘレナに向かう、通称「ワイン街道」と呼ばれる29号線を北上。街道沿いには世界的に有名なワイナリーがずらりと並んでいます。


無名だったカリフォルニア・ワインを世界に知らしめたシャトー

ナパ・カウンティのカリストガにある「シャトー・モンテリーナ・ワイナリー」
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ナパ・カウンティのカリストガにある「シャトー・モンテリーナ・ワイナリー」。

1976年5月24日、フランス・パリのインターコンチネンタルホテルでフランスとアメリカの赤白ワインのブラインド・テイスティング大会が開催されました。当時のカリフォルニア・ワインは評価の対象外で、「素晴らしいワインは常にヨーロッパから」とする考えが常識とされていました。

しかし、この試飲会がワインの世界に革命を起こしたのです。審査員はフランスのワイン業界を代表する9人の超一流エキスパート。「誰もが世界トップクラスと認めるブルゴーニュのシャルドネこそがベストだ」と確信していましたが、結果は他のワインを大きく引き離して「シャトー・モンテリーナ 1973」のシャルドネが見事1位を獲得したのです。当時まったくの無名だったカリフォルニア・ワインが、「バタール・モンラッシェ」「ムートン」「オー・ブリオン」といった最高クラスのフランス・ワインを打ち破ったのですから、これは大ニュースになりました。

time
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当時、記者を務めていたジョージ・M・テイバーの記事、「パリスの審判」が掲載された『タイム』誌。右の写真に写る小さなボトルが、「シャトー・モンテリーナ 1973」。

試飲会に立ち会った『タイム』誌特派員のジョージ・M・テイバーは、この歴史的な出来事を「パリスの審判」と題した記事にまとめて発表しました。ニュースは世界中を駆け巡り、ワインの歴史における革命的な事件として記録されたのです。彼はこの試飲会に立ち会った唯一のジャーナリストで、後にこのときの様子を詳細につづった「パリスの審判 カリフォルニア・ワインVSフランス・ワイン」という著作も出版し、同時にカリフォルニア・ワインの成功の歴史なども記され、日本語翻訳版も出版されています。

シャトー・モンテリーナ・ワイナリーのテイスティングルーム。
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シャトー・モンテリーナ・ワイナリーのテイスティングルーム。

パリの試飲会で「シャトー・モンテリーナ 1973」が1位を獲得するまでの物語は、『ボトルドリーム(原題は”Bottle Sock“)』というタイトルで映画化され、2008年に公開されました。映画には、シャトー・モンテリーナ・ワイナリーやナパ周辺の美しい光景が映し出されます。米国では、この映画はワイン愛好家の間でちょっとしたヒット作品になりました。日本では劇場未公開ですが、日本語字幕入りの DVDはリリースされています。

Bottle Shock - Theatrical Release Trailer
これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Bottle Shock - Theatrical Release Trailer - 2008 Movie - USA
Bottle Shock - Theatrical Release Trailer - 2008 Movie - USA thumnail
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カリフォルニア・ワインの歴史に寄り添う、元薩摩藩士の存在

幕末の1865年、薩摩藩の密命を受けて15名の薩摩藩士が留学生として英国に派遣されました。その中には、弱冠13歳の少年もいました。本名は磯永彦輔、後の名は長澤 鼎(かなえ)です。渡英後しばらくは順調でしたが、幕末の動乱の中、薩摩藩の財政が悪化し日本からの公費送金が途絶えがちになり、長澤は困窮するようになります。そこで長澤は面識のあった宗教家で思想家のトーマス・レイク・ハリスを頼って、彼が率いる教団コロニーのある米国へと渡ります。そして、ニューヨーク州のエリー湖畔に広大なブドウ畑を開拓して、ワイン造りに没頭するようになります。しかしハリスは、1875年にさまざまなトラブルのためコロニーを解散することになり、長澤はハリスや彼の家族とともにカリフォルニア州ソノマ・カウンティにあるサンタ・ローザに向かいます。

長澤鼎
Byck Family /Paradise Ridge winery
サンタ・ローザで、ファウンテングローブ・ヴィンヤードを経営していた時代の長澤 鼎(かなえ)。
ファウンテングローブのヴィンヤード
Byck Family /Paradise Ridge winery
19世紀末頃のファウンテングローブのヴィンヤード。

ハリスはサンタ・ローザ近郊に土地を購入し、長澤たちは早速ブドウの作づけを始めます。ブドウ栽培は順調に進み、1882年には念願の醸造設備が導入され、ソノマ・カウンティ初となるワインづくりがスタートします。ワイナリーは「ファウンテングローブ・ワイナリー」と命名されました。このとき長澤は30歳。出荷したワインの評判は上々で、ビジネスは順調に推移していきます。

長澤によって建設されたラウンドバーンと当時のファウンテングローブのワイン
Byck Family /Paradise Ridge winery
長澤によって建設されたラウンドバーンと、当時のファウンテングローブのワイン。

1892年、体調を崩したハリスがニューヨークに戻ることになり、長澤はワイナリーの経営を任されることになります。翌年、丹精込めてつくったカベルネ・ソーヴィニヨンがカリフォルニア州のワイン・コンテストで堂々2位を獲得。この頃には、ファウンテングローブはカリフォルニアで10指に入る規模に成長しており、1906年に他界したハリスの全遺産を継承した長澤は、さらなる投資をして規模を拡大しました。間もなくファウンテングローブはソノマで生産されるワインの90%を占めるようになり、欧州や日本への輸出もスタートします。そして数々の賞も受けて、世界的なブランドへと飛躍していくのです。

こうして「カリフォルニア・ワインの父」と呼ばれるようになった長澤は、40歳代半ばにして財産を築き上げました。しかしその後、さまざまなあつれきが彼を揺さぶります。決定的な試練となったのは、1920年1月17日より施行され、以後14年間にわたって続いた悪名高き禁酒法でした。彼のワイン・ビジネスは大打撃を受けましたが、長澤は決して密造酒などに手を出すことはありませんでした。1934年に禁酒法が廃止されると、貯蔵していた13万ガロンのワインを一気に出荷し、彼のワイン・ビジネスは勢いを取り戻します。しかしその2カ月後、長澤は自宅で83年の生涯を閉じるのでした。

ファウンテングローブの跡地の一部を擁するパラダイス・リッジのブドウ畑。
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ファウンテングローブの跡地の一部を擁するパラダイス・リッジのブドウ畑。

長澤の死後、ワイナリーとブドウ畑は甥(おい)の伊地知共喜が相続しましたが、カリフォルニア外国人土地法の施行により、移民の土地所有の権利が認められなくなったため、所有不動産の精算を余儀なくされたのです。数々の栄光に輝いたファウンテン・グローブ・ワイナリーの歴史は、1953年に惜しまれつつ幕を下ろしました。

ところが長澤の没後60年の1994年、ファウンテングローブの跡地の一部を継承するワイナリーが登場したのです。

2007年の山火事で焼失する前のパラダイス・リッジのテイスティングルーム。現在も敷地内に残っている「love」のオブジェ
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2007年の山火事で焼失する前のパラダイス・リッジのテイスティングルーム。現在も敷地内に残っている「LOVE」のオブジェ。

それがウォルターとマリークのバイク夫妻が1994年に設立した、「パラダイス・リッジ・ワイナリー」です。ファウンテングローブの跡地の一部を擁するこのワイナリーでは、自社の主力ワインに加えて、長澤の名前を冠した小さなシャルドネの畑から、年間300ケースほどのワインを生産しています。

そしてワイナリーの一角には、長澤の羽織、はかま、刀などの遺品や写真などの貴重なメモラビリアの数々を展示していました。しかし2017年、ナパ、ソノマのワインカントリーに大規模な山火事に襲い掛かります。サンタ・ローザの中心部も多くが焼け落ち、灰色に化した空と廃虚になった街の光景が世界に配信されました。そのニュースの中に、「パラダイス・リッジ・ワイナリー焼失」というニュースが飛び込んできたのです。

2019年に再開したパラダイス・リッジのテイスティングルームへの入り口
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2019年に再開したパラダイス・リッジのテイスティングルームへの入り口。

この火災でワイナリーや、長澤のメモラビリア(記念品)が展示されていた小さな博物館も焼失してしまったのです。失われたワイナリーの建物の推定費用は約1500万ドルに達しましたが、2019年には見事再開を果たし、現在も家族経営を貫きサンタ・ローザを代表するワイナリーとして営業を続けています。

カリフォルニア・ワインカントリーの最北、メンドシーノへ

ワイン街道を北上して、「フランシス・フォード・コッポラ・ワイナリー」があるガイザービルで州道128号線に合流します。途中、グローバーデイルという街までがソノマ・カウンティで、さらに道なりに北上するとメンドシーノ・カウンティに入り、ブーンビルからフィロの間がメンドシーノ・カウンティのワイン産地アンダーソン・バレーの中心です。

周辺には、フロンティア精神にあふれるワイナリーが点在していて、ナヴァロ・リバーの清流、メンドシーノの海岸から流れ込む深い霧、北カリフォルニア特有の気候がもたらす極端な寒暖差、これらの大自然の恵によって、アンダーソン・バレーはピノ・ノワールの産地として高評価を得ているのです。

メンドシーノ・カウンティのワイン産地、アンダーソン・バレー
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メンドシーノ・カウンティのワイン産地、アンダーソン・バレー。
110年前からこの場所に建っている「ハッシュ・ヴィンヤード・ワイナリー」のテイスティングルーム
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110年前からこの場所に建っている「ハッシュ・ヴィンヤード・ワイナリー」のテイスティングルーム。

州道128号線沿いにあるフィロの街にある「ハッシュ・ヴィンヤード・ワイナリー」は、アンダーソン・バレーで最も古いワイナリーです。設立は1971年。この年にアンダーソン・バレー初となるピノ・ノワールの作づけが行われました。現在のオーナーは3代目のザック・ロビンソン氏で、メンドシーノの農家協会の会長も務めています。彼は古い納屋のようなテイスティングルームを指さして、「この建物は110年も前からこの場所にあるんだよ」と教えてくれました。

「ハッシュ・ヴィンヤード・ワイナリー」のブドウ畑と3代目オーナー、ザック・ロビンソン氏
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「ハッシュ・ヴィンヤード・ワイナリー」のブドウ畑と3代目オーナー、ザック・ロビンソン氏。

このワイナリーでは自然の生態系を保護するために、設立間もない時期から自然環境に配慮した農法を取り入れています。ブドウの搾りかすは堆肥として利用し、ブドウ畑の雑草刈りは羊に任せ、ブドウの根を荒らすホリネズミ対策には、フクロウの巣箱を畑の上に設置して、フクロウによるホリネズミ狩りを行うなど、サステナブルな対策でブドウに実害が及ばないようにコントロールしているのです。

テイスティングルームでザックが誇らしげにグラスに注いでくれたのは、「2009 GRAND OZ Mendocino」です。尊敬する祖父の名前を冠した、生産量年間100ケース以下という希少なワインです。カベルネとメルロー、シラーをブレンドしたボルドー・スタイルです。ここのワインは米国のレーガン元大統領が主宰した北京での晩餐会、大統領専用機エアフォースワンでのディナーにも提供されたことがあるのです。

153年の歴史を持つpch沿いのポイント・アリーナ灯台
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153年の歴史を持つPCH沿いのポイント・アリーナ灯台。西海岸最古の灯台です。

フィロからは再び州道128号線を北上して太平洋岸に出たところで、シリコンバレーの手前で離れたパシフィック・コースト・ハイウェイ(PCH)に合流します。フィロからメンドシーノまでは1時間弱のドライブです。北カリフォルニアもここまで来ると、PCHから望む太平洋の光景も南カリフォルニアやセントラル・コーストとは大きく異なります。切り立った崖の続く海岸線と岩にぶつかって砕ける白い波が、北カリフォルニアの冷涼感にさらに拍車をかけます。

メンドシーノの中心にあるヘッドランド歴史地区には、地元の木材セコイア材を用いて19世紀半ばに建設された歴史建造物が軒を連ねています。そのシンボリックな建造物が、1878年創業の「メンドシーノ・ホテル&ガーデン・スイート」です。

建物の規模としては小さいですが、実にホスピタリティの高いフルサービスのホテルです。箱庭のような小さな街は小高い丘から海に向かって広がっており、どの通りも緩やかな勾配が続きます。天気の良い日も北カリフォルニア特有のピリッとした海風が頰をかすめ、メンドシーノ湾のほうを眺めると、岩だらけの海岸線の景観が周辺を包む霧の深さで刻々と変化していきます。

ケリー・ハウス・ミュージアム
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上:1878年創業の「メンドシーノ・ホテル&ガーデン・スイート」  下:メンドシーノにおける19世紀の典型的な家庭生活や伐採業と海運業などの仕事の歴史を展示した「ケリー・ハウス・ミュージアム」。

さて、南カリフォルニアの砂漠のオアシス、パームスプリングスからスタートしたこの旅も、カリフォルニア最北のワインカントリーであるメンドシーノで終了です。

砂漠から太平洋岸に出て、パシフィック・コースト・ハイウェイを北上する旅。南カリフォルニアのブライトでトロピカルな風景は、セントラル・コーストに入ると自由に満ちた雰囲気に包まれ、ベイエリアから北カリフォルニアに入ると周辺の風景の色合いが濃くなり、日差しの強さよりも海風の冷たさを実感します。

地域ごとの自然の変化は、ライフスタイル、街の文化、そして食やワインの趣向に大きく影響します。カリフォルニアを旅するとこういった変化を顕著に実感でき、これこそがゴールデンステートと呼ばれるカリフォルニア州の大きな魅力なのです。